複数の言語を習得する過程で、吃音による身体的コミュニケーションの煩わしさから逃れるために、書き言葉の領域に没入した果てに辿り着いたのが、非言語的な表現の世界だった。
 はっきりとは思い出せないが、カリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)デザイン/メディアアート(Design/MediaArts)学科に入学した背景には、子どもの頃からゲーム機やコンピュータといったデジタル機器に慣れ親しんできたということも大きな後押しになった。情報技術で遊ぶ側から、今度は作る側に移るという考えには単純に興奮させられたのだ。それと同時に、高校の哲学の最終課題で対象とした「芸術に人間は何を求められるのか?」という問いに向き合うためには、自分の手を動かさなくてはわからないだろう、と朧げながら考えていたようにも思う。なにより、哲学の論文を書きながら感じたことは、言葉でしか記述できないこともあるが、言葉では決して記述できない(ineffable)こともまた世界に広がっている、ということだった。
 10代のはじめの頃に没頭した遊びがある。父親が翻訳の仕事のためにMacintoshのデスクトップ機とスキャナーを購入してきた。わたしはいつしか、父の仕事の合間に、祖父の形見のカメラで撮ってきたフィルムを現像に出し、できあがった写真をスキャンして、Photoshopで加工して印刷する、という行為に熱中するようになった。
 その時のPhotoshopは、スキャナーに付随した無料版でバージョンもまだ浅く、現在の最新版と比べると限定的な機能しか付いていなかったが、それでも画像を好きな形で切り抜く、複数の画像を異なるレイヤーに分けて合成する、タイポグラフィを追加する、といった基本的な機能は、今とほとんど変わらない。飼っていた猫や学校の友人、近所の公園や都市の風景、自分で描いた落書きなど、身の回りの被写体の写真を片っ端からスキャンしていき、非現実的な組み合わせ方をさまざまに試していった。別に誰に頼まれたわけでもなく、なぜそのようなことをしていたのかは今となってははっきりと思い出せないが、こうして人知れず作っていた奇妙な「作品」もまた、一種の「言語的能力」として、自分の環世界を押し拡げてくれる作用があったように思う。
 世界の一片をカメラのフレームで切り取ると、コンピュータの上で操作可能な表現の素材として変換することができる。アルファベットや漢字といった言葉の「パーツ」は、既に決定されてしまっている言語の基本ルールを構成していて、コミュニケーションを図る際には、それを守らないといけない。しかし、カメラとスキャナーとコンピュータを使えば、自分だけの「文字」が作り出せ、それを基にして編み上げた独自の表現を人に伝えることができる。言語の世界でも、新しいコンセプトを作ることができる、と気づくのはずっと後のことだが、この頃は画像を編集することで、自分だけの表現の「素材」を作り出せるという圧倒的な自由度に打ち震えていた。

 デジタルな画像処理に没頭する前に、「世界を組み換える」ことの愉しみを最初に教えてくれたのは、東京のリセにいた頃に美術を担任していたブール先生の授業だった。男勝りで強面なブール先生は、いい加減な生徒には容赦なく酷い点数を叩きつける怖い女性だったが、真摯に課題に取り組んでいる生徒に対して時折見せる優しい笑顔が印象的な人で、わたしは彼女の出す課題が大好きだった。その中でも、特にコラージュとフロッタージュの授業に熱中したことを今でも覚えている。
 コラージュの課題では、好きな雑誌や新聞紙、本などから画像を切り抜き、一枚の画として構成することを学ぶ。家中の週刊誌、ゲーム雑誌、科学雑誌などから、人物のポートレートや遺跡、惑星の写真などを切り抜いて、ポスターサイズの画用紙の上で合成する作業には、時間を忘れるほど没頭した。
 フロッタージュの宿題は、薄い半透明の紙を持って街に出て、凹凸のある物体の上に紙を置いて鉛筆で擦ることで、その物体の形を紙に「転写」したかのように浮き上がらせる、というものだった。この課題を受けて、カバンに鉛筆と紙を入れて、自転車で近所を駆け巡りながら、街中で見つけた様々なパターンの壁、マンホールの蓋、木の幹や葉っぱ、家具や建具の表面などを擦り取り、そうして集めた「標本(サンプル)」を重ね合わせながら、一枚の画として完成させた。
 普段生活している都市の構造も、建物や家具も、環境のなかにある物のほとんどは既に形が決まっていて、自由に組み換えることができない。しかし、環境を平面に写し取って、素材に変換することで、自由自在に世界を再構成することができる。既に体系化されている言語を学び、それを使って世界を表現することによっても環世界を拡げられるが、紙と鉛筆や、カメラとスキャナーといったデジタルな道具を使って表現の素材から作り出すという行為はさらに果てしなく、尽きるところがない。
 それまでは一方的に遊ぶだけの対象であったビデオゲームの世界が、プログラミングという言語によって自ら構築できることに気づいた時と同じように、所与のルールセットに従って表現を行うことから、自らが遊ぶための道具を作り出すことに移行することによって、日常の現実を異化することができる。
 「線は生きている。生きて呼吸する線を描きなさい」とも教えてくれたブール先生の自由な発見を促す授業を受けていなければ、美術の時間もただ先人の確立した技法を機械的に模倣するような退屈な体験だったのかもしれないと思うと、ただただ感謝の念に堪えない。彼女の課題は学校の外でもわたしのなかで生き続け、わたしは勝手にわたしを包囲する環境を写し取り、組み換え続けた。家族や友だちも奇異な目でわたしの作業を見ていたが、別にその理由を説明する必要性も感じなかった。そのうち、これまた父が世界中に離散した家族と通信するために買ってきたモデムでインターネットに接続しはじめた。それからまもなく、同好の士が地球のあちこちに点在することを知り、ある時デジタル画像の創作物をキュレーションするウェブサイトに自分の投稿した「作品」が掲載された時に、なぜ自分がこんなことに没頭しているのかという理由がはじめてわかった気がした。しかし、その時に湧き上がってきた感情には、いまだに単一の、適切な名前を与えられていないように思う。

 20世紀の初頭に、フロッタージュという手法を編み出したマックス・エルンスト、コラージュの技法を推し進めたハンス・アルプやクルト・シュヴィッタースといったダダの前衛芸術家たちや、写真を合成して作品を作ったマン・レイやモホリ=ナジ・ラースローのことを知るのも、マグリットやダリといった誰もが知るようなシュールレアリスムの絵画について詳しく調べるようになるのも、大学に入ってからのことだった。まるで、自分自身がなぜこのような奇妙で合理的な説明が付けられない行為に魅入られるのかという謎のヒントを探し出すためかのように、学科の作業室に備えられた(当時としての)高速ネット回線に接続して、その時々で見知った表現者たちの名前を検索することに明け暮れ、それから図書館にこもって彼ら彼女らの作品集を貪るように観続けた。あたかも17世紀の博識者アタナジウス・キルヒャーの驚異の小部屋(Wunderkammer)のように、オンラインとオフラインでアクセスできる限りの視覚芸術から音楽、映像の作品の知識を収集し、脳内とハードディスクに溜め込みながらも、「なぜ人は創るのか」という自問への答えはなかなか見つからない。それどころか、霧はさらに深まるばかりだったし、その時にかき集めた情報のほとんどは今となっては一部を除いて雲散してしまっているし、記憶からも薄れてしまっている。その代わり、触覚的な手応えとして今も身体感覚として残存しているのは、表現行為の手触りである。スーザン・ソンタグの写真論を読みながらピンホールカメラを自作したり、3DCGアニメーションをモデリングしながら実写映像を撮影したり、ジョセフ・アルバースのローコントラストな抽象絵画に倣いながらアクリルペイントをひたすら塗り続けたり、キルヒャーの業績をまとめたレポート用のウェブサイトを制作しながらデザインした架空の展示ポスターを大判プロッターで印刷したり、といった「出力」の出口を与えられて初めて、情報が体内に摂取される実感が身体に刻み込まれた。

 M.C.エッシャーの有名な『Drawing Hands』という作品の「描かれた手がもうひとつの手を描いている」画のように、読むことと書くことは構造的にカップリングしている、という理解がはっきりと醸成されるまでには、大学を卒業してからさらに10年以上の年月が必要だった。

8回目につづく