現在の日本の子どもの本は、敗戦の焦土の中に誕生しました。なかでも石井桃子さんの存在を措いては語れません。「いしいももこ」はおもしろい本の印、と多くの読書好きが敬愛をこめて語る、石井桃子とはどんな人だったのか。

 石井さんはまずA・A・ミルン「クマのプーさん」シリーズ、ケネス・グレーアム『たのしい川べ』、ビアトリクス・ポター「ピーターラビット」シリーズ、ディック・ブルーナ「うさこちゃん」シリーズ、エリナー・ファージョン『リンゴ畑のマーティン・ピピン』など古典的名作をいち早く紹介した翻訳者として、また『ノンちゃん雲に乗る』など戦後日本を代表する作品の創作者として、そして戦争中は山本有三に誘われて「日本少国民文庫」を、戦後は吉野源三郎ほかに請われて「岩波少年文庫」を立ち上げた優れた編集者として、児童文学の基礎を築いたことで知られています。
 また、戦前には友達と「白林少年館」という子どものための図書室と出版部をつくり、戦後は誰もが本に触れられるよう自宅を開放して家庭文庫(かつら文庫)にしました。1907年に生まれ2008年にこの世を去るまでの101年、その晩年までを「子どもの本」に捧げ、日本中の子どもたちに本を読むよろこびと、「生涯忘れがたい一冊」を届けた人です。
 小特集の冒頭で、この稀有な人生と豊かな仕事を、アルバムと略年譜で紹介しました。

 今年2014年は、石井さんが尽力した「東京子ども図書館」の40周年と、「かつら文庫」のリニューアルオープンが重なる、記念の年。理事長の松岡享子さんに、図書館の草創期から、「お話会」など現在も続いているユニークな活動についてうかがいました。この、「子どもにお話を聞かせる」ことに、子どもの心に言葉がまっすぐ届き、いつまでも古びないといわれる〈石井さんの翻訳の秘密〉が隠されていたのです。

 詩人の谷川俊太郎さんは、子どもの本の翻訳も多数手がけてきた言葉の達人です。その衰えを知らない創造と翻訳の源泉をおたずねするうち、「〈子ども〉は自分そのもの」、いまだに自分の中に〈子ども時代〉があるというお話をうかがって、石井桃子さんの生き方に通底する核の部分に思いあたりました。

 小特集の最後は、石井さんの手がけた作品の読み巧者による解読、「石井桃子のこの一冊」。松浦寿輝さんはケネス・グレーアム『たのしい川べ』を選ばれました。「このお話は実はこれほど豊かな物語だったのかという驚きが、還暦を迎えようとする現在まで続いているこの本とのその濃密な付き合いの、原点にあった」と、石井訳に出会った衝撃と、その魅力を鮮烈に明かしてくださいました。
 川本三郎さんは『ノンちゃん雲に乗る』を。「面白いのは、ノンちゃんの家のエスが放し飼いされていること。……郊外住宅地の小市民家庭では子供が大事にされていた。下町の子供が早くから実社会に出たのに対し、郊外住宅地では子供時代が長く、子供のための文化が生まれた」、当時の世相と物語の新しさが、具体的な指摘から垣間見えてきます。
 水村美苗さんは、石井桃子の長編小説『幻の朱い実』を読み込んでくださいました。「女友達の手紙の引用が多用されていますでしょう……あそこまで『地の文=自分』とは異質なものをそのまま引用してしまうなんて、実に潔い決断ですね」と、小説の技法に目をとめ、20代の大切なことを秘めに秘めて80代になってから書き上げた石井さんの姿勢も激賞しています。石井桃子の晩年に輝く新機軸であり論争の種でもあった本書の、新鮮な解読です。

 この小特集で、谷川さんと水村さんのインタビューの聞き手を務めていただいた尾崎真理子さんの、足掛け20年におよぶ力作『ひみつの王国――評伝 石井桃子』が6月末に小社から刊行されます。好評刊行中のとんぼの本『石井桃子のことば』(中川李枝子、松居直、松岡享子、若菜晃子ほか)とあわせて、この機会にぜひ石井桃子さんの全貌に触れ、200冊を超える石井桃子ワールドをお楽しみください。