いとう 古川さんとの出会いですが、一度、アジアン・カンフー・ジェネレーションのライブの楽屋でお会いしたことがありましたね。

古川  そうですね、そのときちらっとお話しして。

いとう 僕は以前から、古川さんとは話が合うのではないかと編集者に言われることが多かった。だからそのときも元から知り合いだったみたいに、自然に話をしていました。小説の手法とかやりたいことにお互い共感していて、相手の小説に対して「そう来るか」と見ているところがあると思うんです。

古川  手法といえば、いとうさんは作品ごとの手法というものにすごく自覚的ですよね。

いとう 確かに書くときに手法は決まっています。けれどもそれを思いつくまでが時間がかかる。まずはこの事件のことが書きたいとか、何か主題みたいなものがあるとする。たとえば『どんぶらこ』という暗い短編の場合、関西で親を家で介護しきれなくなって見殺しにし、スーツケースに入れて川に流した事件があった。小さい新聞記事で知ったのですが、スーツケースの中で亡くなっている人のことが忘れられなくなってしまっていた。同じタイミングでもうひとつ着想があったのが、中上健次のイベントで毎年遊びに行っている和歌山のことだったんです。

古川  熊野大学ですね。

いとう そうです。そのとき迎えに来てくれた人が『想像ラジオ』を読んでいてくれていて、かつて和歌山であった津波の話をした。川が段々溢れてきて、逃げ場がなくなったお婆さんが天袋まで逃げたけれど、結局そこまで水が来て亡くなってしまったと。どうもそういうものに取り憑かれやすいのか、袋小路で水の中に入ってしまう人のことが書きたくなった。あとは書き方ですよね。

 

どんぶらこ

いとうせいこう/著
2017/4/20発売

 

想像ラジオ

いとうせいこう/著
2015/2/6発売

古川  まずは書きたい事柄があるけれど、それを書き始めるには、書き方が決まらなければならないと。

いとう それは『ミライミライ』にも少しだけ方向性が似ているかもしれない。まずは川の上流から下流に流れていくスーツケースのイメージがある。そして一方に、もう一人の主人公が介護している父の話がある。急に彼が痙攣して倒れてしまったことがあって、生かせば生かすほど本人が大変なのは分かっているけれど、見殺しにはできないから救急車に乗せる。救急車は命を生き返らせる方向、つまり下流から上流に向かっている。過去から未来へ、未来から過去への流れを同時に、節を変えて同時に走らせたかった。なぜそうしたいのかは分からないけど、その両方の時制をコントロールできるかどうかという興味で書きました。

古川  むしろその時制をコントロールするという側面こそが、全力を投じるところですよね。だから先ほどの新聞記事のような素材や物語、あるいはテーマよりも、それらを自分という作家がどんな風に書いていくのか、いかに自分にしか書けない形で読者に届けるのかが重要です。今回いとうさんが書かれた『小説禁止令に賛同する』と僕の『ミライミライ』は、テーマやキーワードが色々重なるけれど、作品としては全く別物ですよね。たとえば重なる部分では『ミライミライ』なら詩人が銃殺されるし、『小説禁止令に賛同する』なら小説家が収監される。それからアジア国家という発想。いとうさんは東端列島で、僕の方は日本州で、両方とも日本国がない。一方で違うのは、たとえば時間です。いとうさんは2036年の未来を描くけれど、『ミライミライ』はタイトルに反して2016年までしか書いていない。

いとう ミライミライ』は意外にも過去の話なんですよね。だから面白いし、時制が下流から上流、上流から下流へと同時に動いている。僕がその中でも一番驚いたのは、やはりインドが登場することですね。『小説禁止令に賛同する』でも日本はなくなっていて、看守にインド系の人やアフガニスタン人がいて。

古川  もはやアジア全土がひとつのまとまりになっているということですよね。

いとう そうですね。そういった中国、あるいはインド国家みたいなものがあって、日本はその端っこでしかない。

古川  いとうさんの小説内ではそれが「東端列島」と呼ばれている。

いとう そうです。この国が破壊されていくイメージがお互いに共通していて、その中で両方とも言葉というものがツールになっている。古川さんの場合は今回のイベントタイトルにもなっているニップノップ(『ミライミライ』で描かれる、北海道で独自に発展したヒップホップ)。そのライム(韻)が、政府が統治しているのとは別の言葉として現れる。多くの人々がそれに熱狂して国家を超える世界性を帯びるので、国家や連合としては困ることになるわけです。

古川  ツールというか、武器のようなものになっていると。統御されない言葉としてのニップノップという音楽のリリックがあり、『小説禁止令に賛同する』ではまさに「小説」が出てくる。そこも似ていますね。

いとう だから「そっちはそう書いたのか」という、会ったことがないのに連帯性が生まれることの面白さや心強さが、小説の世界ならではのものだと思います。もちろん、そういった連帯感は音楽をやる人たちのあいだにもありますが。

古川  それは単純に同時代を生きているというだけでなく、やはりお互いどこか近い部分に反応しているということなんですかね。

 

いとう 僕は特に古川さんの『ミライミライ』でインドが力を持つ未来像が素直に出てくるのを読み、我々は見る夢が似ているというような印象を受けました。そちらの世界にもその女の人が出てきますか、というような。不思議なようですが、両方の小説に出てくる登場人物がいても全然おかしくない。だけど書くときのカメラ位置のような視点と、そのカメラで撮りたいものが少しずつ違うから、最終的にページに落とすとこうなる。だけど本当はバラして、バロウズみたいにカットアップして現れるものがあってもいい。音楽であればミックスみたいなものですよね。

古川  気がつくとお互いの小説の中に同じ登場人物が行き来しているような状況ですね。ただ一方で『小説禁止令に賛同する』には、そのカットアップやミックスを拒絶している部分がある。つまり一人称によって書かれた随筆という形式を取ったことで、カットしてバラす手を入れさせない作りになっていますよね。

いとう ずっと同じ部屋でカメラ位置が同じなので、確かにそうかもしれない。だからこの小説をカットアップするってことは、もしかしたら一人称の部分を黒く塗り潰してしまうことなのかも。もっと言えば、音楽をミックスするDJやトラックメーカーの技を、文章上でやってみることなのかもしれません。

古川  その黒く塗ったところに固有名を入れて三人称に力業で変えていくようなことですか。すると黒く塗り潰されているところで、ちょうど前後のビートが噛み合っていくような……。

いとう そういう感じです(笑)。『小説禁止令に賛同する』はポンコツな小説で、色々なものがごっちゃに入っている。夏目漱石や中上健次の小説の一場面もそのまま出て来るし、それに対する僕らしき人間の批評文もある。日本の小説というのはどうしても私小説になってしまうので、これには皆が戦って崩そうとしてきたし、僕もそこに抗いたくて。でも一人称だと、どうしても私小説に見える。あの語り手はいとうさんでしょ、と言われる。でもそうではない未来の小説を書きたい。そのためにたとえば大江健三郎は「私」をどう外したのかと見ていくと、もっと過去の18世紀の小説が気になってきて、それでヴォルテールの『カンディード』や、フランスやイギリスで書かれた小説以前のものを見ていった。旅行記だと思っていたら哲学になっていくような。

古川  確かに日本の近現代文学の場合は私小説のレールが堅牢に敷かれていて、自動的にそこに組み入れられていく感じはありますよね。いとうさんはそれを崩したかったと。確かにヨーロッパで小説が誕生した時期には、作者が考えていることが全部そのまま文章に入ってきてしまうような形式のものがあります。

いとう フィクションかノンフィクションか全く分からないものが、18世紀にはたくさん書かれている。それらは実際小説として読まれていたけれど、それが茶こしで濾したお茶みたいになっていったのが19世紀から20世紀の小説だと。それなら18世紀に戻ってどんな形式の事柄も「私」に入ってくるという「過去」の小説の形式に、「未来」の小説の可能性を見たというのが『小説禁止令に賛同する』の背景にある仕掛けでした。その過去と未来をめぐる時制の動きは『ミライミライ』の捉え方にも似ていますよね。古川さんは『ミライミライ』の場合、やはり三人称で書きたかったということですか。

古川  いとうさんは私小説の問題を考えながら、どのように数百年前とリンクして未来に繋げて行けるかを考えたわけです。僕の場合は三人称を選択しているから、いとうさんとはまた違った形で過去を未来に繋げる構成を考えたんだろうと思います。具体的なことを言うと、『ミライミライ』の場合は、書き出す10日前くらいにまず「むかしむかし、詩人たちは銃殺された」という1行目が出てきた。その文章がすでに三人称だったというのが大きいと思いますね。

いとう 「詩」が先に出てきてしまったということですね。それで、この「詩人たち」とは誰だろうというところから始まる。

古川  銃殺されたのはなぜだろうとか。大きな物語の枠組みはあらかじめ考えてあっても、やはりストーリーとは関係ないところでしか小説は駆動しないというか。

いとう 分かります。フレーズがドライブする感覚ですよね。確かにいくら上手に設計図が出来ていても、フレーズがかっこ良くない小説は困ってしまう。どのくらい良いフレーズを繰り出せるかというのは、音楽も全く同じですね。

古川  フレーズがフレーズを呼びますよね。僕はどこかでフレーズで酔わせたいというような気持ちがあります。書いている自分自身が酔えないと、もうこれ以上は持たないという局面が長編小説には折々ある。だから時々自分を酔わせて呼吸を楽にしてあげると、読み手も同じように楽になるのかなと。ただ、そのフレーズばかりを考えすぎてしまうのもいかんな、と、それはそれで批判的に見ています。それこそ小林秀雄の印象批評にダメ出しをするような感覚かもしれない。

いとう 僕らはそれが何百年前のものであろうと、読んだ小説の良さを受け止めて、できれば自分でも書いてみたいと思います。でも同時に誰にも書けないパンチラインを繰り出して、絶対に真似できないものを書いてやろうとも思う。その相矛盾するところで、きっと小説は生まれるのでしょう。

第2回につづく
 

 

ミライミライ

古川日出男/著
2018/2/27発売

 

小説禁止令に賛同する

いとうせいこう/著
2018/2/05発売