茂木健一郎さんに勧められ、七年前から「小林秀雄に学ぶ塾」を続けている。その塾で昨年五月、同人雑誌『好・信・楽』を出し始め、それが先月、創刊一周年になった。創刊の動機は、小林先生に対する塾生の質問力の飛躍的な向上である。

 塾を始めて二年目の春、私は塾生諸君とともに、小林先生の「本居宣長」(新潮社刊「小林秀雄全作品」第27・28集所収)を十二年かけて読むことにした。十二年というのは、先生が「本居宣長」の執筆と推敲にかけた年数である。その十二年をかけてさえ、私たちに「本居宣長」が読めたと言える日が来るかどうかは覚束ないのだが、それでもその十二年をかけずして読んだとは言えない、少なくとも先生が書くことにかけた十二年と同じ年数を、私たちは読むことにかけてみる、そうして私たちの「宣長」経験の熟成を待つ、そういう心構えで始めた。
 それと言うのも、先生が「還暦」と題した文章(同第24集所収)で、芸術家には、自分の作品が眼高手低の経験の結実であるとは自明なことだと前置きして、―成功は、遂行された計画ではない、何かが熟して実を結ぶ事だ、其処には、どうしても円熟という言葉で現さねばならないものがある、何かが熟して生れて来なければ、人間は何も生む事は出来ない…、と言い、「本居宣長」の冒頭では、十数年前に聞いた折口信夫の言葉を記したあと、―今、こうして、自ら浮び上がる思い出を書いているのだが、それ以来、私の考えが熟したかどうか、怪しいものである、やはり、宣長という謎めいた人が、私の心の中にいて、これを廻って、分析しにくい感情が動揺しているようだ…、と言っていたからだ。
 ということは、先生自身、宣長に対する考えの熟成を待つうち十二年が経ったのだとも言えるのであり、実際、私は先生の身近にいて、先生の言葉の端々に、先生が年々宣長に熟していくのを感じていた。そのことは、今、「本居宣長」の『新潮』連載時の文体と、単行本になってからの文体とを読み比べてみてもわかるのである。先生の書くという営みがそうであったなら、私たちの読むという営みにも、熟すという自然の助力が不可欠であるはずだ、そう考えて打ち出した十二年という精読の時間であった。
 しかしその「精読」は、中学や高校の国語の時間のように、最初から一行一行、解釈したり講釈したりするのではない。「本居宣長」は五十章から成っている。これを月々五章ずつ読んでいき、十カ月かけて最終章まで到達する、これを十二回繰り返す。小林先生は、「読書週間」という文章(同第21集所収)で、「読書百遍」という言葉を捉えてこう言っている、―読書百遍という言葉は、正確に表現する事が全く不可能な、またそれ故に価値ある人間的な真実が、工夫を凝した言葉で書かれている書物に関する言葉です、そういう場合、一遍の読書とは殆ど意味をなさぬ事でしょう、文学上の著作は、勿論、そういう種類のものだから、読者の忍耐ある協力を(ねが)っているのです…。私たちは、先生のこの「希い」に応えようとするのである。

 そしてさらに、私たちの塾での読み方は、先生の文章を読んで、文意を悟るのではない、先生に質問するのである。
 一カ月に五章ずつ読むと言っても、これは各人が、である。月に一度、皆で集まる塾の席では、その月の精読対象としている五章に即して三人ないし四人が質問する、その質問に私が応じる、というかたちで会を持つのだが、私がと言っても小林先生ならぬ身の私に応じられるわけがない。私が応じるのは、その質問が先生の本文をきちんと読んで行われているかどうかということと、この先どういうふうにその問いを延ばしていけば先生の意に添う読み方になるかの糸口だけである。
 この「質問する」ということも、すべて先生の教えに則っている。先生は、「上手に質問する」ということを、何度も熱をこめて語っていた。私たち人間は、人間の分際でこの複雑な人生に答を出すなどということはできない、しかし人生に質問することはできる、何事にも答を出そうとばかりせず、上手に質問しようとせよ、上手に質問できさえすればそれがすなわち答だと言っていた。上手な質問とは、答を相手に頼るのではなく、自分自身で答を予測したり、仮定したりして自問自答を試みる、そういう質問の態度を言うのである。

 今回の冒頭で、塾生の質問力が飛躍的に向上したと言ったのは、この質問力である。実際のところ、「本居宣長」を読み始めてから三年ほどは、なかなかうまくいかなかった。塾生諸君は皆が皆、学校では勉強ができた人たちなのである。その、勉強ができたということが災いしていた。物心がつくかつかないかの頃から、親にも先生にも毎日「正解」ばかりを強要され、小学校、中学校、高校と進むにつれてその厳格さはますます度を増していき、大学受験となるやもう寸分の「誤解」も許されないとなって誰もが重度の「正解病」に罹った。そしてその正解病が慢性化したまま社会へ出た。社会はさらに容赦がなかった。
 そういう不幸な生立ちのおかげで、宣長に、小林先生に、質問せよと言われても、たいていの塾生は問うということができなかった。自分の意見を言うばかりだった。そうしておいて、最後に、…と私は思います、この解釈はいかがでしょうか、と、言葉尻に疑問符を打って質問した気になっていた。なるほど、これだと思った。
 先生は、岡潔さんとの対談「人間の建設」(同第25集所収)で、こう言っていた、―ベルグソンは若いころにこういうことを言ってます、問題を出すということが一番大事なことだ、うまく出す、問題をうまく出せば即ちそれが答えだと、いま文化の問題でも、何の問題でもいいが、物を考えている人がうまく問題を出そうとしませんね、答えばかり出そうとあせっている…。塾生諸君は、こういう風潮に染まってもいたのである。
 これに加えてもう一言いえば、いまは学校でも社会でも、君の意見を言えと言われすぎているということがあるだろう。むろん日々の実生活、実社会にあっては迅速な意見陳述も必要である。しかし、小林先生が言うような、「正確に表現する事が全く不可能な、またそれ故に価値ある人間的な真実が、工夫を凝した言葉で書かれている書物」に向かうときは、意見も答もいっさい無用である、著者に対する忍耐と協力、これだけが必要であると知っていなければならない。
 私たち人間は、折にふれて感じてはいるが、はっきりとは認識できない微妙な力によって生かされている。優れた書物の著者は、その微妙な力をなんとか言葉で捉えよう、表現しようと必死なのだが、あと一歩か二歩というところで力尽き、やむなく本にして読者に後を委ねる。小林先生が、「読者の忍耐ある協力」を希うと言うのはここである。著者が懸命に言おうとしたにもかかわらずついに言い得なかったこと、そこを忍耐づよく読みぬき、それはひょっとしてこういうことではないでしょうか、こういう言い方ではどうでしょうかと著者に問いかける、そういう読者の協力を著者は待っているというのである。
 塾生諸君の質問力は、この意味において格段の飛躍を見せたのである。それも一昨年、突然と言っていいほどに皆が皆、一斉に面目を一新したのである。正直なところ、塾生諸君の質問によって私自身が目を開かれ、そうか、そうなのだ、先生の苦心はここにもあったのだと感歎することさえ一再ではなかった。

 塾生諸君の質問力が、これほどに上がったのは、むろん各自の真摯な努力の賜物である。が、その努力に、小林先生がまちがいなく手を貸してくれたということも書いておきたい。先生の「本居宣長」は、実は先生の宣長に向けた質問集なのである。先生は第一章から第五十章まで宣長を質問攻めにし、そこで聞こえた宣長の声を自問自答の答として書き留めていったのである。したがって、塾生諸君の質問力が上がったというのは、塾生諸君が小林先生に質問しようとして熱心に先生の文章を読んだ結果、宣長と向きあった先生の気息がおのずと塾生諸君に乗り移ったのである。この質問力の向上こそは、塾生諸君の「宣長」体験が、最初の熟成を見せ始めたということなのだと私は思っている。

 こうして月々、相次ぐようになった達意の自問自答は、塾生間のみならず小林秀雄に人生を学ぼうとしている人たち全員と分かち合いたいと思った、これが、『好・信・楽』誕生の経緯である。『Webでも考える人』の読者にも、この機会に『好・信・楽』のことを知ってもらって、小林秀雄に学ぶ席を同じくさせていただければと思う。『好・信・楽』の巻末には、「小林秀雄に学ぶ塾」の入塾案内も載せている。道はまだ半ばである、来年の三月には読み始めてから満六年になるが、さらにその先、六年の月日が待ってくれている。

(第四十二回 了)

★小林秀雄の編集担当者・池田雅延氏による、
   小林秀雄をよりよく知る講座

小林秀雄と人生を読む夕べ【その8】
文学を読むIV:「徒然草」

6/21(木)18:50~20:30
la kagu 2F レクチャースペースsoko

 平成26年(2014)10月に始まったこの集いは、第1シリーズ<天才たちの劇>に<文学を読むⅠ><美を求めて><文学を読むⅡ><歴史と文学><文学を読むⅢ><美を求める心>の各6回シリーズが続き、今回、平成30年4月から始まった第8シリーズは<文学を読むIV>です。

*日程と取上げる作品 ( )内は新潮社刊「小林秀雄全作品」の所収巻

第1回 4月19日 西行(14)     発表年月:昭和17年11月 40歳
第2回 5月17日 実朝(14)             同18年1月 40歳
第3回 6月21日 徒然草(14)             同17年8月 40歳
第4回 7月19日 「悪霊」について(9)        同12年6月 35歳
第5回 8月9日   「カラマアゾフの兄弟」(14) 同16年10月 39歳
第6回 9月20日 トルストイ(17)       同24年10月 47歳

☆8月(第2木曜日)を除き、いずれも第3木曜日、時間は午後6時50分~8時30分を予定していますが、やむを得ぬ事情で変更する可能性があることをご了承ください。

 ◇「小林秀雄と人生を読む夕べ」は、上記の第8シリーズ終了後も、小林秀雄作品を6篇ずつ、半年単位で取り上げていきます。

小林秀雄の辞書
7/5(木)18:30~20:30
新潮講座神楽坂教室

  小林秀雄氏は、日々、身の周りに現れる言葉や事柄に鋭く反応し、そこから生きることの意味や味わいをいくつも汲み上げました。1月から始まったこの講座では、私たちの身近な言葉を順次取上げ、小林氏はそれらを私たちとはどんなにちがった意味合で使っているか、ということは、国語辞典に書いてある語義とはどんなにちがった意味合で使っているかを見ていきます。
 講座は各回、池田講師が2語ずつ取上げ、それらの言葉について、小林氏はどう言い、どう使っているかをまずお話しします。次いでその2語が出ている小林氏の文章を抜粋し、出席者全員で声に出して読みます。そうすることで、ふだん私たちはどんなに言葉を軽々しく扱っているか、ごくごく普通と思われる言葉にも、どんなに奥深い人生の真理が宿っているか、そこを教えられて背筋が伸びます。
 私たちが生きていくうえで大切な言葉たちです、ぜひおいでになって下さい。

7月5日(木)学問/科学
8月2日(木)謎/魂
9月6日(木)独創/模倣
※各回、18:30~20:30

参考図書として、新潮新書『人生の鍛錬~小林秀雄の言葉』、新潮文庫『学生との対話を各自ご用意下さい。

 今後も、知恵、知識、解る、熟する、歴史、哲学、無私、不安、告白、反省、言葉、言霊、思想、伝統、古典、自由、宗教、信仰、詩、歌…と取上げていきますので、お楽しみに。御期待下さい。