六月から七月にかけて、町には<太陽を知らない族>が増える。日中ずっと家や図書館に籠って、勉強ばかりしている学生たちのことをそう呼ぶ。大学の試験は、だいたいが口頭試問である。関係の資料や書籍を読みに読む。質問は文系理系を縦横無尽に縫い、時代や地理を越えて、リベラルアーツだ。
 イタリアの大学は、最短で三年間。試験で単位を取得し終えると、卒論が待っている。まとめたものを提出すれば済むのではなく、大教室のような場で手際よく発表しなければならない。指導教官や外部からの教授陣からの質問に答えて、採点される。卒業試験は公開されていて、誰でも聞くことができる。

「来週、僕の卒業試験なのですが、聞きにいらっしゃいませんか」
 ダヴィデに誘われて、喜んで出かけていった。
 学校はミラノのリナーテ空港の近くで、住宅街を通り抜けた市街地との境界にあった。周囲には低層住宅しかない。地図を手に歩き、迷った。低いフェンスで囲まれた流線形の建物が見え、なだらかなスロープが門まで伸びている。
 <やっとみつかった!>
 開いたままの玄関門から入った私の後を、少し離れて三人がついてくる。五十絡みの痩せた男性とその妻らしい人。もう一人は、少し離れて歩いてくる。二十代半ばか。彼らも卒業試験を聞きに来たのだろうか。
 先に校舎入り口に着いた私は振り返り、後ろに続く三人に向かってバッテン(違います)をしてみせた。そこは学校ではなく、市民館のような場所らしかったからだった。
「ミラノには不慣れなもので。高速を降りてからもずいぶん迷ってしまいましてね。そろそろうちの息子の番ですのに、間に合うでしょうか」
 スイスとの国境近くの村から来たのだ、と男性は言った。
 卒業試験ともなると、我が子が学業を締めくくる栄誉の瞬間に立ち会おうと、家族はもちろん、親類縁者たちまで大勢が詰めかける。
 この三人もそうなのだろう。
 妹さんですか?
 若い女性はこわばった表情のまま、何も言わずに頭を振った。
「うちの嫁でして」
 え? 
「妻です。ルーカの」
 よく見ると、下腹部がふんわり丸い。
 若い妻は、夫の卒業試験に遅れるかも、と半泣きになっている。
 働きながら勉強するなんて、と見知らぬ人たちの息子・夫を讃えると、
「それはもう、立派な子なんです」
 若い嫁を目で押さえ込み、母親は胸を張った。
 父親は私たちをおいて、ひと足先を急いでいる。私たちの背後から、黒くて大きなケースを抱えた男性が大股で抜いていく。
 サックスか。
 これから聞きに行こうとしているのは、ミラノジャズ芸術学院の卒業試験なのだった。
 学内に一歩入ったとたんに、遠くからピアノやドラムの音が聞こえてくる。校舎の造りはごく質素だ。楽器やコンサートのチラシ、ポスター、名代ジャズマンたちの写真を廊下から取り外すと、市役所のような病院のような灰色のリノリウムの床だけが残る。その上を、楽音が滑る。
 誰かに見られている……。
 ふと斜め上を見ると、壁いっぱいのウインクをしているビル・エヴァンスと目が合った。
 件の一家の息子は、クラリネットでの卒業試験だった。級友のダヴィデがドラムで伴奏する。ピアノは、シチリア島出身の級友ジュゼッペだ。
 パイプの折り畳み椅子が並ぶ。一列目は教授陣で、それ以外は学生もいれば親族や業界関係者たちもいる。どうやら学校の近隣の人たちも聴きに来ているらしい。卒業試験の会場は、満席御礼だ。

 


 ミラノ録音。
 かつてアメリカからもヨーロッパ各国からもジャズマンたちがミラノに来ては、録音をするのがステイタスだった時期がある。ミラノに捧げた名曲もあるほど、ジャズ界では特別な拠点だった。下町には、地下や職人の工房跡を利用した、小さなライブハウスがいくつもある。深夜十二時を過ぎる頃から演奏者の一角と客席とが混然一体となり、自由自在の音が重なり、うねり始める。店の隅でピアノが始まり、ドラムが、そしてクラリネットが、ベースにサックスも。

 昨冬、二十人も入ればもう満席、という店で偶然に学生ダヴィデとジュゼッペたちのセッションを聴いて驚き、演奏後にビールを差し入れ話しに行ってからの交流である。幻のミラノジャズに再会した思いだった。
 さて、試験は進む。クラリネットのルーカもピアノも、そしてドラムのダヴィデも各々、卒業試験での演目が自分にとってどういう意味を持つ音楽なのか、教授陣からの質問に答えている。熱心に説いているうちに、若い演奏家たちの言葉や笑い声、沈黙は、次第に楽器の音色へと変わっていく。
 ミラノの未明の息遣いだ。
 ここにも<太陽を知らない族>がいる。