ベイトソン父娘の双方向のメタローグは、父と娘が互いの存在を拠り所とし合いながら、それぞれの思考のみならず、関係性そのものを変化させるような営みだった。それは決して、ただの架空の思索ではないし、一時的で一過性の現象でもなかった。むしろ、何十年という長い時間経過のなかで、自己の意識のうちに相手を憑依させるということに似て、父にとっての娘、娘にとっての父の存在の輪郭がゆっくりと醸成することを助けるプロセスだった。
 このような親子の関係性は、一見特殊なもののように見えて、実はあらゆる親子の間で見られるものではないだろうかとも思う。例えば、親同士の会話でよく「子どもからは学ぶことが多い」という表現が出てくる。それは、子どもから素朴な疑問を唐突に投げかけられて、改めて思考を促される時だったり、または、子どもが泣いたと思ったらすぐに機嫌を直して笑い始める様子を見て、その素直さに感じ入ったりする時などである。
 しかし、親が幼い子に抱くのは、無邪気な存在に対する愛おしさの感情だけではない。子のなかに過去の自分を垣間見たり、さらには未来の自分を幻視したりするような感覚も多分に混ざっているように思える。そのように感じる時、親は子から、そして子は親から、一体何を学んでいるのだろうか。

 つい最近、自分の子どもとこんなことがあった。

 娘はいま、幼少期のわたしと同じ様に、東京で生まれ育ち、フランス語の学校に通っている。幼稚園に通えるようになるまでは、日本の保育園で過ごしてきたので、日本語を先に習得し、フランス語は3歳になってから覚え始めた。そうして2年が経った頃、フランス語で話しかけると大体のことは理解するようになった。しかし、なかなか自分からフランス語を話そうとはしない。保護者面談では、担任の先生から「もっと家でもフランス語で喋ってあげなさい、さもないと小学校に上がってから大変になりますよ」と叱られた。わたしはできるだけ普段の生活でも、娘にフランス語で話しかけるように心がけていたが、それでも彼女はこちらが日本語を理解するということを分かっている。すると、フランス語で話しかけても日本語で返される。そのような無限ループに陥ってしまい、少し思い悩んでしまっていた。
 それというのも、必然性がない状態で特定の言語を学ぶということが当人にとって苦痛であり、時としてその学習を阻害する最大の要因になりかねないことを、わたしは幼少の頃の自分自身や周囲の子どもたちの経験と照らし合わせて知っているからだ。わたしの場合は、もともとフランス語ネイティブではない親だったからフランス語を学ぶ上でのプレッシャーもなく、フランスの言語や文化への関心が自然と生まれたのだった。逆にフランスで生まれ育った親からの過剰な期待と圧力によって、フランス語が嫌いになり、心が離れてしまう友人もいた。だから、自分の娘も、フランス語を話す必要と必然を自主的に感じなければ、ただの押し付けられた学習になってしまい、言葉を十分に受肉化することはできないだろう、という危機感があった。
 それと同時に、自分と同じ様に、放っておいてもいつか勝手に興味をもって学び始めるだろう、とも思っていた。しかし、自分と似たような境遇にいる娘を見ていて、彼女が自律的にフランス語に関心を持つ確率を少しでも上げるために、自分の経験を活かせないかと悶々と考えていた。
 ある夕方に、仕事場から帰宅する途中で、ひとつのアイデアが閃いたのだった。家に着くと同時に、娘にフランス語で「パパはさっき電柱に頭をぶつけてしまったのだけど、そうしたら日本語が話せなくなってしまった」と伝えた。それを聞いた娘は最初に呆気に取られたような顔をしたが、すぐにいたずらっぽい笑みを浮かべて「パパ、噓ついてるんでしょ?」と日本語で聞き返してきた。それでもひたすら「え、日本語だと何言っているのか分からないよ」と答え続けた。
 その晩は娘の追及をなんとかかわし、翌朝からの子どもの見送りの場面でも、他の父兄の前で(目配せをしながら)日本語が理解できないフリを続けていたら、三日目あたりから「どうやら頭の打ちどころが悪いと、本当に言葉を忘れるらしい」と信じたのか、こちらからの問いかけに対して、日本語に混じえてぽつぽつとフランス語の単語で応答するようになった。そうして一週間が経った頃には、主語と動詞と対象語が入ったフレーズを作り始め、家庭でのわたしとの会話はもっぱらフランス語で交わすようになった。娘の友だちの間では、「頭をぶつけて日本語を忘れたお父さん」として知られるようになって少し気恥ずかしかったが、娘の言語能力がどんどん発達することが嬉しかった。
 それからは毎日、家にいる時以外でも、スーパーや飲食店での店員と意思の疎通を図る時、タクシーの運転手に行き先を告げる時、日本人の家族や友人、仕事相手と会う時など、とにかく娘と一緒にいる日常のあらゆる場面で日本語が話せないフリをし続けていたら、彼女のフランス語はまるで植物の成長を早送りの映像で見るかのように加速度的に上達していった。
 その過程で、事後的に分かったことは、言葉を発する能力はすでに潜在していたが、間違えることの恐れと恥ずかしさがその開花を妨げていたということだ。その心理的な障壁は、誰のせいでもなく父に起こった「事故」によって、乗り越えられた。すぐに娘は文法の間違いを起こすことを怖れなくなり、間違いながらも自由に発話し続けることで、この新しい言語を自分の身体に根付かせていった。
 この擬似的な「失語症生活」は、わたし自身にも大きな負荷がかかった。近所の人々や行きつけの店の従業員からは不審がられ、家族や友人たちが家に遊びに来ても一人だけ会話の輪の外に置かれるなかで、現地の言葉を解さない外国人の心労を体験した。同時に、その過程でわたしの言語野が再構成(reconfiguration)されるようにも感じられた。日本語が抑制されると同時に、フランス語の久しく使っていなかった単語や表現が思い出されてきたのだ。
 そして、一ヶ月ほどが経ち、娘が電話越しで、少し気恥ずかしそうにしながらも自分からフランス語で語りかけてきた時には、自分が子どもの時にはじめてフランス語の文章を繰り出せた時に感じた興奮がフラッシュバックのように甦るのを感じた。
 結局、この生活は4ヶ月ほど続いたが、引っ越しを契機に一度終わらせることにした。引越し業者との打ち合わせや新しいご近所への挨拶回りの際に、カタコトの日本語ではさすがに埒が明かない。それに、その時には娘のフランス語の発話能力は十分に「離陸」したように思えた。そうしてわたしは、引っ越しの準備をしているある週末に、娘が玄関のドアを開けたところを見計らって勢いよく頭をぶつけた。勢いが余ってしまい、本当に痛かったのだが、日本語で「いてて」とつぶやいた時の娘の驚いた表情が忘れられない。すぐに「Tu parles japonais(日本語喋ってる)!」とフランス語で叫んだのだ。
 その瞬間から翌日まで、わたしと娘はとても不思議な時間を過ごした。4ヶ月の間で醸成され、二人を包んでいたフランス語の皮膜がふっと消え去り、日本語で交わし合う言葉がひどく人工的で、噓っぽく聞こえたのだ。彼女も「パパと日本語で話すの、なんか変だね」と、はにかんだような顔をして繰り返していた。この「変な感じ」は翌日には薄れていったのだが、この時ほど言語的相対論の概念を身体的に感受した経験はいまだかつてない。
 父の日本語の能力が減少することで、娘のフランス語の能力が増大する。これはわたしが演じた虚構によって意図的に作られた状況だが、この期間、わたしと娘の二人だけに固有な環世界がたしかに生成され、そして消滅したのだった。

 この家庭内の「実験」を振り返ってみて、あらためて良くわかったことがいくつかある。まず、学習行為が個に限定して行われるのではなく、他者との関係性のなかで発達するということ。今回は悪巧みではあったが、当人に学習を行う必然性が生じる状況を、一種の場の設計(デザイン)として作り出すことができる。つぎに、学びとは能力が線形に上昇していくプロセスではなく、増減や進退を繰り返す「変化」であるということ。今回は娘の言語習得という目的があったわけだが、期せずしてわたし自身が言語の相対性を身体的に学び直すきっかけにもなった。そして、変化する二人の関係性そのものが一つの環世界をかたちづくるということ。関係の仕方が、その関係を通して互いに交流する方法を規定する構造(アーキテクチャ)になる。今回は父娘という均質性の高い関係のケースだったが、初対面同士や、友人同士の関係においても、固有のコミュニケーションの環世界が生じ、変化するだろう。

 最後に、娘がかつての自分のようにフランス語を獲得する過程を見ていて、過去に自分が追った学びの軌跡が再び喚起されたことも挙げておく。
 この連載の初回で、娘の出産に立ち会った際、子どもが母体から外界に出てきたその瞬間に、自分の未来の死が完全に予祝されたように感じた、と書いた。その強烈な感覚の特異点(シンギュラリティ)の記憶は、これまでのどんなに濃密な現実の体験よりも、どんなに鮮烈な夢の映像よりも、いきいきと脳裏に焼き付いている。いま改めてその光景を思い出すと、死の予祝(pre-blessing)というよりはむしろ、自分自身が生まれたことの数十年経ってからの後祝い(post-blessing)のように感じられる。彼女の存在を通して、わたし自身が生まれ直し、彼女の学びを通して、わたし自身が学び直していく。父娘の包囲世界(umwelt)には、円環的な時間が流れている。
 今回、こうして娘についた噓を文章で告白したわけだが、彼女がこれを今から10年後くらいに読む時、どんな表情をするだろうか。もしかしたら心の底から怒られるかも知れないが、それでもわたしはその時が楽しみでならない。

(11回目につづく)