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食べる葦

 アラブ世界で「肉」といえば、それはヒツジ肉である。
 豚肉はイスラム教でタブーとされていて、食べることはおろか、触ることも許されない。私が住んでいたエジプトでは、ごく限られた場所でマイノリティーのコプト教徒がほそぼそと扱っている程度だった。
 牛肉は食べてもいいのだが、固くてまずいので人気がなく、下町の肉屋などに並ぶことはまずない。年取った役牛をつぶした肉しか出てこないからだ。食肉用として肥育した牛の肉は高く、外国人相手の店でしか売られていない。したがって大衆が牛肉を食べることはめったにない。
 トリ肉屋はトリ専門の店でしか売っていない。彼らにとってトリは「トリ」であって「肉」ではないらしい。
 ラクダ肉は安いのだが、脂肪が多くてアクが強すぎ、あまり食べられない。町の肉屋には置かれておらず、貧困層が住む地域のラクダ専門店でなければ手に入らない。人々は干して脂肪を落とすなどしてから調理している。
 したがって、肉屋でふつうに売られている肉はヒツジ肉、ということになる。
 そのヒツジ肉だが、アラブの多くの国の中でイラクが断然うまかった。ヒツジ肉なんてしょせんヒツジ肉、あんなもの国によって差があるはずはないと思われるかもしれない。しかし肉の柔らかさ、脂身の甘さなど、イラクで食べたヒツジは確かにうまかったのである。

逃げてしまった入管職員

 2003年3月20日、米軍を中心にした有志連合軍がイラクに侵攻した。イラクのサダム・フセイン大統領が核兵器などの大量破壊兵器を隠し持っているという理由である。連合軍は各地でイラク軍を蹴散らし、首都バグダッドに向かって進軍した。戦闘が続いている4月初め、その取材のためバグダッドに入ることになった。
 その12年前の湾岸戦争いらい、外国からバグダッドに飛行機は飛んでいない。私たち報道陣がバグダッドに入るには、西隣ヨルダンから車で行くしかなかった。距離は約1000キロ。日本でいえば東京―福岡に相当する。
 ヨルダンの首都アンマンでタクシーを探した。戦争中なのだから運転手は行きたがらない。半日かけて探し回り、やっと古いタクシーを確保した。条件はドル払い、それも平時の5割増しの1500ドルだが、仕方ない。車は1981年製の古いシボレー・カプリスだ。20年以上物。古いというより、ポンコツに近い。運転手はカセム君という独身の若者で、「右のドアがカーブで勝手に開いてしまうから気を付けてくれ」といった。
 カセム君は出発前、スーパーで食用油や赤ん坊の粉ミルクなどを大量に買い込み、トランクに詰め込んでいた。戦時下のバグダッドで売るのだという。「どうせ危険なところに行くなら、ついでに商売も…」ということらしい。
 イラクでは、フセイン政権が崩壊して治安が悪化しており、武装強盗が出没している。障害物を置いて車を停め、銃でホールドアップする。欧米のテレビクルーが、現金だけでなく、テレビカメラなどの撮影機材をごっそり奪われたケースも耳に入っていた。
 出発は深夜の午前零時だった。イラク国境までは300キロ余ある。カセム君によると、夜の間は安全なヨルダン側を走り、イラク側の600キロ余は明るくなってから走るのだという。
 「あんた殺されたくないだろ? おれもだ」
 国境に着いたのは未明だった。検問に行列しているのは、各国のテレビ局のランドクルーザーやワゴン車ばかり。日本のNHKや、韓国のSBCなどもいる。ポンコツのシボレーなんか、私の車だけだ。その間を、迷彩服にヘルメット姿の米兵が7、8人、銃を構えて巡回していた。
 しかし入国管理のイラク人管理官はたった一人だった。入国審査の列はなかなか進まない。こちらの順番になったとき、管理官に「なぜ一人しかいないのか」と文句をいった。すると彼は米兵の方をあごでしゃくり、「米軍がやって来たとき、ほかの管理官はみんな逃げてしまった」。

戦時下でも営業中

 午前6時過ぎ、やっと通関を終える。ほっとすると同時に腹が空いてきた。しかしなにせ戦争中だ。街道筋の町は静まりかえり、開いているレストランがない。空腹を抱えたまま走り続けた。
 後部座席でうとうとしていると、突然、カセム君がブレーキを踏んだ。はっとして前を見ると、道路の中央に大穴が開いている。爆撃の跡だ。直径20メートルほどもあり、かなり深い。舗装に埋め込んだ鉄筋がめくりかえっていた。穴から30メートルほど先に、真っ黒に焼け焦げたバスが放置されている。爆撃に巻き込まれたらしい。その先では陸橋が直撃弾を食って道路に垂れ下がっていた。
 午前9時、ルトバの町に着く。なんと、道路わきのドライブインが開いていた。肉をあぶるいい匂いがしてくる。ああ、朝飯にありつける。駆け込むように店に入った。
 奥に細長い店だった。壁に沿ってデコラの安物のテーブルが7席ほど置かれている。客はヨルダンからやってきたトラックの運転手たちがほとんどだ。
 入り口のコンロで肉を焼いている。ヒツジ肉のぶつ切りを5、6片、タマネギの半月切りと交互に鉄串に刺して焼く。ティッカという串焼き料理だ。それに焼きトマトがつく。調味料はテーブル上の塩とコショウだけだ。
 パンはエイシュと呼ばれる種なしパン。直径20センチぐらいの丸くて平べったいパンだ。それが7、8枚、皿に山盛りでどんとテーブルに置かれる。そのパンを半分に切って開き、そこに羊肉、焼きタマネギ、焼きトマトを押し込み、かぶりついた。
 ジュウジュウと熱い脂身。肉汁がパンにしみこむ。そこに、つぶれた焼きトマトの酸味とタマネギの辛みが絡み、たまらない味である。空腹だったこともあるが、こんなにうまいヒツジ肉を食べたのは初めてだった。カセム君は「イラク人はアラブ一のヒツジ食いだ。だからうまいんだ」といった。
 アラブの他の国で、ヒツジ肉の串焼きのことは「ケバブ」と呼ぶ。ヒツジ肉のひき肉を串に握りつけて焼いたものは「コフタ」だ。しかしイラクでは、コフタのことを「ケバブ」と呼び、ケバブのことは「ティッカ」という。
 「ヒツジ肉については、自分たちは他のアラブ人とは違うと思ってる証拠だ」とカセム君はいった。

ボルト引く音に「撃つな!」

 バグダッドの繁華街「サドゥーン通り」の店はすべてがシャッターを下ろしていた。しかし5月1日に米軍が戦争終結を宣言すると、あちこちで店が開き始めた。それからというもの、店を探してはヒツジ肉を食べ歩いた。
 地元の人のおすすめは、市中心部にある「アルアウエル」という店だった。 「ザ・ナンバーワン」という意味だが、その名の通りうまい店だった。
 経営者はハレド・ブトロス・マンスールさんといった。北部モスル生まれの45歳。代々モスルの肉屋だったが、思い切って5年前にバグダッドでティッカのレストランを開業した。初めは10席ていどだったが、味のよさで評判となり、たちまち200席に増えてバグダッド最大の店となった。従業員は60人もいる。朝7時から深夜の12時までの営業時間を、2交代で勤務させている。

『うちの羊肉はバグダッドで一番さ』と語るハレドさん(バグ
ダッドのレストラン「アルアウエル」で)。

 「肉の決め手は脂身だ。脂身は肉にうまみを与える。そんな脂身のうまいヒツジは、モスルの草を食っているやつだけなんだ」

 長男はモスルに残り、肉屋をやっている。ヒツジ肉はそこから送らせている。
 人類の先祖は、旧約聖書によるとアブラハムということになっている。4000年前にイラク北部のチグリス川の上流で暮らしていた羊飼いだ。コーランだとイブラヒームと呼ばれる。
 「そのころからイラク人はヒツジを食べていたんだ」
 その年季の入ったヒツジ食い文化がうまいヒツジをつくり出し、うまい食べ方を生み出したのだとハレドさんはいった。
 ハレドさんはイラクでは少数派のキリスト教徒だ。3000万人口のうち、わずか100万人。しかし「私の属するカルディーヤ部族は、イスラム教が始まる前からのキリスト教徒なんだ」と胸を張った。
 米軍の侵攻の日は店を閉めた。従業員を5人ずつ交代で、銃を持って泊まりこませた。略奪防止のためだ。5人は客席のテーブルを倒して盾がわりにし、その後ろにマットレスを敷いて寝た。

 4月6日、米軍がバグダッドに入ってきた。イラク兵は逃げてしまった。そのあと、米軍が一軒一軒しらみつぶしに調べて回った。アルアウエルにも米兵がやってきて、表の大きなガラス戸を銃床で割って中を覗き込んだ。戦争による被害は、そのガラス1枚、約5000円分だけだった。
 4月11日午後3時ごろ、その割れたガラス戸から4人組の若者が入ってきた。従業員が銃を構え、ボルトを引いた。無人の店内でガチャリと音が響く。とたんに若者たちは手を挙げ、「撃つな!」と叫んだ。「おれたちは店がやっているかどうか見に来ただけなんだ!」。 
 じりじりと後ずさりし、表に出ると走って逃げて行った。
 店は、戦闘終結宣言を待たずに再開した。相変わらず満員の客だ。
 ハレドさんは米軍を歓迎していた。米軍がサダム・フセインの恐怖政治を壊してくれた。これで自由にものがいえる社会になる、と感じたからだ。
 しかし、略奪などが頻発している。それでも米軍を歓迎するのか。
 「米軍は、サダムによる秩序を壊した。秘密警察も軍人も逃げてしまった。だったら当然、次の秩序ができるまで市民生活を守ってくれるだろう。銃の回収、犯罪の取り締まり、電気や水道の復旧…」
 しかし、戦後の混乱は収まらなかった。米軍は真剣に治安維持に努力しているようには見えなかった。強盗が自動小銃を手に押し込みをする。対立するイスラム教各派がテロを繰り返す。それでも米軍は動かない。人の集まる場所で爆弾テロが起きるようになった。

ふたが開いたパンドラの箱

 米軍は、12年前の1991年にもイラク軍と戦っている。湾岸戦争だ。
 90年8月、フセイン大統領のイラク軍がクウェートに侵攻し、占領した。それに対し、米軍を中心とした多国籍軍が91年1月17日未明、空爆を開始する。私はそのとき新聞社の中東特派員で、前年暮れからバグダッドに入っていた。
 2月24日、地上戦が始まる。サウジアラビアで待機していた50万人の米軍が一気にクウェートになだれ込んだ。イラク軍はあっけなく崩れ、クウェートは26日に解放される。追撃する米軍はたちまちイラク国境に達した。
 米国内では、このまま突っ込んでバグダッドを陥落させ、フセイン体制をつぶすべきだとする意見も多くあった。総司令官のシュワルツコフ将軍は後にテレビで「私は攻撃続行を進言した。そうすればイラク軍を完全に壊滅させることができたからだ」と語っている。
 しかし、当時のブッシュ(父)大統領は2月28日、戦闘停止を命じる。4月6日、イラクが停戦協定を受け入れたため、多国籍軍がイラクに攻めこむことはなかった。
 パパ・ブッシュはなぜ国境で進軍を止めたのか。
 クウェート解放で開戦の目的が達成されたから、というのが表向きの説明だ。しかし中東ウォッチャーの間では「ブッシュはパンドラの箱を開ける愚を犯したくなかったのだ」という見方が強かった。
 イラクは寄せ集め国家だ。外務省の資料によると、人種的にはアラブ人が約80%、クルド人が15%、その他が5%。宗教的にはイスラム教シーア派が60%、スンニ派が30%、その他キリスト教などとなる。
 もともと「イラク」という国家があったわけではない。第一次大戦まではオスマントルコの広大な支配地域の一部だった。戦争で勝利した英仏が、それを勝手に線引きして分割した。そこに住む人間の都合や地形、気候などは無視された。今の中東・アフリカの国々の国境はほとんどがそうだ。
 そのため、住民の国家への帰属感は薄い。彼らが一体感を持つのは「シーア派」か「スンニ派」かの宗教宗派意識であり、「アラブ」か「クルド」かの民族意識なのである。
 オリンピックでシーア派の選手が勝っても、スンニ派の人々は冷ややかだ。クルド人の選手が金メダルを取ってイラク国旗を掲げても、アラブ系住民は素知らぬ顔をする。「にっぽんチャチャチャ!」でかんたんに盛り上がってしまうわが国とは大きく違う。
 国民が一つにまとまらずにばらばらな社会、宗教や民族の対立で殺し合いまで起きる社会。そんな社会を、サダム・フセインの恐怖政治で何とか国家の格好だけつけてきた。
 シュワルツコフ率いる多国籍軍がフセイン体制をつぶすのは容易だっただろう。しかし、求心力がない社会、対立のみ目立つ社会で「恐怖の重し」を取り外してしまったら何が起きるか。イラクはばらける。開いたパンドラの箱からは、あらゆる不幸が飛び出す―。
 当時のベーカー国務長官やパウエル統合参謀本部議長らは、国境で踏みとどまることを進言した。パパ・ブッシュはそれを採用したのである。
 03年のイラク戦争では、国際社会の多くが開戦に批判的だった。とくに独仏は、ホワイトハウスの怒りを買ってまで強硬に反対した。国務長官になっていたパウエル元統合参謀本部議長も慎重論だった。にもかかわらず息子のブッシュ大統領は、チェイニー副大統領やラムズフェルド国防長官らの積極論を入れ、フセイン政権打倒に踏み切ってしまった。
 結果はご承知の通りだ。スンニ派とシーア派はテロの応酬におちいり、強盗略奪を取り締まる力はなく、クルド人は勝手に自分たちだけの統治運営を始めた。米国はそれに対し、何の手も打たなかった。
 1945年に太平洋戦争で敗れた日本には、国家的一体感はあった。天皇はそのまま存在し、警官もそのままで犯罪を取り締まっていた。「われわれの国をつくり直そう」という言葉は、抵抗なく受け入れられた。略奪や強盗で市民生活が崩壊してしまうようなことはなかった。GHQは、日本政府に指示だけ出して、あとは任せていればよかった。
 イラクは、国連の構成国としては日本と同格の「国」である。しかしその中身はまったく違う。息子のブッシュ大統領には、それが分かっていなかったのだろう。
 03年5月になって、多数派のシーア派指導者が、イラン型のイスラム国家建設を主張するようになった。宗派対立は相変わらずで、治安はちっともよくならない。人の集まる場所で爆弾テロが起きるようになり、とくにレストランが狙われた。「アルアウエル」には客が来なくなった。
 05年、ハレドさんが店を閉めたという話を聞き、東京から携帯に電話した。
 「バグダッドに出たのは間違いだったよ。家族が無事なうちにモスルに帰る。もういちど肉屋から始めるよ」
 14年6月、そのモスルは過激派「イスラム国」(IS)に占領された。イラク軍との戦闘が激化し、町並みは爆撃で徹底的に破壊された。
 2017年、イラク軍がモスルを奪還したと宣言した。しかしハレドさんの携帯には、何度電話しても応答はない。

黒煙を上げて燃えるイラク・テレコムのビル。消防車もパトカーも来ず、人々はいつも通り歩き回っていた。

 

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考える人とはとは

 はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
どうして自分が「考える人」なんだろう―。
手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか―手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。

「考える人」編集長
金寿煥

著者プロフィール

松本仁一

1942年、長野県生まれ。東京大学法学部卒。1968年朝日新聞社入社。ナイロビ支局長、中東アフリカ総局長などを経て編集委員。2007年退社後はフリーで活動。『アフリカを食べる』『カラシニコフ』『アフリカ・レポート』『兵隊先生』等、著書多数。

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