もう30年以上もまえのことになるが、新宿ゴールデン街の酒場で飲んでいたら、同行の友人が、カウンターのとなりに坐った男となにかぼそぼそと話しはじめた。話のようすでは、以前、友人がニューヨークに住んでいたころ、そこで知り合った人物みたい。
 しばらくして、その見知らぬ男が友人ごしに「ツノさんですね」と声をかけてよこした。「ええ」と答えると、
「市川みやびですよ。おぼえてます?」
 はあ、あの舞踊評論家の? お名前はもちろん存じあげてますよ。『舞踊のコスモロジー』という著書を読んだこともあるし、現代思潮社からでた『ニジンスキーの手記』の翻訳者でもある。
 でも会った記憶はない。
「ええと、どこかでお目にかかりましたっけ?」
 そう答えると「ハハハ、やっぱりね」と市川さんは笑っていった。「あなた、子どものころ上落合に住んでたでしょ。ぼくの家がすぐ近所でね、RちゃんやIちゃんとは、いつも一緒に遊んでたんですよ」
 上落合とは西武新宿線中井駅の南側にひろがる町で、たしかに私は小学4年から大学に入学したのちまで、その町に住んでいた。Rとは2歳下の弟の名、Iは6歳下の妹。市川さんは私の1歳上で、小学生のころ、私の家のまえにあった空き地で、毎日のように近所の子どもたちと遊んでいたらしい。
「あなたはたいてい本を読みながら歩いてたからな。それでおぼえていないんでしょう」
「えっ、いや、ぼくだってあそこではよく遊んでましたよ、夕方になるとよく蝙蝠こうもりが飛んでましたよね」
 ――と、こう書いている現在は2018年5月4日。そこからかぞえて73年まえ、敗戦の年の5月25日に、上落合の町はアメリカ軍の空爆によって一面の焼け野原と化した。それから3年がたち、ようやく新しい家屋があちこちに建ちはじめる。そのうちの一軒が父のつとめる会社の社宅で、家の向かいはまだ焼け跡のまま。そこが子どもたちの遊び場になっていたのだ。
 私の家をはさんで遊び場の反対側もやはり大きな空き地になっていて、当時は知らなかったが、焼けるまえはそこにエノケンとならぶ昭和の喜劇王、古川ロッパの家があったらしい。むかし晶文社から『古川ロッパ昭和日記』(全4巻)という本をだしたとき、ロッパの息子で、『シカゴ』や『レ・ミゼラブル』のプロデューサーだった東宝の古川清氏と打ち合わせをしていて、はじめてそのことを知った。

古川ロッパ『古川ロッパ昭和日記』第2巻「戦中篇 昭和16年‐昭和20年」監修・滝大作、晶文社


 このころ軍の慰問をかねた東北巡業の長旅にでていたロッパは、空襲の翌日、仙台で自宅焼失の報に接し、その四日後、東京から次の巡演地・盛岡に駆けつけた人の話でやっと詳細を知る。以下、日記の第2巻「戦中篇」から引用しておくと、

 ……家へ三発の焼夷弾落下、これは皆で消してしまった。その後三十分にして、中井駅方面からの火で類焼。本がいつ迄も燃えてゐましたと言ふ。大庭一家も、敏のとこも、焼跡へ逃げて助かり、怪我人なし。(略)大庭のとこは、バラックを建てゝ棲んでゐる由。

 ははあ、そういえば空き地の片隅にバラックに毛の生えたほどの小屋(しょうおく)があり、あそこは東宝の人の家なんだよ、と近所のおじさんがおしえてくれた。そんな記憶がかすかにある。もし本当にそうだとしたら、あれがロッパ氏のいう「大庭のとこ」だったのだろう。ではロッパ氏の一家は? 清さんの話によると、戦後すぐ別の土地に新しい家を建て、そちらに越してしまったらしい。
 そこで話をもとにもどすと、「ぼくだってあそこでよく遊んでましたよ」というのは、まんざらうそではない。
 その証拠に、いまも忘れずにいるのが「百」という遊び。といっても、それ自体が遊びなのではなく、「馬跳び」とか「S」とか「ドンケツ」とか、いくつもの小さな遊びをひとつにまとめて呼ぶ、いわば小遊びの束みたいなもの。戦後もしばらくのあいだは、空襲によって町のあちこちにできた空き地――あのころでいう「原っぱ」に、放課後ともなると、学齢まえの子どもたちから小学校高学年のお兄さんやお姉さんまでが、いつのまにか10人も20人もあつまって、そんな他愛ない遊びをあきることなく繰りかえしていたのだ。
 そして、そうこうするうちに陽がかたむき、どこからか「ご飯よ」とどなる母親たちの声がきこえてくる。やむなく遊びをやめて見上げると、夕焼けの空におびただしい蝙蝠が飛びかっていた。信じられないだろうが、東京にだって、そんな光景がたしかにあったのです。

 しかし、いかにそう強弁しても、私の弟や妹の名までおぼえてくれていた市川さんの記憶すらないのだから、あまり説得力がない。おっしゃるとおり。市川さんにかぎらず、どうやらほかの近所の人たちの目にも、いつも歩きながら本を読んでいるヘンな少年としか映っていなかったらしいや(市川さんはこの再会から10年ほどのち、1997年に、おなじ上落合の町でなくなった。行年60)。
 じっさい、そのころの私はかならずといっていいほど歩きながら本や雑誌を読んでいた。
 いや、そのころだけではないな。
 この路上読書の習慣は成人したのちもつづき、漫画雑誌を読んでいて側溝に転落するとか、まぬけな体験をかずかず重ねたすえに、70歳をこえてしばらくたったころ、ようやく終わった。ある日、ふと気がつくと、本や雑誌を読みながら道を歩くのをやめていた。加齢につれて足腰がよわり、反射神経や注意力のおとろえに神経質にならざるをえなくなっていたのだ。
 しかしそれにしても、まだ子どもだった私になぜそんな路上読書の習慣がついたのだろう。本を読むのが人並み以上に好きだったのは事実だが、どうもそれだけではない。なによりもそれらの本が、たいていは友だちや知り合いの家から借りてきたものだったからだと思う。
 戦争直後の日本では子どもに読める本のかずが極端に少なかった。とくに新刊本。それまでの苛酷な言論統制によってこの国の出版業はとことん疲弊しきっていたし、だいいち日本経済そのものが崩壊し、出版のような不要不急の領域にまわせる紙も電力も、ほとんどないも同然だった。そのため敗戦の年には年間出版点数が1千点を大きく下まわる。いまは約8万点だから、その120分の1ていど。
 そして私はといえば、なにせ文字をおぼえ読書のたのしみにめざめたばかりの少年だったから、読めるものならいくらでも本が読みたい。当時の子どもはいつも腹を減らしていたので、線路のそばに生えた雑草でも、配給の菊芋(本来はブタのえさ)でも、鉄柵を乗りこえて盗んできた占領軍の残飯でも、食えるものならなんでも食った。それとおなじことで、印刷した紙を綴じた本のかたちをしていさえすれば、子どもの本もおとなの本も、どんな本でも片っ端からガツガツと読んでしまう。
 私の家にも両親やフィリピンで戦死した若い叔父の蔵書が、かなりの量あった。そのうちの『経済学全集』といったものはのぞき、岩波文庫の赤帯や円本全集にはじまり戦前の婦人雑誌や探偵小説まで、なんとか読める本はことごとく読んでしまった。となると、あとは他人の家の、かろうじて空襲で焼け残った本や雑誌を借りて読むしか手がない。
 上落合に越してくるまえ、小学校低学年のころにしばらく住んでいた京浜線大森駅近くの町でも、あそこのお兄さんは戦前の「のらくろ」漫画をたくさん持っているみたいとか、隣りの家の箪笥のわきに古い『キング』や落語全集が積んであったとか、この友だちの家に行けば『漫画少年』の最新号が縁側で読めるぞとか、ご町内の蔵書事情をさぐっては、それらの狩り場をいそがしくめぐり歩いていたのである。
 こうした習性は上落合に引っ越したのちも変わらなかった。たとえば、これは以前も書いたおぼえがあるが、新しい友だちの家で発見した岡本綺堂の作品集を何巻か、順ぐりに借りて読んでいた時期があった。
 そういえば、あの家は上落合のどのあたりにあったんだっけ。たしかさびれたお寺のそばだったような気がするけど……。グーグルマップでしらべたら、中井駅の上をまたいで通る環状6号線(山手通り)ぞいに最勝寺というお寺が見つかった。ああ、たぶんここだな。このお寺のすぐとなりの古びた2階屋だったはずだ。
 とすると、いまとつぜん思いだしたのだが、この一帯も空襲でかなりの被害をこうむったらしく、お寺の境内が荒涼たる原っぱになっていて、生いしげる雑草のあいだに薄いゴムの袋がいくつも捨ててあった。
 ――あれなに?
 友だちにきくと、「衛生サック」っていうんだよ、きみ知らないの、とバカにされた。いまでいうコンドームね。夜の闇にまぎれて若い男女がおこなった行為の残留物。本はたくさん読んでいたけれども、男と女のいとなみの具体面についてはまだなにも知らなかったので、つよいショックをうけた。
 友だちの家にあった岡本綺堂の本というのは、いま思い返すと、昭和のはじめごろに春陽堂から刊行された「綺堂読物集」という小型本双書だったのだろう。その日も、なかの1冊、『異妖新篇』という怪談集を借り、山手通りをわたって、いつものように自宅にもどる道を歩きながら読みはじめた。借りた本はできるだけ早く読んで返す。それが暗黙の約束だったから、いきおい借りたらすぐ、歩きながらでも読みはじめることになるのだ。
 で、そのとき路上で読んだのが、忘れもしない「白髪鬼」という、ちょっと長めの短編だった。弁護士試験の試験場で、ある秀才青年のかたわらに真白い髪の美女がひっそりと立つ。ほかの人たちには見えていないらしい。そのため受かるはずの試験に4回つづけて失敗した青年は――とはじまるモダン怪談なのだが、いやはや、怖かったのなんの。そろそろ夕闇せまる頃合いだったしね、あまりにも怖くて、早く家にたどりつこうと思わず急ぎ足になった。

『岡本綺堂集 青蛙堂鬼談』ちくま文庫


 郵便局や文房具店のまえを通りすぎ、小学校の手前を左にまがって、なだらかな坂をくだった右側が私の家。向かいの原っぱではそろそろ子どもたちの遊びが終わろうとしている。怖い。でもページから目がはなせない。そんな私のすがたを原っぱにいた市川少年がじっと見ていた。たぶんね。きっとそのときも黒い蝙蝠の一群が中空を舞っていたのだろうな。

 私の年代の者がおおむねそうだったように、私も小学生のころ、『宝島』『巌窟王』『小公子』『家なき子』『トム・ソウヤーの冒険』『あゝ無情』『三銃士』『鉄仮面』『フランダースの犬』といった「世界名作」のダイジェスト本を、戦前にでたものを粗末な紙で復刊した講談社や偕成社の児童書シリーズで読んだ。
 といっても当時の親たちに、本に飢えたわが子に本をどんどん買って与えるだけの経済力はなかった。
 だとしたら学校や近所の図書館で借りて――と、いまならおそらくそうなるのだろうが、当時はそれもむり。私は疎開先をふくめて4つの小学校にかよったが、そのどこにも図書室はなかったし、地域の図書館のようなものも、都道府県立の大きな図書館をのぞくと、まったくないにひとしかったのだから。
 それに、たとえあったとしても、アメリカ占領下の1950年に「図書館法」が制定されるまで、公立図書館のおおくは有料(いまでいえば100円か200円の入館料を徴収する)で、しかも借りた本は持ち出し禁止、館内で読むのが決まりだった。ようするにこの国には、いまは常識となっている「図書館に行けばタダで本を借りて好きな場所で自由に読める」という原則が存在していなかったのである。
 だとすると、あのころ私はじぶんの読む本をどうやって手にしていたのだろうか。
 よくはおぼえていないけれども、たぶんそのうちの何冊かは親にせがんで買ってもらい、のこりのほとんどはやはり友だちに借りて読んでいたのでしょうな。そして50年代のはじめ、中学にはいったころから、そこに近所の貸本屋が加わってくる。家から歩いて10分ほどの横町に小さな間口の貸本屋ができ、いつしかそこに出入りするようになったのだ。
 ただし借りる手つづきとか料金とか、こまかなことはとうのむかしに忘れている。そこで例によって近所の図書館でしらべたら、梶井純の先駆的な研究『戦後の貸本文化』をはじめとして、末永昭二『貸本小説』や高野慎三『貸本マンガと戦後の風景』など、何点かの関連書がみつかった。
 そのうちの一冊、菊池めぐみの『ぼくらの時代には貸本屋があった』という本によると、私より6歳下の著者は、私にいくらかおくれて1955年、小学5年のときに貸本屋がよいをはじめたらしい。それによると、かれの行きつけの横浜市内の貸本屋の場合――、

 漫画が一日、つまり翌日返却で一〇円、延滞料が一日五円、小説本は二〇円から三〇円、これは定価によって違っていたと記憶している。延滞料は半額であった。漫画だけでも日に四冊借りれば四〇円、月二〇日利用すれば八〇〇円となる。一〇円を持って駄菓子屋にいけば二、三種類の商品を買えた時代である。小遣いだけでは足りなくて、おふくろの財布から時たま失敬してあてていたこともある。

菊池仁『ぼくらの時代には貸本屋があった――戦後大衆小説考』新人物往来社


 この菊池の回想に接して、なんとか思いだした。多少のちがいはあったろうが、私がかよっていた貸本屋にも、たしかにこれと同様の規約があった。延滞金を払わずにすむように、いつも大急ぎで読んでいたという記憶までがまざまざとよみがえってくる。しかも私が読んでいたのは漫画ではなく、おもに小説本だったから、払う料金は2倍以上。そんな大金を中学生の私はどのように工面していたのだろうか。いまとなってはもはや見当もつかないのである。
 しかも借り賃だけでなく、菊池少年は入会にあたって米穀通帳の呈示をもとめられたという。すでに米は戦中から配給制になり自由な売買ができなくなっていた。その配給をうけるための通帳が米穀通帳で、いまの運転免許証や健康保険証のように、それが身分証明書の役目をはたしていたのだ。
 ついでに触れておくと、この米穀通帳に関連して、『ぼくらの時代には貸本屋があった』にこんな資料の一節が引用されている。

 戦争中の本の少ない時代に貸本屋が著しく増えた状態が戦後も引き続き、さらに新しい貸本形式の開発によって大きな発展がみられた。
 昭和二十三年、神戸で発足したろまん文庫は、従来の貸本屋が保証金制度で行ってきたのを、身分証明書、学生証、米穀通帳などで本人の居住を確認さえできれば信用貸しをする新しい方法を採用し、大いに繁盛した。ろまん文庫の経営者は『暮しの手帖』の花森安治氏の弟、花森松三郎氏であった。(『東京古書組合五十年史』)

 なんの気なしに読んでいておどろいた。以前、『花森安治伝』という本を書くため、花森の娘の土井藍生あおいさんに話をおききしたさい、「父の弟が神戸で古本屋をやっていたことがあるのよ」という話を耳にしたおぼえがあったからだ。
 戦後まもないころ、しばらく音信のたえていた末弟の秋四郎(松三郎はその上の弟で、引用の記載は誤りとのこと)が、「こんど貸本屋をやりたいのだが」と兄に相談におとずれた。
「父はよろこんで、だったら『ろまん文庫』という名にしろよ、といったのね。あとでそれがほんとうに店名になったみたい」
 藍生さんは川崎市住吉尋常小学校での私の1年先輩で、当時は小学3年ぐらいか。だから、そばにいてじかにそう聞いたというよりも、それが家庭内の伝説みたいになっていたのだろう。花森は、かつて貿易商だった実家が没落したのち、ちりぢりに親戚の家にあずけられた幼い弟や妹の行く末をいつも気にかけていた。このときも店名だけでなく新しい貸本屋にじぶんの蔵書を提供したりもしたらしい。
 そして1948年に「ろまん文庫」開店。奇しくもそれは、花森安治が、のちに『暮しの手帖』となる雑誌『美しい暮しの手帖』を創刊した年でもあった。
 米軍の絨毯爆撃によって廃墟と化した日本で、手もとにのこった古物や廃品を再利用し、新しい暮らしのスタイルをさぐる。それが創刊時の『暮しの手帖』の基本姿勢だった。だとしたら、あの花森秋四郎がとり入れた「信用貸し方式」も、もしかしたら戦後日本きっての知恵と工夫の人、花森安治の助言にしたがってのことだったのかもしれない。もちろんただの妄想ですよ。でも、まったくありえないことではないぞ、とも思う。
 この「信用貸し方式」を、おなじ神戸の「ネオ書房」がひきつぎ、それをきっかけに、当時は2万5000軒以上あったという全国の貸本屋にひろがってゆく。とすれば、とうぜん私も同様の入会手つづきをしたはずなのだが、これまたなさけないことに、まったく記憶にない。
 私のかよっていた貸本屋は、自宅の一角を改造したらしく、ガラス戸をあけると6畳間ほどの部屋の両側がつくりつけの本棚になっていた。そして横浜の菊池少年がそうだったごとく、私もほどなくここで時代小説に頭からのめりこむようになった。といっても、1956年創刊の『週刊新潮』に連載された五味康祐の『柳生武芸帳』と柴田錬三郎の『眠狂四郎無頼控』によって、戦後派時代小説が華々しく登場する以前の話だから、白井喬二、吉川英治、野村胡堂、大佛次郎、角田喜久雄、山手樹一郎など、もっぱら戦前の作品にしたしむしかなかったのだが。
 そしてもうひとつが、当時は探偵小説と呼ばれていた推理小説――もちろん江戸川乱歩、木々高太郎、大下宇陀児(うだる)などの戦前の作品もだが、こちらは横溝正史の『本陣殺人事件』や高木彬光『刺青殺人事件』など、戦後になって発表された作品のほうをはるかに面白く読んだ。ただし時代小説と同様に、鮎川哲也、土屋隆夫、山田風太郎、陳舜臣、佐野洋、松本清張など、高木をのぞく戦後派作家の登場はすこしあとになるから、このころはまだ読んでいない。
 この時期だけで、時代小説や探偵小説を100冊以上は読んだとずっと思ってきたが、どうやらこれは誤記憶だな。だってそうでしょう。中学生の乏しいおこづかいで、そんなにたくさんの本が借りられようわけがないもの。


古川ロッパ『古川ロッパ昭和日記』第2巻「戦中篇 昭和16年‐昭和20年」監修・滝大作、晶文社、1987年/新装版、2007年
岡本綺堂「白髪鬼」光文社文庫、2006年/(収録)『岡本綺堂集 青蛙堂鬼談』日下三蔵編、ちくま文庫、2001年/『異妖新篇 岡本綺堂読物集六』中公文庫、2018年など
菊池仁『ぼくらの時代には貸本屋があった――戦後大衆小説考』新人物往来社、2008年