古川  ところでラップの話ですが、ヒップホップのリリックって一人称が多いですよね。ラップをする人間の視点で、俺はこう思う、私はこう感じたという一人称。だから三人称で『ミライミライ』を書くときに自分の中で無意識に判断されたことだろうと感じるのは、現状のラップでは一人称になってしまうので、新たに三人称を許容できるヒップホップの形を必要とした、欲望したということです。それがおそらく新たなるジャンルの音楽・ニップノップになっていった。

いとう だからこそ逆に三人称で書くと。確かにもしラップに自分以外の人間を入れようとして「あいつがこう言った」とラップすると、その後に「だから俺は答えたんだ」という風に、結局「俺」が出てきてしまう。ある意味で不自由です。でも英語より日本語のラップに可能性があると思うのは、日本語は主語がなくてもいい言語であるところ。だから少しズレた視点からでも歌詞を書ける。そこは救いだけれど、突き詰めると小説のように色々な手法では書けない。この頃トラップというジャンルが流行っていて、間のあるトラックの上で色んな奴らが短いフレーズを乗せて「ウー」とか「ハッ」とか合いの手を入れる。ヒップホップが最初に出てきたときも、MCは一人じゃなかった。5人くらいでマイクを回して、多声性を得ていた。それがLL・クール・Jなんかの登場でスターシステムになる。その前のRun-D.M.C.のように1DJ+2 MCから1MC+1DJになって、その辺りからリリックも内省的になっていく。しかし今のトラップは、もっとラリっていいじゃないか、俺たちはそんなに真面目にやりたくねえと言っている。だから人称でいえば、変な風に進化しながら基本に戻ってきたわけですね。

古川  ヒップホップの初期にしても今のトラップにしても、他者の声が入ってくることで、さらにグルーヴが生まれている。ヒップホップの話から改めて考えると、僕の理想とする小説の形っていうのは、たとえば『千夜一夜物語』が物語られる現場みたいなものなんですよ。中世のアラブ世界の。語り手が喋っていて聴衆みんなで周りを囲んで、たまに聞き手の側から茶々を入れて、ストーリーをどんどん変えていく。あのやり方が結局は文学であり、音楽であり、理想形です。

いとう それは僕も同じです。だから日本で言えば「座」の文芸ですよね。たとえば連歌で五・七・五の後に七・七と回していく。あれは、皆が輪になって内側を向くサイファー(複数人が輪になり即興でラップすること)に近い。だから日本人には得意なやり方だともっと言わないと。あるいはもちろん、輪になって何かを言うということ自体が普遍的なものなのでしょうね。僕もこの手法で小説を書くことは何かと考えるのは好きで、長い間書きあぐねている小説のアイデアのなかにも、そういうテーマのものがあります。そういえば古川さんは先ほどここに来るエレベーターの中で、なるべく上演不可能なものを書きたいと言っていましたよね。

古川  それは戯曲の話ですね。さっき、エレベーターでの独り言を聞かれてしまってたんですね(笑)。

いとう 僕も『想像ラジオ』で最初に考えたのは、小説なのだから、絶対に映像にできないことを書きたいということです。だからあの本に出てくるラジオは、その人の好みによって曲が変わる。ずっとビーチ・ボーイズを聞いていたいと思えば、それだけがかかる。実際にはこんなラジオはない。あるいはこんな映画は撮れないということを考えると、演劇は相当自由度が高い。たとえばAという男の人が出てきて、この人の半生を演じているときに今度はBという女の人がAの経験を語り始めても、おそらくBもAなんだろうなと思えてしまう。こんなことは小説にはできない。

古川  能楽がそもそも、そういった感じですよね。古典芸能において、はや。

いとう 誰が誰なんだか分からないという。そういった意味でも芝居は面白いので、それをなんとか散文の中に取り入れる書き方はないだろうかと今は考えています。だから先ほどの戯曲の話を聞いて、古川さんもメディアの特性を考えて書いているし、上演される戯曲について考えることは、実はほとんど散文について考えることなのかもしれないなと。散文を読んでいるときは、当然芝居の論理では進んでないけれど、古川さんはそこに芝居的なものを入れることを考えているのかなと、エレベーターで息を潜めながら思っていました。

古川  潜めて(笑)。うん、確かに考えています。やはりジャンルの特性というか、そのジャンルにとってベストは何だろうかと自覚的に考えようとはしています。先ほどのいとうさんの「日本語のラップは主語がなくてもできる」という話ですが、だから日本語で小説を書いていると作者は憑依されやすいのかと腑に落ちた。『どんぶらこ』もきっとそうで、何かが私の中に入ってきてしまう。主語がはっきりしている言語であれば、そんな風に憑依されないんじゃないかな。

いとう だから下手すると私小説にもなってしまう。つまり自分が自分に憑依される。一番憑依されやすく、しかもその自覚がない。そこに注意する必要があると。しかし何かに憑依されているときはキツいですけどね。

古川  キツいです(笑)。実際の経験がないと言えないですけど、本当にキツいです。

いとう 被害妄想にもなるし、主人公の側になってしまう。もちろん『ミライミライ』もそうに違いなくて、狙われているグループの側に立ってしまう。体力的に今日の執筆はここまでと区切りをつけても、「あいつがまだあのまま危機の中にいる」と思ってしまう。

古川  そうするとパニックを抱え込んだまま毎日を過ごすことになる。小説を書くというのは、どこかでわざと統合失調症になろうとする行為に思えます。書き手はふたつの現実を持たざるを得ないし、しかもそれを行き来する。片方の現実では、それはフィクションに過ぎないと周囲からは言われてしまう。

いとう 三人称で色々な人になることがさらに統合を失調しているわけですよね。確かに実生活もしなければならないし、時折編集者からどこまで書けているのかと、「クラインの壷」のようにメタレベルから内容を覗かれてしまう。

古川  編集者の声が神の声みたいですよね(笑)。我々はこの作業を覗かれているし、ある意味では覗かせるのが仕事なわけです。

いとう 確かにこれはある種の術ですよね。その術に長けてくるともっとプロらしくなるのかもしれないけど、かなり危険な生業であることは間違いないし、よく何とかなっていると思います。

古川  それも「今のところは」という留保つきですよね。僕の場合も書いていて、もう死んでしまうかもしれないと思うときがあります。

第5回につづく

 

ミライミライ

古川日出男/著
2018/2/27発売

 

小説禁止令に賛同する

いとうせいこう/著
2018/2/05発売