2018年7月22日から27日まで、東京の日本科学未来館にて人工生命(artificial life)領域の国際会議「ALIFE2018」が開催された。わたし自身は初参加となったが、コミッティの一人として運営の手伝いをして、論文発表も行い、会場で連日様々な議論に参加してきた。また、日本における人工生命研究のパイオニアである東京大学の池上高志さんや筑波大学の岡瑞起さんたちと書いた『作って動かすALife ―実装を通した人工生命モデル理論入門』(オライリー・ジャパン)という本を7月28日に上梓した。
 Artificial lifeを略してALifeと呼ばれるこの領域では、「いまある生命」ではなく「ありえたかもしれない生命」のかたちを探るという共通テーマをもとに、計算機科学者から生物学者まで、実に多様な領域の研究者が集い、生命性を立ち上がらせる原理を追究している。ソフトウェアのプログラムを実行する、ロボットというハードウェアを実世界で動かす、もしくは人工細胞を化学的に作成する、といった様々な方法が模索されてきており、科学の用語以外でも芸術表現のかたちを取ることが増えてきている。
 この連載の担当編集者である足立真穂さんから、ALifeについて書いてみないかというご提案を頂いた。この連載では、子どもの誕生を契機に生まれたが言語化ができず、その後はかろうじて意識の片隅にこびりついていた思考の残滓を再び蘇生させる、ということをしてきた。だから、物理的な層と認知的な層の両方における「生命性」について考えてきたとも言える。そこで、今回は番外編ということでALifeがこの連載で考えてきたこととどのように関係するのか、ということについて書いてみたい。

 人工生命(artificial life)という用語は、1980年代に計算機科学者のクリストファー・ラントンが作ったものだが、計算によって生命性を立ち上がらせようという動きは、1950年代のコンピュータの黎明期からあった。コンピュータの原理である計算可能性を体系化した数学者のアラン・チューリングは、物が作り出すさまざまなパターンの化学的な生成過程を数学的に記述した反応拡散系(チューリング・パターンとも呼ばれる)を考案している。また、現代のコンピュータの基本構造を設計したジョン・フォン・ノイマンは、生命のように自己複製する機械というものをコンピュータ上で演算するための数学モデル(自己複製オートマトン)を考案している。彼らは人工知能(artificial intelligence)領域の開拓者としても知られているが、同時に知能を包含する生命というコンセプトも追究していたのだ。
 計算機を用いたシミュレーションを通して、自律的に自己複製や進化を繰り返す主体を作り出すことを目的としてきたALifeは、人工知能研究で発展した技術を用いることも多い。たとえば、神経回路を模したニューラルネットワークの原型は1940年代に提案されているが、コンピュータの飛躍的な性能向上によって昨今では深層学習(deep learning)と呼ばれる一連の技術に結実している。ALifeでも、個体の学習や群れの進化を計算するためにニューラルネットワークや深層学習の技術を用いる。学習、進化とは知能の問題である以前に、生命性を規定する重要な概念だからだ。
 ただし、両者を分かつ根本的な思想上の違いがある。それは、人工知能においてはシステムの自動化を目指しているのに対して、ALifeでは自律的なシステムの構築が求められている。自動か自律か、という差異は、行為する動機が外部から与えられるか、それとも自ら作り出すか、という違いである。

 この差異は、一見すると自明ではないが、たとえば自律運転車(AIカー)というものを例にしてみよう。現在のAIカーは、たくさんのセンサーによる入力情報をもとに周囲を認識し、周りにぶつからないように目的地まで自動的に走行するものだ。UberやTesla、Googleといった情報技術企業、その他自動車メーカーが開発に注力していて、最近でも人身事故を起こすなど課題が山積しているが、その性能は着実に向上し続けている。十分に発達したAIカーが公道に投入されるようになったら、わたしたちは自ら運転することなく、より自由に移動を楽しむことができるようになる。AIカーはわたしたちの予定や行き先を自動的にクラウドから取得し、適切なタイミングで適切な場所に送り届けてくれるようになるだろう。そして自分が使っていない時には、他の人を送り届けてエネルギー代を自分で稼ぐようになる。すると、道を走るあらゆるAIカーは市民の間で共有する存在になり、自動車は私有するものではなくなるかもしれない。そうして、まるで生き物のように動き続けるAIカーがわたしたちの街に「生息」しているような感覚が浸透するだろう。
 しかし、どれほど生き物のように見えるとしても、AIカーはそれ自体で動機を持っているわけではなく、あくまでも企業や国の設定した機能を果たすための存在である。「自律運転車」と呼ばれることが多いが、正確には「自動運転車」に過ぎない。ALife的な発想でいえば、本当に自律的な車とは、野生馬のような存在だ。それ自体が生存し、繁殖するという動機をもって、普段は草原を自由に闊歩し、草をはみ、狼の群れから逃げ、また時には遊牧民に捕らえられ、食料と引き換えに人間や荷物を運ぶという労働を行う。遊牧民は当然、馬を自分たちの道具として利用するわけだが、馬が嫌がることは極力避けたり、馬が喜ぶことを意識的に行ったりもする。つまりは馬の生物学的な自律性を押さえつけて制御しようとするのではなく、その自律性をある程度は尊重しながら、コミュニケーションを試行する。
 きまぐれで自律的な馬を人工的に作り出し、都市の中に大量に放牧する動機を、わたしたちの社会はまだ持たない。事故が起こるようなリスクを孕んだシステムを作るというアイデアは、社会的には受け入れがたいだろう。それと同時に、他律的に作り変えられ、可能な限りの制御の対象として設計された存在と、生命的な関係性を結ぶこともない。
 ALifeの文脈で重要視される概念として、オープンエンドな進化(open-ended evolution)(OEE)というものがある。人間の作ってきたテクノロジーを大局的に俯瞰すれば、まるで生物のような多種多様な系統発生の樹形図が見えてくる。しかし、テクノロジーの機能と役割は明確に定まっており、時間経過を経て勝手に進化する、ということはしない。OEEとは、自然のなかで生物が果たしてきた進化のように、無目的に変化し、環境と適合したものが生き残るという意味で、未来が「開かれている」ことを意味している。

 わたしたちの産業文明は、この「開かれ」を制御しようとして発展してきたとも言える。過去を分析し、未来予測の精度を上げることで、不確実な自然を制御することを通して、いわば自然進化の環から降りることによって、みずからの世界を人工的に最適化してきた。特定の目的を持たない自然進化は、環境の偶発的な変化への適応が連鎖することで脈々と起こってきたが、技術を手にした人間社会は偶発性を無化することによって安全を担保しようとしてきた。
 しかし、それは一体何のためだったのだろうか、という問いが今日、再び浮かび上がってきている。米国を代表する心理学者で世界最大の世論調査企業であるギャラップ社のシニア・サイエンティストを務めるエドワード・ディーナーは、世界100カ国における人々の心の充足度を調査し、それが収入と一定の相関があることを示したが、地域によっては同じ程度の収入であっても充実度が顕著に異なるということにも気づいた。たとえば日本では第二次大戦後にGDPが上昇し続けたが、人生満足度は横ばいであるし、アメリカとデンマークの貧困層では後者の方が心理的充実度が高いことがわかった。また、別の研究者が異なる手法で欧米諸国の過去2世紀の心理的充足を計測したところ、平均線を描けばほぼ横ばいか、場合によっては現在の方が19世紀よりも下がっているという結果が示されている。これは一体なぜなのかという問いが、いま再び人間心理への注目を高めている。
 西洋に端を発し、現在までに世界中で不文律とされてきた近代化の目的とは、個人が自由を獲得し、幸福を追求する権利を担保される社会環境を整えることであった。ALifeの用語でいえば、人間個体の自律性(オートノミー)が増えることが多くの思想家たちによって企図されてきたのだ。自律性とは、生物学的には個体が自らを律する固有のルールを保持しているという意味だが、社会学的に拡張される場合は、そのルールを自ら生み出せるということを指す。
 しかし、自然科学と技術がその流れを支えたが、その途中で二つの大戦や数多の戦争、経済の世界恐慌、全体主義の台頭といった無数の個人が抗えない波に飲み込まれていくことも経験した。それでも今日、世界中で教育と福祉が普及し、自由な情報へのアクセスと発信が文字通り誰にでも可能になり、これまでは声なき声として時代の背景へと押しやられてきた人々が社会に参画できるようになった。同時に、アメリカの指導者はロシアによる情報操作に屈し、ことあるごとに不寛容と暴力をほのめかし、報道や科学といった社会の現実像の根底を否定するという愚挙を繰り返している。その影響は世界中に伝播し、ヨーロッパでもアジアでも排外主義の権勢が増している。このように時代の大きなうねりを振り返ってみると、人間の自律性が高まる契機が増えていると同時に、現実には他律性(ヘテロノミー)が支配する度合いも高まっているとも見える、奇妙な捻れが起こっている。
 つい最近の日本でも、子どもを産まない性的マイノリティには生産性がないから税金を投入するべきではないという趣旨の文章を、与党の政治家が排外主義的な意見を集める雑誌に寄稿するという事件があった。人間存在を生産性という数値目標に還元するこの意見は、科学の徒としても許容できないし、一人の親としても絶対に子どもに聞かせてはならないものである。わたしは自分の子がもしも将来において子どもを産まないことを自律的に選択したとしたら、それを完全に肯定したいし、仮に自分と異なるセクシュアリティを持っていたとしても、その性を十全に、喜びをもって生きられるように親として協力したいと思う。それと同時に、この主張は決して現実主義でも科学的でもない。自然史のOEEはフォルト・トレラント、つまり遺伝子複製のエラーを許容することによって駆動されてきたのであり、生命はそれ自体が非生産的な現象として進化してきたからだ。仮に生命種の進化が生産性という観点で設計されていたならば、ホモ・サピエンスに至る遥か以前の菌類の状態で最適化されていたかもしれない。
 現行の秩序の枠のなかで生産性があると認められるもの以外は排除するというこの発想が障害者施設で大量殺戮を起こしたテロリストの思想と同根であることは、そのテロリストが現首相にその行為に対する承認を求める手紙を送っていることからも自明だが、両者に共通しているのは人間を他律的な存在としてみなしている視点である。他者の自律性を否定するという発想自体が、自分がその他者の立場にいたかもしれないという思考が行えていないという意味で、逆説的に自らの他律性の兆候を示している。つまり、この政治家もテロリストも、人間の他律化現象の被害者であり、彼らを糾弾することだけにとどまらず、その言動の理由を科学的に問わねば未来において何度でも繰り返されてしまうだろう。
 21世紀現在の社会が、人類進化の歴史のなかでも最も原始的かつ低次元な政治的意見である排外主義を、社会の根底を脅かす現象として認識できていないということはなぜなのだろうか。なぜ一定規模以上の集団の群行動において、協力的な関係を維持できないのかというのは、現代の全ての社会において未解決の難題である。

 ALIFE2018の会議の場で、包含構造(サブサンプション・アーキテクチャ)概念を提唱し、自動掃除機ルンバの発明につなげ、初期のALife研究コミュニティの中心的人物でもあったロドニー・ブルックスが基調講演を行った。
 90年代以降は起業活動に専念し、現在はプログラミングを必要とせず、柔軟な学習が可能である新しい産業ロボットの開発に携わるブルックスは、科学コミュニティが誤ったメタファーに基づいていることで停滞しているのではないか、という警鐘を鳴らしていた。
 これまでの計算機工学の流れにおいては、ムーアの法則という計算機性能の指数関数的な向上が一種の思考停止をもたらす「麻薬」として機能してきた。ニュートン物理学では量子力学を説明できないように、現在の人工知能の主流である部分最適化や効率化という視点では、決して身体と知能を併せ持つ生命の本質にはたどり着けない。
 必要なのは、算法、計算機、量子力学に続く新しい「考え方」であり、そのためにもALife研究は、生物学的リアリズムに固執し続けるべきである、というブルックスのメッセージに対して、会場の研究者たちからは「正しいメタファーとはなにか?」や「新しい考え方はまた別のメタファーの錯誤を生むのではないか?」といった批判的な意見も活発にぶつけられたが、このやり取り自体が実に多様性に開かれていることが、ALifeコミュニティの特徴のように感じた。
 わたしも発表とパネルで参加した「ALifeと社会」というセッションでは、地球惑星科学の専門家から、計算的人工生命の専門家までが参加し、生命的なコンセプトをどのように社会的価値や合意形成に活用できるか、という議論が活発に行われた。最後にモデレーターから共有された議論メモを読み返すと、「自律性の尊重をどう政策に落とすのか」、「共創と競争の二項対立をどう乗り越えるか」、「情報の身体化を向上させるためにALifeをどう利用するか」など、たくさんの未来への問いかけに溢れていた。これまで多くの学会や研究会に参加してきたが、ここまで専門性と開放性のバランスが取れた国際研究コミュニティはあまりないように感じる。そのせいか、今日のわたしたちの社会が向き合っている未曾有の状況(いつだってそうなのだが)に応答するための新しい言語が生まれているようにも思える。

 ここまで、番外編ということでALifeを軸にして社会の「開かれ」について考えてみた。OEEは系統発生という大きな次元の問題だが、その構造パターンは子どもの学習という局所的な問題にも再帰している。新しい世代が常に、まだ見ぬ生命(alternative life)の顕在なのだとしたら、生命の謎を問う学問は社会現象にも向き合っていく必要があるだろう。前回では、親にとっての子どもとは、開かれた未来の顕現そのものでもあるということを書いたが、それは作り手としての親と作られたものとしての子という、二元論的な生成分裂を修復するような作用を持っている。次回からは、この図式を親子以外の関係性にも開いていく可能性について書いていこうと思う。

 

作って動かすALife ―実装を通した人工生命モデル理論入門

ドミニク・チェン /著, 岡 瑞起 /著, 池上 高志 /著, 青木 竜太/著, 丸山 典宏/著
2018/7/28