小林先生には、人口に膾炙(かいしゃ)した名言がいくつもある。「批評するとは自己を語る事である、他人の作品をダシに使って自己を語る事である」(「アシルと亀の子Ⅱ」、新潮社刊「小林秀雄全作品」第1集所収)もそうだし、「美しい『花』がある、『花』の美しさというようなものはない」(「当麻」、同第14集所収)もそうである。それらのなかに、「僕は無智だから反省なぞしない。利巧な奴はたんと反省してみるがいいじゃないか」がある。これは昭和二十一年二月、雑誌『近代文学』に載った座談会「コメディ・リテレール 小林秀雄を囲んで」(同第15集所収)のなかで言われている言葉で、ある意味では最も知られた小林秀雄の名言と言っていい。
 『近代文学』は昭和二十一年一月、ということは、二十年八月十五日の太平洋戦争終結から半年も経たない時期に、本多秋五、平野謙、山室静、埴谷雄高、荒正人、佐々木基一、小田切秀雄の七氏が同人となって創刊された。その創刊第二号で、同人たちは小林秀雄を囲む座談会をもったのだが、その意図は口火をきった平野謙の発言に集約されている。平野は太平洋戦争下の昭和十八年に小林秀雄が行った講演にふれ、「あの時以来、終戦になった今日にいたるまでの約二年半以上の間に、小林さんがどういうことをお考えになっていたか、そういうことを伺いたい」、さらに「現在の小林秀雄は何を考えているかということをお聴きしたい」と言い、そこから話は小林秀雄の「実朝」やドストエフスキー研究などをめぐって多彩に展開するのだが、この流れのなかで、本多秋五が小林秀雄にこう質問する。
 ――戦争に対する小林さんの発言から見て、日本がこんなになっているのに、この戦争が正義かどうかというようなことをいうのはどうだとか、国民は黙って事態に処した、それが事変の特色である、そういうことを眺めているのが楽しい、あとは詰らぬ、という風におっしゃったのですが、事変を必然と認めておられたんですね。……
 これを受けて、小林秀雄はこう言った。
  ――僕は政治的には無智な一国民として事変に処した。黙って処した。それについて今は何の後悔もしていない。大事変が終った時には、必ず若しかくかくだったら事変は起らなかったろう、事変はこんな風にはならなかったろうという議論が起る。必然というものに対する人間の復讐だ。はかない復讐だ。この大戦争は一部の人達の無智と野心とから起ったか、それさえなければ、起らなかったか。どうも僕にはそんなお目出度い歴史観は持てないよ。僕は歴史の必然性というものをもっと恐しいものと考えている。僕は無智だから反省なぞしない。利巧な奴はたんと反省してみるがいいじゃないか。……
 この「僕は無智だから反省なぞしない。利巧な奴はたんと反省してみるがいいじゃないか」は、いかにも小林秀雄らしい啖珂(たんか)の切り方で、昭和三十年代から四十年代に小林秀雄の読者となった私たちは、胸のすくようなとも、溜飲が下がるとも、快哉を叫ぶとも言いたい痛快感を味わったのだが、つい最近、小林秀雄の戦争体験が話題になった席で、ひとりの青年が「僕は反省なぞしない」をいくらか咎めるような口調で持ち出し、小林秀雄の真意を知りたいと言ってきた。一瞬、何が知りたいのかと戸惑ったが、ははあ、そうかと思い当り、こちらから訊いてみるとやはりそうだった。青年には、太平洋戦争という悲劇は、終戦当時、日本国民全員がいくら反省しても反省し足りないほどの大惨事だった、にもかかわらず、よりによって小林秀雄が反省しないとはどういうことかという気持ちがあっての問いかけだった。
 ここでまずことわっておきたいが、この青年は、世に言う「今時の若者」ではない。小林秀雄の文章もかなり読んでいる読書家であり、歴とした大人である。したがって、あの場の発言も、「今時の若者」がいきなり難癖をつけてきたというような軽々しいものではなかった。だからこそ私はここで取り上げるのだが、毎年今頃、八月十五日の前後になると、戦争体験の風化ということが言われる、私は青年の問いに接して、小林先生の言葉にも風化が及んでいると思ったのだ。小林先生の言葉そのものが風化しているのではない、小林先生にあのように言わしめた日本人の戦後が風化してきているのである。

 あの座談会で小林秀雄が言った「利巧な奴」とは、主には当時の文化人、知識人、ジャーナリストたちである。彼らのなかには戦時中、戦争協力や讃美の発言を繰り返していた者も少なくなかったが、昭和二十年八月十五日、敗戦となるや一斉に反省の色を前面に出し、あのときこうしていたら今度の戦争は起らなかっただろうとか、あのときああいうふうにしたのがいけなかったのだとかと、小賢しい議論に奔走していた。
 小林秀雄が、「僕は反省なぞしない」と言った「反省」は、そういう意味での反省である。小林秀雄自身、昭和十二年七月に起った日中戦争以来の言動を衝いて後に戦争責任を問われたりもしたが、そうした責任追及が小林秀雄の真意を的確に読み取ったうえでのことであったかどうかは別にしても、小林秀雄はそれらに対する弁明、抗弁、いっさいしなかった。それが「僕は無智だから反省なぞしない。利巧な奴はたんと反省してみるがいいじゃないか」という逆説になったのだが、この発言の背後にあった文化人、知識人、ジャーナリストたちの小賢しさと狂乱、これを知っていないと青年が抱いたような疑念に捉われるのも無理はないのである。

 彼ら文化人、知識人たちの「反省」は、「後悔」でもあった。その「後悔」もまた、小林秀雄は潔しとしなかった。『近代文学』の座談会の発言でも「僕は政治的には無智な一国民として事変に処した。黙って処した。それについて今は何の後悔もしていない」と言っているが、それから約三年半後、昭和二十四年十月に出した「私の人生観」(同第17集所収)ではこう言っている。
 ――今日の様な批評時代になりますと、人々は自分の思い出さえ、批評意識によって、滅茶滅茶にしているのであります。戦に破れた事が、うまく思い出せないのである。その代り、過去の批判だとか清算だとかいう事が、盛んに言われる。これは思い出す事ではない。批判とか清算とかの名の下に、要するに過去は別様であり得たであろうという風に過去を扱っているのです。……
 ――戦の日の自分は、今日の平和時の同じ自分だ。二度と生きてみる事は、決して出来ぬ命の持続がある筈である。無智は、知ってみれば幻であったか。誤りは、正してみれば無意味であったか。実に子供らしい考えである。軽薄な進歩主義を生む、かような考えは、私達がその日その日を取返しがつかず生きているという事に関する、大事な或る内的感覚の欠如から来ているのであります。……
 そして、ここから「後悔」ということに、精しく言及する。
 ――宮本武蔵の「独行道(どつこうどう)」のなかの一条に「我事に於て後悔せず」という言葉がある。これは勿論一つのパラドックスでありまして、自分はつねに慎重に正しく行動して来たから、世人の様に後悔などはせぬという様な浅薄な意味ではない。今日の言葉で申せば、自己批判だとか自己清算だとかいうものは、皆嘘の皮であると、武蔵は言っているのだ。そんな方法では、真に自己を知る事は出来ない、そういう小賢しい方法は、むしろ自己欺瞞に導かれる道だと言えよう、そういう意味合いがあると私は思う。……
 ――昨日の事を後悔したければ、後悔するがよい、いずれ今日の事を後悔しなければならぬ明日がやって来るだろう。その日その日が自己批判に暮れる様な道を何処まで歩いても、批判する主体の姿に出会う事はない。別な道がきっとあるのだ、自分という本体に出会う道があるのだ、後悔などというお目出度い手段で、自分をごまかさぬと決心してみろ、そういう確信を武蔵は語っているのである。……
 ――それは、今日まで自分が生きて来たことについて、その掛け替えのない命の持続感というものを持て、という事になるでしょう。そこに行為の極意があるのであって、後悔など、先き立っても立たなくても大した事ではない、そういう極意に通じなければ、事前の予想も事後の反省も、影と戯れる様なものだ、とこの達人は言うのであります。行為は別々だが、それに賭けた命はいつも同じだ、その同じ姿を行為の緊張感の裡(うち)に悟得する、かくの如きが、あのパラドックスの語る武蔵の自己認識なのだと考えます。……

 もはや、言うまでもあるまい、あの「僕は無智だから反省なぞしない。利巧な奴はたんと反省してみるがいいじゃないか」は、こういう確たる人生観に立って言われていたのである。私は、青年たちにここまで話した。青年は、会が終るや私の前に来て、深々と頭を下げてくれた。

(第四十六回 了)

★小林秀雄の編集担当者・池田雅延氏による、
   小林秀雄をよりよく知る講座

小林秀雄の辞書
9/6(木)18:30~20:30
新潮講座神楽坂教室



  小林秀雄氏は、日々、身の周りに現れる言葉や事柄に鋭く反応し、そこから生きることの意味や味わいをいくつも汲み上げました。1月から始まったこの講座では、私たちの身近な言葉を順次取上げ、小林氏はそれらを私たちとはどんなにちがった意味合で使っているか、ということは、国語辞典に書いてある語義とはどんなにちがった意味合で使っているかを見ていきます。
 講座は各回、池田講師が2語ずつ取上げ、それらの言葉について、小林氏はどう言い、どう使っているかをまずお話しします。次いでその2語が出ている小林氏の文章を抜粋し、出席者全員で声に出して読みます。そうすることで、ふだん私たちはどんなに言葉を軽々しく扱っているか、ごくごく普通と思われる言葉にも、どんなに奥深い人生の真理が宿っているか、そこを教えられて背筋が伸びます。
 私たちが生きていくうえで大切な言葉たちです、ぜひおいでになって下さい。

9月6日(木)独創/模倣
※各回、18:30~20:30

参考図書として、新潮新書『人生の鍛錬~小林秀雄の言葉』、新潮文庫『学生との対話を各自ご用意下さい。

 今後も、知恵、知識、解る、熟する、歴史、哲学、無私、不安、告白、反省、言葉、言霊、思想、伝統、古典、自由、宗教、信仰、詩、歌……と取上げていきますので、お楽しみに。御期待下さい。

小林秀雄と人生を読む夕べ【その8】
文学を読むIV:
「トルストイ」
9/20(木)18:50~20:30
la kagu 2F レクチャースペースsoko

 平成26年(2014)10月に始まったこの集いは、第1シリーズ<天才たちの劇>に<文学を読むⅠ><美を求めて><文学を読むⅡ><歴史と文学><文学を読むⅢ><美を求める心>の各6回シリーズが続き、今回、平成30年4月から始まった第8シリーズは<文学を読むIV>です。

*日程と取上げる作品 ( )内は新潮社刊「小林秀雄全作品」の所収巻

第1回 4月19日 西行(14)     発表年月:昭和17年11月 40歳
第2回 5月17日 実朝(14)             同18年1月 40歳
第3回 6月21日 徒然草(14)             同17年8月 40歳
第4回 7月19日 「悪霊」について(9)        同12年6月 35歳
第5回 8月9日   「カラマアゾフの兄弟」(14) 同16年10月 39歳
第6回 9月20日 トルストイ(17)       同24年10月 47歳

☆8月(第2木曜日)を除き、いずれも第3木曜日、時間は午後6時50分~8時30分を予定していますが、やむを得ぬ事情で変更する可能性があることをご了承ください。

 ◇「小林秀雄と人生を読む夕べ」は、上記の第8シリーズ終了後も、小林秀雄作品を6篇ずつ、半年単位で取り上げていきます。