高校時代には漠然と小説家か建築家になりたいと夢想していた。言いたいことがうまく口から出てこない、何が出てくるかわからない吃音というエラー発生装置を身のうちに抱えていたわたしには、執筆という言語的構築の理念的な世界はある種の駆け込み寺(アジール)として映ったのだろう。リアルタイムな反応を強いる身体的コミュニケーションの世界と異なり、自分のペースで時間をかけて記述するという行為によってはじめて、自分の本当の考えが表現できると考えていた節がある。いま思うと、「本当の考え」なるものの妥当性も疑わしいものだし、仮に存在するとしてもそれが身体性を欠落したところから生まれるわけはないのに、と我ながらツッコミを入れたくなるが、当時の自分の脆い自己同一性(アイデンティティ)を支える上で大きな救いとなったことは確かだ。
 フランスの高校生にとって、高校卒業資格と同時に大学入学資格であるバカロレアに備える勉強が人生で迎える最初の難関として立ちはだかる。バカロレアにはL(littéraire(文学))、ES(économique et social(経済と社会))、S(scientifique(科学))の3種類のコースがあり、高校に進学する時に振り分けが決まるのだが、高校3年時には哲学の授業が全てのコース共通で必須となる。わたしが進んだ理科系は数学や物理を専攻するので、同じコースの学生たちの間では、哲学の授業というものはひどく難解で退屈なものだという先入観が共有されていたが、自分は逆に自然科学と同じような論理を言語概念に適用することが学べるのではないか、という風にうっすらと期待していたように覚えている。
 ここで少し回り道をしよう。実は中学から高校2年までをパリの学校で過ごした後に、高校3年時にロサンゼルスに引っ越すことになった。パリ在住の最後の年となった高校2年の時に、父の配属がロサンゼルスになり、両親は渡米したのだが、わたしは兄と共にパリに残ってバカロレアに備えるつもりだった。しかし、というか、案の定というか、親の監視から自由になったわたしは盛大に学校をサボりはじめ、映画館や美術館や友達の家に入り浸ったり、剣道の道場で稽古に精を出したり試合に出場したりしているうちに、勉強が全く追いつかなくなり、悪友たちと仲良く揃って落第勧告を受けてしまったのだ。それまで学業が順調だと信じていた両親には烈火の如く怒られ、自由のパリを離れてロスの親元に強制送還されてしまったのだった。
 しかし、当時のフランスの奇妙な制度が幸いして、わたしは留年を免れ、ロスのフランス人高校の最終学年に進学した。その制度とは、高校1年時と3年時で点数が足りなければ即刻落第、留年が決まるのだが、なぜか高校2年時なら落第勧告で済むというものだ1。そうして入学したロスのフランス人学校は私立校だったので、パリの公立校と違って、超少人数で授業が行われた。科学系コースでは5人しか学生がおらず、家庭教師のように手取り足取り教えてもらったことで、遅れていた勉強をすぐに取り戻すことができた。

 さらに幸運なことに、わたしの担任だったプトトン先生は、古代から現代に至るまでの哲学的概念の歴史を学ぶ楽しさを軽妙に教えてくれ、同時に深い次元も垣間見せてくれる優れた教師だった。彼の指導のおかげですっかり哲学の課題にのめり込んだわたしは、親に初めて買ってもらったパソコンでインターネットに接続し、教科書に書いてある文献を調べながら、論文を書き上げることに夢中になった。それはある種のゲーム性を帯びた作業だった。たとえば「芸術に人間は何を求められるのか?」という、禅の公案のように短い設問に対して、10ページほどにわたって、先人たちの考えを引用しながらヘーゲル弁証法の流れに沿って章立てを組み立て、最後に結論を述べる。すでに学問の歴史に刻み込まれた哲学者たちの概念を調べ、それらを接合した後に初めて自分の主観的な考えを導入するという規則が、自由度の高いゲームのように感じられたのだ。
 ここで挙げた芸術の問題でいえば、導入部分で設問を解題し、人間と芸術の関係性を前提として、芸術の効能について考えることを宣言する(設題)。そこからカントからマルローまでを引用しながら、宗教芸術からポップアート、そして近現代の技術至上主義という歴史的な流れを追い、芸術が人間社会で果たした効能の変遷を分析する(正)。次に、フーコーが考察した「非合理の排除」の論理を援用しながら、感情が経済的対象として扱われるようになったことを示し、「効能」という視点が芸術における主観的かつ美的体験という合理性に還元できない価値を捨象してしまうことを指摘する(反)。最後に、速度と快適さの論理が支配する現代社会において、逆に芸術という観念が人間にどのような変容を求めているのか、そのことこそが問われている、と結語する(統合)。
 これは実際にわたしが高校3年時の最後に書き、フランスの高校では異例な20点(フランス式では20点が満点)を取った論文の骨子だ。当時まだ30代の哲学教師だったプトトン先生は、赤い採点メモで、論旨の曖昧な部分を指摘し、明晰な部分を評価してくれただけでなく、たくさんのジョークも書いてくれた。なかでも、論文の氏名表記欄に書いたわたしの名前に赤ペンで追記し、Dominique Chenを「Dominique (est dé)Chen∨!(né!)」(ドミニク・エ・デシェネ)と書いてくれたことが心底嬉しかった。これはわたしの名字であるChen(フランス語ではチェンともシェンとも読める)と「se déchaîner」という動詞(鎖から解き放つ、暴れまわる)をかけたダジャレで、直訳すると「ドミニクは鎖から解き放たれた!」になり、なかなか原語のニュアンスを意訳するのが難しいのだが、あえて書いてみると「ドミニクが大暴走してる!」というようなくだけた感じになる。そしてその下には、火の影を実像と見誤っていた囚人の寓話を説いたプラトンの洞窟の比喩と掛けて、「君は今、縄を解かれた囚人のように、哲学者になろうとしているのか」というメッセージが添えてあった。
 書かれた意味内容ではなく、構造に十分な強度があれば、たとえ意見が異なっていてもコミュニケーションの回路が開ける。そして、アジア文化を背景に持つ他民族系であるわたしのような学生も、同じフランス語文化圏の成員として評価されるということをプトトン先生は教えてくれた。アジアの出自とフランスの教育の間でアイデンティティがひどく揺らいでいたこの時分のわたしは、彼の激励の言葉に実存的な救いを感じた。普遍的な言語的論理の力は、わたしという存在を構成するバラバラなパーツを束ねて再接続(religare)する、ひとつの宗教(religio)だった。後に言語への過信を捨て、再び身体性の複雑系に突入することになるのだが、表現行為が自己を創発するというその時に抱いた実感は今に至るまでわたしの奥底で脈を打ち続けている。
 無事、バカロレアに合格したわたしに、プトトン先生はパリで哲学を本格的に勉強する道を勧めてくれた。そこでソルボンヌ大学の哲学科に入学申請を送ったところ、合格通知を受け取った。しかし、わたしは先述した哲学の論文で対象とした、特にコンピュータを用いたデザインと芸術表現を実践的に学ぶことにも同様に心を惹かれていたのだった。
 そしてSATというアメリカの大学進学のための共通受験を受け、それまでコツコツ作り溜めていた写真やCG作品をポートフォリオにまとめ、カリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)のデザイン・メディアアート学科に入学申請を送ったところ、合格することができた。相当に悩んだ挙げ句、フランスではコンピュータ表現をアメリカのレベルでは学べないが、アメリカでも哲学は学べる、という結論に至って、ロサンゼルスでの生活を続けることにした。
 UCLA入学の報告をした時のプトトン先生の残念そうな、寂しそうな表情は忘れられないし、自分としてもなぜそれまで履修していた理系の勉強や哲学ではなく、美術という未知の選択肢をとったのか、今となってははっきりと思い出せない。

1 余談だが、2012年の国民学校制度評議会の調査によれば、フランスはOECD諸国のなかで5番目に多く15歳の落第者を出していたが、2014年の社会党政権の教育相が落第は特例ケースに限るという方針を打ち出した。しかし、マクロン政権の教育相は、この方針を再び覆そうとしている。

(7回目につづく)