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 いただいた質問の中に「もし1週間登場人物になれるなら、万浬と森悟とどっちになりたいですか」という質問と、「亜黎(あれい)という万浬の前の世代のペインレスと万浬が出会ったら、2人の関係はどうなっていたでしょう?」というものがありました。この質問をされた方はとても小説家に向いていると思います(笑)。

 実は物語表現には、こういう妄想が大切なんです。「恐竜が今のこの世界に生きていたらどうなるんだろう」という、その妄想が『ジュラシック・パーク』ですから。そのシンプルな妄想が、小説を生み、映画にもなり、ここまでシリーズ化して世界中で大ヒットし続けてるわけですよ。妄想こそ創作の基本中の基本です。だから、本を読んだり映画を観たりして勉強することも大事ですけど、ゲームとかLINEする時間を減らしてでも妄想する時間を作ったほうがいい。

 その妄想をできれば毎日、短い時間でも続ける癖をつけて、どんなささいなことでも思いついたらメモして残しておくのがいいと思います。メモが蓄積していくと、いずれ一つの物語に成長していきます。それは小説になるかもしれないし、映画やドラマや漫画の原作になるかもしれない、創作表現の何かになっていく基礎です。

 ちなみに、質問に対しての答えですが、「もし1週間登場人物になれるなら、万浬と森悟とどっちになりたいか」。万浬にも森悟にもなって書いてきましたが、心に痛みがないと、情動が基礎になっている文化が楽しめないので、できれば体に痛みがない森悟のほうが、ありがたいなと思います。ただ実のところは、この小説は構想段階から実際の執筆に入ってからも長い時間がかかって、精神的にも大変で、ストレスから体質が変わってアトピーが発症するようになったので、痒みレスと申しますか、痒みを感じなくなれば一番ありがたいです(笑)。

「亜黎と万浬が出会ったら、2人の関係性はどうなっていたでしょう?」これは読者の皆さんに考えてほしいと思います。2人が同じ時空間で寄り添ったら、どうなっていくんだろう、どんなことを社会に仕掛けていくんだろうと妄想するところで、新しい物語が生まれるわけです。新しい人物像や新しい出会いを妄想し、展開させることによって、物語はいくつでも作っていける。

 もう一つ、創作において、妄想と共に大切なのが、自分が今抱えている常識、道徳、倫理観に対して疑いを抱くことです。一般的にダメだと禁じられたり非難されたりすることを、本当にそれはダメなことなのかな、と自分で点検してもらいたい。なんで自分は常識的なものの見方しかできないのか。男の浮気を許せても女のそれは許せないと考えるのはなぜか。友人の嘘は腹が立つのに政治家の嘘はあきらめるのはどうしてか。そんなふうに考えてしまう考え方や価値観のルーツを検証していけば、物語を書くためだけじゃなくて、生き方もすごくクリアになる。
「自分が疑ってこなかった常識、実はおかしいんじゃないの? こう考えなくてもいいんじゃないの?」と自分の内側をのぞいてみる。

 自分の例で言えば、デビュー作『孤独の歌声』は、孤独とは一般的に悪いことのように言われるが、そうなのかな、と疑うことから書き始めました。家族とか仲間とか大勢で何か一緒にすることばかりがいいとは思えない、という感覚が基礎にあって、孤独はむしろ人を救っているのではないか、という思いがあの作品を書かせました。『家族狩り』については、何度も別の機会に語ってきましたが、日本社会の閉塞的な家族観へのアンチテーゼが基底を成しています。
 社会に蔓延している考え方に対して、「それはおかしいんじゃないの? 現実は違うんじゃないの?」という異議申し立て、及び申し立ての方法が、表現者それぞれの個性になります。

 個性がないと、やっぱり作品はつまらないでしょう。これはあの人にしか表現できないよね、というような替えがきかない表現者になってほしい。

作品と作家の相互関係

「クラシック⇔アート」の図式でいうと、クラシックな物語の終着点は、作者はどこに行くかはとりあえず見えています。事件があったら解決する。恋愛の話だったら最後はうまくいくか、失恋するか、どちらかです。アートのほうは、どこが到着点かわからない。

 今回の『ペインレス』で言えば、この世界は肉体及び精神的な苦痛を少しずつでも取り除こう、軽減させようとして発展してきたのではないかというのは、執筆を進めてゆく段階で、新しいものの見方として感じ取っていったことです。愛に代表される感情の囚われを超えなければ、いずれ人類は滅亡の危機に瀕する、そのための新しい脳が必要なのではないかという仮説も、書く段階で見つけていきました。
 学者は事実をもとにして思想や哲学を語るわけですが、それに対して、フィクションには物語を楽しむのとは別に、フィクショナルな仮説の人物を通して物事を考えることによって、新しい思想や哲学を表現し得るのではないか。これは物語のあまり語られない有効な特質であり、可能性ではないかな、と自分は思っています。

 ただ、新しい思想なり価値観なりを採り得るポテンシャルを有した仮説としての人物を創造するには、絶えず緊張を強いられます。野宮万浬や『悼む人』の静人(しずと)といった特異な人物を表現するには、類型に頼れないので1行1行、チェックしながら書かざるを得ない。書き上げたあとは、喜びよりもまず、安堵の気持ちのほうが強いです。

『永遠の仔』の場合は、傷ついた子どもたちの心を生きてみよう、それが自分の義務だととらえていました。でも、その子たちの感情を追体験する精神的作業を3年間続けるのは、結構きついんです。といって、これが現実に傷を受けた人たちの日常だと思えば逃げられない。しかも3人それぞれ受けた傷も違いますし、3人のほかにも傷ついた人たちの内面に入ってゆく必要があったものですから……正直自分が死ぬのが先なのか、この物語が世に出るのが先なのか、というような感覚を味わいました。

『悼む人』の場合だと、主人公の静人の母親がガンなのですが、彼女の内面を書くときには、自分はガンだ、余命3ヵ月なんだと自分に強く言い聞かせてから執筆に臨んでいました。そうすると、実際に胃がキリキリ、キリキリ痛くなるんです。やばいなぁ、マジでガンができてるかもなあって、毎日が怖かったですね。なので、『悼む人』のときも、自分が死ぬのが先なのか、作品が世に出るのが先なのか、と思って書いていたので、世に出たときにはホッとしました。

 だから、作品の評価というのは、どうでもいいわけではないですけれども、あとからついて来るもので、自分が願っていた作品を、願った形で書き上げられるのかどうか、ということが大事だと思ってます。
 結局、一番怖いのは自分の評価なんです。思っていた形に仕上がったのか、妥協なく実現できたと言えるのか、と。今回も、『ペインレス』の単行本が自宅に届いたときには、よほど気持ちが張り詰めていたのか、数日倒れましたね。ああ、ちゃんと形になってよかったって。

第4回につづく

 

ペインレス 上巻
天童 荒太/著
2018/4/20

 

ペインレス 下巻
天童 荒太/著
2018/4/20