昔の定宿だった海辺のホテルは、内戦の砲撃の応酬で古代遺跡のようになってしまっていた(ソマリアのモガディシオで)


 無政府状態のソマリアだが、とにかくホテルはあった。「サハフィール」という名前だった。2003年、ソマリアの首都モガディシオに入ったときのことだ。
 武装した護衛団に守られてホテルに着くと、頑丈そうな鉄の門扉ののぞき窓から厳しい目がのぞいた。やがてギイッと門が開き、車が中に入るとすぐ閉まった。
 車から降りようとして、ぎょっとした。玄関の石段のわきに大きな機関銃が据えられ、銃口をこちらに向けていたのだ。弾帯が装着され、いつでも撃てる状態だった。
 玄関わきには門番小屋があり、カラシニコフ自動小銃を脇に置いた若者たちが5、6人たむろしている。ホテルに雇われたガードマンだ。ホテルの塀は、元からあった高さ1.5メートルほどの白い塗り塀の上に、コンクリートブロックを2メートルほど積み上げてあり、その上にさらに有刺鉄線をぐるぐる巻いてある。中から外の様子はまったく見えないが、当然、外からも見えない。まるで刑務所だ。
 3階建て7部屋だけの宿だった。以前は誰か金持ちの屋敷だったのだろう。他のホテルが営業していないので、外国人ジャーナリストはほとんどこの宿を利用している。
 部屋はエアコン付きでシャワーがあった。ただしお湯は出ない。塩っぽい味のする水が出るだけだ。
 ホテルの部屋のドアの内側に、英語の張り紙があった。
 「お客様各位。ガードマンの付き添いなしで門の外に出ないでください」と大きな文字。そのあとに「門外の事故について、当ホテルは一切の責任を負いません」とある。同行したケニア在住のフリーカメラマン、中野智明君と、「これ、すごいねえ」と笑い合った。
 しかし、それが大げさな警告ではないことを、あとで思い知ることになった。
 私たちがソマリアを出たあと、入れ替わりに英BBC放送の女性記者が「サハフィール」にチェックインした。ある日どうしたわけか、彼女は門の外で車を降りてしまった。その途端、背後から撃たれた。即死だったということを、ケニアに戻ってから聞いた。
          

トヨタのピックアップトラックにソ連製重機関銃をすえ付けた「戦車」。「テクニカル」と呼ばれ、内戦で最大の兵器だ(モガディシオ市街で)


 ソマリアはなんでそんな危ない国になってしまったのか。
 アフリカ東端の「アフリカの角」と呼ばれる地域にあるソマリアは、ソマリ人が住んでいる。アフリカでは数少ない単一民族国家だ。
 19世紀末、英・仏・伊に分割され、相次いで植民地にされた。そのうち北部の英領ソマリアと南部の伊領ソマリアが1960年に独立・統合してソマリア共和国となる。仏領ソマリランドは77年にジブチとして独立、別の国となった。
 69年、ソマリア軍の副司令官だったシアド・バーレがクーデターで実権を握り、社会主義国家を宣言した。社会主義を唱えたのは独裁に都合がよかっただけだ。社会主義的な施策はほとんどなく、バーレは関税や政府開発援助などの利権を独り占めした。
 これといった資源のない国でバーレが売り物にしたのは「地勢」だった。ソマリアは紅海のインド洋側の出入り口に位置する。インド洋からスエズ運河に向かう船は必ずここを通るし、紅海からインド洋に抜けようという船も同様だ。世界戦略上の拠点である。
 バーレが政権を握った1969年頃はベトナム戦争の末期で、東西対立の厳しい時代だ。バーレはその地勢を、まずソ連に売る。ソマリアの港はソ連艦船の拠点となった。ソ連からの見返りは軍事支援だ。兵力6万足らずのソマリアに、10万丁を超すカラシニコフ自動小銃が送りこまれた。
 バーレは鉄道や道路などのインフラ整備をほとんどしなかった。病院や学校の建設にも熱意を示さなかった。ソマリアは部族的なまとまりの強い社会だが、国庫の金は部族の支持を取り付けるためのわいろ代わりにばらまかれる。しかし権力維持に関係の薄い地方部族は冷遇された。
 1977年、隣国エチオピアと領土をめぐる「オガデン紛争」が起きた。エチオピアも社会主義国だ。するとソ連は、ソマリアを捨ててエチオピアを支持した。怒ったバーレは急速に米国に接近する。80年、米軍に基地使用を認め、合同の軍事演習を実施した。それまでの社会主義はどうなってしまったのか、国民に何の説明もなかった。
 そんな中で1980年代のアフリカ大飢饉が起きた。飢えの中に放置された地方部族の反政府闘争が始まる。88年には北部部族が武装蜂起して内戦となった。バーレはあわてて複数政党制を導入するなどの融和策を打ち出したが、間に合わなかった。米ソどちらの支援も得られず1991年に政府は倒れ、バーレは国外に逃れた。
 政権が崩壊すると、人々は軍の武器庫を襲う。ソ連が送りつけた10万丁のカラシニコフ銃が国内にあふれた。武装した部族集団の間で利権をめぐって縄張り争いが始まった。
 92年、国連は平和維持のため多国籍軍を派遣する。だが93年、米軍の武装ヘリ2機が撃墜されて米兵18人が惨殺される事件が起きる。「ブラックホーク・ダウン」だ。国連はソマリアから手を引いた。それから30年近く、混沌の無政府状態が続いている。
 ソマリアは単一民族国家だ。もっとも国づくりがしやすい条件を持っていたにもかかわらず、近代国家の形成に失敗した。国の指導者が利権あさりを続けたため、国民意識をつくりあげることができなかったのである。日本の戦国時代みたいなものかもしれない。

 

 無政府状態というのは、警察がいないということだ。人の物を奪っても、人を殺しても、捕まりもしなければ罰せられもしない。自分の生命財産は自分で守るしかないのだ。
 私たちがモガディシオに入ったときは、宿の予約から取材車の手配、安全の確保などはすべて「フィクサー」と呼ばれる個人エージェントに頼るしかなかった。
 フィクサーの名前はアリ。アリが用意した車は、ランドクルーザーが1台とピックアップトラックが1台だった。ランドクルーザーは私と中野カメラマン用、ピックアップは護衛用。荷台に、カラシニコフ銃で武装した若者が7人乗っていた。
 モガディシオは外国人の拉致が頻発していた。アリは「どの武装勢力もカネがほしい。外国人とみると拉致し、身代金を要求してくる」という。
 それは国連関係者でも、NGOのスタッフでも同じだ。ソマリア入りの前日にナイロビのユニセフ事務所で渡された「治安週報」によると、その1週間で5人が拉致され、ほかに4人が殺されていた。外国人には護衛が絶対に必要なのだ。
 私たちの護衛は7人だが、アリはそれが最低の人数だといった。
 「各地区の武装勢力とのトラブルを避けるため、7人は地区ごとに顔のきく者を選んである。ただ、こちらより人数の多い賊に襲われたら彼らは抵抗しない。そのときは覚悟してほしい」
 人びとは地区ごとに武装自警団をつくり、部族ボスの庇護下に入って暮らしている。とはいえ、よその部族からいつ襲われるか分からないので、交代で夜警に立つ。気の休まるときがない。
 水は雨水を貯めて使い、電気は自家発電だ。発電機のある家から各自が電線を引き、時間を決めて使う。清掃車など来ないからごみは散らかり放題で、風が吹くと紙くずやビニール袋が宙を舞う。下水の詰まりもそのままだ。汚水が道路にあふれ、町全体に悪臭がただよう。
 モガディシオは、昔は美しい街だった。イタリア風の白壁・赤屋根の建物が並んでいた。海を見下ろす高台には「メトロポール」という名のホテルがあった。吹き抜けのホールが広く、親切な女主人がいた。そのホテルの場所を訪ねたが、何もなかった。
 15年も続く内戦で、街並みは廃墟になっていた。建物の壁は崩れ落ち、白い柱だけが残る。まるで古代の遺跡に迷い込んだような気分だった。
 無政府状態では警察がないが、それと同時に学校もない。1991年以来、ソマリアではだれも正規の学校教育を受けていない。ということは、18歳以下の人たちは学校に行ったことがないのだ。読み書きを学びたくても、教えてくれる場所がない。外国に出て教育を受けようと思っても、政府がないからパスポートがない。外国に行くこともできないのだ。
 携帯電話会社はあった。それも3社。武装勢力各派も、携帯電話がないと自分たちが困るので、営業を妨害したり破壊したりはしないのだという。私たちもそのおかげでフィクサーのアリと連絡が取れたのである。

板の上にたばこやせっけんを並べただけの露店。その横を部族の民兵が巡回していた(モガディシオで)


 サハフィール・ホテルは一泊3食付きで70ドルだった。世界のほかの場所では「一泊2食」がふつうなのだが、モガディシオでは外に出て食べることができないので「一泊3食」ということになる。朝食を食べて取材に出る。昼ごろになるといったんホテルに戻って昼食を取り、それからまた取材に出る。そんな生活だった。
 ところが、3日目から昼食がなくなった。近くで戦闘があり、食材の配達が止まってしまったのだという。小麦粉がなくてパンがつくれず、卵もハムもない。支配人は、朝と夜だけは何とかするから、昼は勘弁してくれといった。
 仕方がないと言えば仕方がないのだが、緊張続きの取材のせいか、腹が空いてたまらない。何でもいいから腹に入るものをくれないかと頼んだ。ボーイ君はしばらく考え、うなずくとどこかに出て行った。しばらくして、大きなパパイヤを抱えて戻ってきた。裏庭でとってきたらしい。長さが30センチ以上もある、人の頭より大きいようなパパイヤだ。ボーイ君はそれを二つに割って皿に載せ、レモンを2個ずつ添えて出してきた。
 中野カメラマンと顔を見合わせた。パパイヤなんて、マンゴーやバナナなんかに比べたら味がせず、魅力の薄い果物だ。そのパパイヤだけ? がっくりしたが、ほかに何もないのだから食べるしかない。半割りのパパイヤにレモンをかけ回し、スプーンですくって口に運んだ。
 それが、うまかったのだ。
 木の上で日に当たって完熟したパパイヤは甘かった。それがレモンの酸っぱさとよく合う。全部食べてしまい、食べ終わると腹いっぱいになった。ボーイ君は「もう1個食べますか」という。いや、もう十分、ありがとう。
 3日ほど、パパイヤの昼食が続いた。ある朝、レストランで顔を合わせた中野カメラマンが「なにか気が付きません?」といった。
 「おなかの調子がやたらといいんです。毎朝、トイレで腸の中のものがきれいさっぱり全部出てしまっているような……」
 そういえば、私も毎朝、鼻歌が出るくらい快調だ。
 「たぶん、パパイヤのせいでしょうね」
 大量に食べ続けたパパイヤの豊富な繊維質が、腸に大きく働いたに違いない。
 やがて食材の配達が再開され、昼食はスパゲッティやパン、卵焼きなどが普通に出るようになった。しかし私たちは、それらに見向きもせずにパパイヤを食べ続けた。ソマリアにいる間ずっと、私たちの快調さは続いた。