古川  一人称でこの『ミライミライ』のような歴史性を持ったものを書こうとすると、普通は「ここは嘘を書いてるな」とか、自分で偽史のようなものを操作してしまうと思うんです。だから『ミライミライ』を書きながらずっと考えていたのは、徹底的にフィクションだけれど嘘は書きたくないという、訳の分からないことだった。僕にとって「嘘」というのはいわゆる物語みたいなもので、事実ではないことを作者も読者も皆が知っているものです。だから作家が没入して書く私小説のように、「俺が見ているのは現実だ」と断言しながら歴史を書いてしまいたかった。

いとう なるほど。偽史の世界の方に入り込んでいるんですね。自分はその世界より上のメタレベルにはいないという。

古川  その世界と同じくらいの高さだと思いますが、せいぜい鳥瞰する鳥のレベルで、しかも3メートルくらいしか上ではないという感覚ですね。

いとう それはこの小説が持つリアリティに良く表れていると思います。多分偽史を書く人たちは、皆そうなんじゃないか。いま話題のペンタゴン・ペーパーズや加計文書などは偽史に関わる文書ですよね。国の官僚たちが改竄をして偽史を作るというのは、小説家たちにとってはあるまじき状況です。小説家たちは、それは俺たちの仕事だろってデモをしないとマズい。その仕事を俺たちに返せという(笑)。

古川  ただ、忖度して偽史を作っている人たちは、自分たちは真っ正直に真実を見ていると思っていて、偽史だという意識がないと思う。そこが問題です。

いとう 小説の場合は偽史を作っている意識があると同時に、真実だとも思っている。書き始めるとそうなってしまう。

古川  だから彼らは、記憶に照らす限り本当はそんな出来事はなかったけれど真実だと強弁しなければいけなくなる(笑)。でもそういう意味では、皆が段々小説家に近づいてきているのかもしれません。

いとう 彼らは現実ではないと言うのを禁じられているけれど、僕らはどれだけ人の心に、その偽史を現実だと思わせられるかが勝負です。底の方に歴史上の真実があって、我々はそれを掘り起こしているような気分ですよね。僕が書いている2036年というのも、未来のことを書いているつもりはほとんどなくて、2~3ヶ月くらい先にはもうこうなっているのではないかと。検閲も当然入って来るだろうし、実際問題たとえばレコード会社の歌詞のチェックは十数年前からすでにかなり厳しくなっている。「これが?」と思うようなものを書き直させる、自主規制というやつですね。

古川  それは実は検閲する側の想像力がすごく逞しくなっている、という、ひどく不思議な現象ですよね。

いとう 妄想過多なんです(笑)。だからそういう意味では確かに皆が小説家かもしれない。著者名も書かないのに、勝手に小説家の仕事を取られては困る。だからどの省の誰が書いた文章か分からないのとは違い、小説に著者名があることは重要で、作った歴史の責任を取る覚悟を持って名前が書かれるということです。

古川  そんな風に出どころがはっきりしている別種類の歴史の存在は、正しい歴史の出どころをひとつだけにしたい人たちからすると、大変脅威ですよね。小説が危険だとすれば、おそらくそこでしょう。

いとう 様々な人が様々なことを勝手に書いてしまう。できればやはり取り締まる側の人たちを怖がらせるようなものであって欲しい。それこそ18世紀にも政府批判は王道になっています。そんな小説の起源を我々のピルグリム・ファーザーズ(巡礼始祖)として見ると、我々は直接血が繋がっていないし場所も違うけれど、やはり彼らから連なる流れの上に乗っている。僕が古川さんのことを心強いと感じているのと同じように、ヨーロッパやアジアの作家たちに、勝手に心強さを感じているんです。あとは基本的に孤独ですから(笑)。

古川  そう、書くことはめちゃくちゃに孤独な作業ですよね。血の繋がりの話で言えば、西洋でも東洋でも読書の面白さは、ただ読むだけで血族になれるところです。しかもそれだけではなく、読んでしまった後に自分でも書いてみるという生殖行為があって、孤独だけれども自分も書けば子孫を作れるという現象は、とても不思議なこと。そういった意味では、翻訳された異国の文学やあるいは母国でも古語で書かれたもの(母国の古典)を読んで消化して自分でも書けば、どんどん民族や国家というボーダーを越えて繁殖させることが可能です。これが国家的な体制にとって最も脅威なのではないか。

いとう なるほど。言ってみれば単性生殖みたいな。親は沢山いて不思議だけれども、クローンにはならないという。

古川  決してクローンにはならない。そこがポイントですね。

いとう 統治された言語というのは、クローンを作るための言語ですよね。我々小説家は、いくら日本語が規制されたとしても、どこかズレた子供を生んでしまい、それを人に読ませることができる。そして読まれることはさらに書かれる可能性を大いに秘めている。僕らのやっていることは、そういった形のゲリラ活動でもあるわけだ。

古川  我々は書く。書くことで本という子供が生まれるわけですが、単性生殖であれば理屈上その親はひとりだし、その子供の特徴は大体決まってくるはず。しかし同時に、親というのは我が子にこの世界で唯一の個性がある存在になってほしいと願う。この子は今までに読んだことがない小説になるはずだと、期待しながら書いているところがありますね。

いとう それがないとスリルがないというか、自分自身が飽きてしまう。古川さんは飽きてしまわないために、何かしていることはありますか。

古川  なるべくびっくりするようにしています。『ミライミライ』でも、「あっ、インドと日本が合体する小説だ、びっくり!」という風に、まず自分で驚くんですよ(笑)。「それ誰書くの? 俺が書くの? うわー、またびっくり」と。

いとう どうなっちゃうの? 当然カレーも変わってくるよねと(笑)。それがないと労働になってしまう。その途端つまらなくなる。コントをやる人にも口を酸っぱくして言うことですが、お客さんを笑わせるためには、とにかくまず新鮮でないとダメ。ツッコミもそう。ごくたまにおざなりで面白い場合もあるけれど、新鮮であれば面白いということを分かった上でやるから面白い。やはり小説を書くのは孤独な作業なので、ある意味では精神的な技術かもしれない。自分で新鮮さを維持して、自分に驚ける技術。

第3回につづく

 

ミライミライ

古川日出男/著
2018/2/27発売

 

小説禁止令に賛同する

いとうせいこう/著
2018/2/05発売