世界で一番食べられている肉は何だろうか?

日本で肉と言えば牛肉、豚肉、鶏肉だろう。羊、山羊、馬、鯨なんかは趣味性や地域性が強いので、一般的にはおそらく「その他」扱いとなる。

面白いことにインドではこの順序が逆だと読んだことがある。宗教にもよるわけだが、ヒンドゥー教なら最上位が羊と山羊、次に鶏肉だそうで、豚肉は珍しく、牛肉はあり得ない。イスラム教やユダヤ教なら豚肉を食べない。知り合いのアフリカ人はキリスト教徒だが、山羊と牛が好きで、日常的なのは鶏肉とのこと。豚は顔をしかめて「体に良くない」と言い切った。あるいはイスラム教の思想が、ある程度は入っているのかもしれない。

牛、豚は宗教的な禁忌のある食べ物だ。少なくとも豚については科学的な根拠を考えることができる。豚の生理機能は人間とよく似ているため、豚の病原体や寄生虫は人間の体内でも生きられる。つまり人間にもうつる。

豚は残飯でも排泄物でも食べる雑食性が強みだ。この世には豚トイレというものもあって、トイレの下で豚を飼って、ウンコを食わせている。見事な物質の循環を実現しているわけだが、一方、残飯や不消化物を食べるということは、人間と豚は餌が競合するということでもある。牛ならば、人間が絶対に食えない草を食べて、牛乳や牛肉という人間に食べられる形に変換してくれるのに。さらに、豚は元がイノシシ、つまり森林性の動物で、あまり乾燥に強くない。

そうすると、豚は貴重な食料や水をシェアしなければいけない上、病気をうつされる原因にもなり得る、厄介な代物とも言える。社会によって豚肉食を禁忌としたのは、こういう理由を考えることもできるだろう。

 

では、禁忌のないほうの話。

どうやら禁忌のない肉、それがニワトリなのである。鶏肉の普及率は驚くばかりで、世界中どこに行っても、インドだろうがアラブだろうがアフリカだろうが欧米だろうが中国だろうが東南アジアだろうがオセアニアだろうが南太平洋だろうが、さらに肉食を表向き禁じていた時代の日本でさえ、ニワトリは食べているのだ。ニワトリがいる限り、鶏肉料理のない地域はない。

一つにはニワトリが非常にコンパクトで、かつ手のかからない生き物だ、ということがあるだろう。庭先で普通に飼えるし、餌も特にいらない。放っておけばその辺で何かつついている。夜は守ってやらないとイタチやキツネに食われてしまうが、これもなかなかうまい方法がある。友達が以前、フィリピンで見たのだが、夕方になるとニワトリがヒヨコを連れて家の前に戻って来るので、上から籐で編んだカゴをズボッと被せるのだそうである。ニワトリの方もそれがわかっているのか、ヒヨコを集めてじっとしている。朝になったらカゴを取って、また放し飼いにすればいい。ちなみに彼女の観察によれば、ニワトリが連れているヒヨコは16羽のことが多かったそうである。一腹卵数がそれくらいなのかもしれないと言っていた。

また、ニワトリは小さいがゆえに、持ち運ぶのも楽である。南太平洋の島嶼部まで広まったのは、小さなカヌーや筏にも乗せられたからに他ならない。これが巨大な牛なんぞだったらどうなったことか。帆船の時代になっても、生鮮食料用に船上でニワトリを飼っておくことはあった。

 

というわけで、「みんな大好き鶏肉」なのだが、少なくとも日本で一番最初からニワトリを食べていたかというと、これもちょっと微妙なのである。

ニワトリの埴輪が出土するから、古墳時代にいたのは確かである。日本最古のニワトリの骨は、弥生時代のものだ。だが、骨が出土する例が、あまりないのだ。あっても雄の骨(蹴爪がある)で、繁殖させていたならもっと雌がいたはずだ。それに、普段から食べているものならば、かならずその骨が残る。大名屋敷の台所跡から発掘された骨を調べれば、どんな鳥を食べていたかわかるくらいだ。骨が出ないということは、ニワトリを食べていないのである。

食用でなければ、古墳時代のニワトリはなんだったのか。

もちろん、祭祀用である。ニワトリは正確に朝を告げる鳥だ。ニワトリの原種、東南アジアのジャングルに住むセキショクヤケイも、夜明けの1時間前に大声で鳴く。それも木のてっぺんで鳴く。天空から響く、闇と魔を祓い、夜明けが間近いことを知らせる一声、それがニワトリなのである。古墳時代の日本では大陸からもたらされた貴重な「神の鳥」であったろうし、その珍しさが権力を象徴してもいたのだろう。食用になったのはニワトリがどんどん増えて珍しくもなんともなくなってからのはずだ。古くは聖武天皇が肉食禁止令を出し、そこにはニワトリも含まれているが、要するに「ダメですよ」と言われるほど食っていた、ということである。

 

ところが、ニワトリが伝わらなかった地域というのもある。ニワトリの原種は東南アジア産なので、当然、家禽化もこの地域で始まったはずだ。中国では1万年ほど前の遺跡から世界最古の「ニワトリ」ということになっている骨が出ている(が、同定が怪しいという話もある)。これがヨーロッパまで広まったのは紀元前1000年頃。エジプトにはそれ以前に海路で伝わったようだが、サラセンの時代にイスラム教と共にアフリカを南下している。

しかし、どうやら太平洋を越えることはなかったのだ。ユーラシアからアラスカへと人類が最初に渡ったのは1万年以上前。時期的にニワトリの家禽化より古いくらいだし、仮に世界のどこかでニワトリが飼われ始めていたとしても、ユーラシア北東部の狩猟民にまで伝わるのはずっと後のはずだ。その後、ユーラシアから太平洋の島々を経て南米に人間がたどり着いていた可能性があるが、どうもニワトリは届いていない(南米のニワトリがサモアあたりのニワトリの遺伝子を持っていた! という論文が出たこともあるが、その後の論文で否定されている)。となると、アメリカ先住民はヨーロッパ人と接触するまで、ニワトリを知らなかったはずである。

で、その世界で「夜明けを告げる聖なる鳥」は何か?

そう、カラスだ。北方先住民の間でワタリガラスが神聖視される理由の一つは、おそらくニワトリと同じく、夜明け前に鳴き始めるからである。古代中国や古代エジプトではカラスが太陽から来る鳥、太陽の象徴とされていたが、これも同じく、夜明け前に飛んで来て、夕方になると太陽を追うように集団で飛ぶからだ。カラスはあれでなかなかに、神聖な鳥なのである。

ちなみにカナダからアラスカの西海岸に住むトリンギット語族系の伝説では、世界を作ったのはカラスである。あるいは、人間に火の使い方を教えたのがカラスである。カラスは自分で、あるいはワシに頼んで天界から火を持ち帰り、その使い方を人間に教えてくれたという。もっとも、行き当たりばったりでイタズラ者で手癖が悪くて時にマヌケと、実にカラスらしい神である。「我は神であるぞよ」みたいな厳かなものではない。

そういえば、日本での事例だが、カラスがもっと直接に火を運んだ例もある。京都の伏見稲荷大社でカラスが火のついたロウソクを持ち去り、落ち葉の中に隠したために火事になりかけたのだ。これはどうやら、和ロウソクを餌と勘違いしたのが理由のようだ。和ロウソクの原料はハゼの実の表面にあるワックス状の油脂で、しかもカラスはハゼの実をよく食べているからである。もし北米でもこういうことがあれば、もっとストレートに「人間のところに火を届けた」という神話にでもなっていただろう。

ちなみに南米には過去も現在もカラスが分布しない。カラスがいない、ニワトリもいない、となると、適当な鳥がいない。ということで、神の鳥はケツァールだったりコンドルだったり、いろいろである。

 

ところで、人間……少なくとも現代人が真っ先に思いつく禁忌(タブー)といえば、「共食いをしてはならない」だろう。なるほど、人間は人間を食べるということをしないように思える。他の動物の共食いを見てもゾッとするくらいだ。だから、「動物は種の保存のために、仲間どうしで殺しあったり食いあったりはしない」などと言われたりしたこともある。

いやあ、そんなことありませんぜ?

魚は平気で共食いする。ブラックバスなど、仔魚の群れを水槽に入れておくと、数日で半分に減っている。兄弟を丸呑みにしてしまうからだ。そのくせ、親魚は卵と稚魚を守る。もっとも、その時期がすぎるとすっかり忘れてしまい、自分より小さなバスを食べることもある。やっていることがチグハグだが、つまりはほんの一時期だけ「なんだか守らなきゃいけない気になる」ということで、「仲間だから」といった同胞意識はおそらく、ない。

と書くと「いや魚は原始的で知能が低いから」と言われそうだが、カラスもやっていることが微妙である。カラスは仲間が死んでいると大騒ぎする。時に「カラスの葬式」と言われる行動だが、その一方、共食いをしたという観察もあるのだ。仲間を殺して食べたわけではないようだが、同じカラスの死骸を食べていたことはあるという。私も、遠くて確認はできなかったが、どうもカラスのように見えるものを食べているカラスは、見たことがある。

死骸を見た時に騒ぐのは、外敵が近くに潜んでいるかもしれないから大騒ぎして追い出す、あるいは興奮状態の中で敵を記憶する、という意味がある。集団で防衛する種(たとえばコクマルガラスやイエガラス)なら、仲間の死骸を持った相手を敵認定して情報を共有し、集団で攻撃することも意味があるだろう。

共食いすることがあるなら、どこかの時点で認識が「仲間の死骸」から「肉」に切り替わるはずなのである。これはなかなか面白いことだ。人間にはちょっと納得しにくいが。

だが、むしろ、人間の感覚の方が珍しい可能性は高い。人間は共感能力や、物語を作り伝える能力が極端に発達した動物である。自分と同じ仲間が殺されて食われる、といった場面は、我が事のように忌まわしく感じられるだろう。しかしこれは、犠牲者やその家族の身になって、我が事のように感じる、という能力あってこそだ。

実際、人間も人間を食べることはあった。多くの場合は「強い敵を食べることでその力を我が物とする」という究極のリスペクト系か、「お前なんか俺が食っちまうぜガッハッハ」という究極の勝利宣言だ。あるいは「死んだ親族を食べることで、近しいものの魂の一部を我が身に宿す」という例もある。この辺は愛憎による儀式的なものだと考えればいいのだが…… 考古学が専門の同僚によると、「単に食べただけですが何か」という例もあるらしい。

人間の「線引き」だって、そんなもんである。

熱中症にご注意ください

次回につづく