知性と情動は相互に補完する。二つを分離して、どちらかを優先することは、粗暴な還元主義を招く。そして、「この世界の主要な問題の数々は、自然の仕組みと人々の考え方が食い違っているからだ」。
 この有名な警句を遺したグレゴリー・ベイトソンは、ニューギニアやバリの人々の社会や、第二次世界大戦の帰還兵たちの心理の分析を通して、このような一元論(モニズム)の方法を探索するに至った。その過程で生み出されたメタローグという記法について、しばし思いを巡らせたい。そのためには、彼の後半生の時代背景から見ていかなければならない。

 1940年代、計算機の黎明期に誕生したサイバネティクスというシステム理論の潮流から、一方では制御系の工学が世界的な産業にまで発展し、他方では複雑な社会構造を生命的に把握するための哲学の追究が興った。
 この二つの流れは、コンピュータ産業が本格的に離陸する1970年代末頃までには、カウンターカルチャーやヒッピー・ムーヴメント、ニュー・エイジといった大きな文化的うねりのなかで、今から思えば奇妙ともいえる蜜月を重ねていた。
 人工知能の発達が国家や企業による管理社会の到来を招き、人々から自由を奪うという議論は1950年代からあった。同時期に興隆したビートニクの詩人たちの文学やヒッピーたちによるコミューン生活といった文化は、精神の解放という主題を掲げ、実験芸術の実践や東洋宗教への注目と共に、LSDや麻薬を服用することによって高次の意識に達するという信仰を生んだ。そうした人間性の更新というテーマに、コンピュータという新しい技術によって人間の知能増幅がもたらされ、権力に抗う力能をもたらすという思想が合流し、一種の習合主義(シンクレティズム)が形成された。

 グレゴリー・ベイトソンは、ちょうどこの時代に活動を展開しながらも、機械の性能向上を目的化するのではなく、人の認知能力を進化させ、より本質的な認識論に至る方法を考え続けた。それは同時期のティモシー・リアリーやジョン・C・リリーといった、LSDの効能を説いて回りながらカウンターカルチャーの教祖的存在として振る舞っていた人物たちとは根本的に異なる、あくまで知的な方法の探求だった。
 ベイトソンはサイバネティクスにおけるフィードバックの思考を用いて、共同体の構造や個人の内面のなかで生まれる分裂の働きを分析し、その裂け目を埋めるための処方を考え、そのために一生涯をかけて、新しいコミュニケーションの文法を作り出そうとした。それは、デカルト的な座標面で世界を客観的に記述し、そこに流れる情報を機械的に制御しようとする道ではなく、生きたシステム同士が相互依存しながら固有の意味を生み出すプロセスを表現するための文法を構築しようという、壮大な試みだった。しかし、その挑戦は、率直に言って具体的なかたちに結実できたとは言い難く、ベイトソンはその志半ばで倒れてしまった。
 1980年代以降、パーソナル・コンピュータとインターネットが日用品(コモディティ)となってからは、思想文化よりも市場経済の原理が計算機開発を駆動する動機として徐々に支配的になっていった。今日の人工知能を巡る狂騒も、その技術の無思想性に端を発しているといえる。しかし、ベイトソンの辿った試行錯誤の軌跡の中には、再び技術と思想を接合させるヒントが埋もれているように思えてならない。

 ベイトソンは60年代以降、徐々にオーソドックスな学術の世界から遠ざかっていった。スティーブ・ジョブスも愛読していたことで有名なヒッピー・コミューンの聖典的な雑誌『ホール・アース・カタログ』を編集し、ダグラス・エンゲルバートによる伝説的な「全ての技術デモの母」というイベントをプロデュースしていたスチュアート・ブランドは、ベイトソン独自のサイバネティクス思想に傾倒し、編集者として彼の文章を一般に広めることに貢献した。
 そうしてブランドの力も手伝って読者が拡大した70年代には、ベイトソンは学術的な論文のかわりに一般読者に向けた本を書くことに注力しはじめた。1972年に刊行された『精神の生態学』(原題:Steps to an Ecology of Mind)は、人類学、サイバネティクス、精神分析の文脈で書かれた彼の論文集を一般読者向けに構成したものである。そして死の前年となる1979年には、一般読者のために書き上げた『精神と自然』(原題:Mind and Nature)が刊行された。

 どちらも「精神(mind)」を表題に掲げているこの二冊の本のなかで、ベイトソンはメタローグ(metalogue)という形式で文章を書いている。
 メタローグとは、『精神の生態学』のなかで、次のように定義されている。

 「特定の問題に関する会話。この会話は参加者同士がその問題について話すだけではなく、会話の構造そのものも問題と関係していなければならない。(…)とりわけ、進化理論の歴史〈に関する記述〉は不可避的に人間と自然のメタローグの形式を採り、その中における思考の創造と相互作用は必然的に進化のプロセスを体現しなければならない」※拙訳、〈〉内は筆者注。

 メタローグとはつまり、話者の関係性が会話の構造に反映されている会話のことである。このような制約を課した記法を編み出したのは、ベイトソンがまさに旧来の文法の制約から脱し、思考形式そのものを進化させるための言語を構築しようとしていたからだと言えるだろう。
 彼はまた、「関係性の思考」と、情報とは生命的な主観性の差異から生まれる差異そのものである、という考え方を一貫して説いた。世界のあらゆる現象は常に変化(evolve)しているから、個別の状態としてではなく、他の事物との関係性において捉えるべきだという考え方は、事物の独立性(independence)を否定し、相互依存(interdependence)しているという認識に根ざしている。同時に、ベイトソンは精神分析家のカール・ユングの語を借りて、主観の影響を受けない非生命的世界(pleroma)ではなく、主観的な知覚の差異からこそ情報が発生する生命的世界(creatura)にこそ着目するべきだと論じた。つまり、彼にとっては、従来の独話(モノローグ)の記法は、実世界で生起している生命的な関係性を表すのに不十分だったのだ。
 ベイトソンが実際に書いているメタローグは「父」(Father)と「娘」(Daughter)の対話録の形式を取って書かれている。先述した二冊の本ではそれぞれ一章がメタローグのかたちで書かれている。ただし、これはベイトソンが想像した架空の対話であり、娘と話した現実の記録ではない。
 生涯で3人の女性と結婚したベイトソンには、最初の妻である人類学者マーガレット・ミードとの間に生まれ、自身も文化人類学者になったメアリー・キャサリン・ベイトソンという娘がおり、彼のメタローグに登場する「娘」とは常にこのキャサリンのことである。グレゴリーは、本を書く際に自分の考えを進める上で、自問自答する代わりにキャサリンを登場させ、自らの意見に対して忌憚のない指摘を語らせている。
 ベイトソンはなぜメタローグの相手に娘を選んだのだろうか。いや、なぜ父親としての自分と娘、という関係性を選んだのか、と問わなければならない。ひとつには、メアリー・キャサリンは言語学を学んだ後に文化人類学の研究者になった人物であり、いわばグレゴリーの「同業者」である。実際に二人は、家庭でも学会でも議論を交わしていたらしい。故に、自身の思考の整理を担わせるのに適したキャラクターだったと推測できるかもしれない。
 同じく同業者であり共にニューギニアを踏査した研究者仲間のミードとは離婚していることもあり、メタローグに登場させるのは憚られたのかもしれない。また、1969年には3番目の妻ロイスとの間にもう一人の娘ノラ・ベイトソンを授かっているが、哲学的な対話の相手役を担わせるには、想像の上とはいえ、幼過ぎただろう。
 なにより、親と子は、進化プロセスの上ではそれぞれ旧世代と新世代を表している。学習とは個体の進化であり、進化とは系統の学習であると捉えたベイトソンは、想像上とはいえ、同輩にして遺伝的な継承者である娘との問答を通して、執筆時においては自らの思考の限界を超え、またその結果を現実の娘との会話にフィードバックすることによって、親子の関係性そのものを進化させようとしたのだろう。

 1980年にグレゴリーが病死した時、メアリー・キャサリン・ベイトソンの手元には二人の共著となるはずだった本の草稿が遺された。その後、娘は6年をかけて、父の未完成の文章を校正しつつ、今度は自分が亡き父とのメタローグを4章分も書き上げたのだった。あちら側の父とこの世の娘による共同作業によって完成した本は、『天使のおそれ』(原題:Angels Fear: Towards an Epistemology of the Sacred)という題名で、1987年に刊行された。代々無神論者の家系に育ったベイトソンがその生の最後に掘り下げた主題は、宗教における聖性の認識論を記述することだった。

『天使のおそれ』表紙

 
 メアリー・キャサリンはこの本のなかで、父グレゴリーが40年ほど前から父娘のメタローグを書いてきたことを明かしている。そして、当初はメタローグ中の「娘」の言っていることのほとんどは父がでっちあげた想像でしかなかったのが、20年ほど経ったあたりからは、かなり「リアル」になってきたという。それは、グレゴリーの書く「娘」が実際の彼女に似てきたのと同時に、彼女自身もグレゴリーとの会話の際に「娘」を参照するようになったからだという。そしてこの亡父との共著においては、彼女自身が「娘」の役を引き受け、グレゴリーが生きていたら話したであろう事柄を書き上げた。

現在も精力的に講演活動を行うメアリー・キャサリン・ベイトソン博士。“Mary Catherine Bateson-2Nov2004” by Festival della Scienza (CC:BY-SA 2.0)


 この不思議な親子関係は、ベイトソンとミードが調査したニューギニアの奇祭ナヴェンにおいて、子どもが父親の役に成り代わり、母の兄弟が妻の役を演じ、村中の男女が性別を交換するかのように振る舞うという構造を想起させる。この儀式は、子どもがはじめて新しい達成を成し遂げた時にそれを祝い、その記憶を定着させる効果もあると同時に、共同体のなかの男女のあいだで強化された社会的分裂を無化することで、連帯を取り戻す作用があるとベイトソンは分析したのだった。
 1939年に生まれたメアリー・キャサリンがこの本を書き上げたのは1986年だから、そこから40年を差し引けば、グレゴリーがこのようなメタローグを始めたのは娘が7歳ほどの時だっただろうか。彼がミードと離れたのは1950年のことだから、キャサリンはその時にはまだ11歳の時である。いずれにせよ、数年の誤差があってもおかしくないが、定かなことはわからない。ただ、もしかしたらグレゴリーが、離婚という〈分裂生成〉によって生まれた家族の裂け目を、メタローグという処方をもって埋めようとしたのかもしれない、とつい考えてしまうのは、わたし自身が現在6歳の娘と暮らしているからかもしれない。

 ベイトソンの著作に初めて触れ、その関係性の思想のラディカルさに天啓のような驚きを覚えたのは、今から15年ほど前の修士課程生の頃だったが、その時にはこのようなことには考え至らなかった。しかし、自分にも娘が生まれ、日常的な会話を交わせるまでに成長した今日、ベイトソン本人の思想が当初よりも遥かに生き生きとしたものとして感じられる。これも、彼が説いたように、関係性の変化によって生じる情報が異なる、ということをわたしが主観的に経験していることに他ならないのだろう。
 わたしは実際に、娘との間でメタローグに近い構造のコミュニケーションを経験したことがある。それは彼女のフランス語学習において、言語そのものを教えるのではなく、自分の学び方を追体験させる関係性の環世界を作り出す、ということだった。

10回目につづく