共話によって彼我の境界が融解する感覚が生じるということは、わたしたちの生命としての実存にとってどのような意味があるのだろうか。言い換えれば、なぜわたしたちはそのような言語的な技術(テクニック)を身に付けるに至ったのだろうか。このことを人類種の進化史の観点から考えはじめてみると、そもそも個や自我というものの発生の謎に関心が向かわざるを得ない。
 ある生物が個体であるということは、自他の境界が物理的に決定していることを意味する。一個の細胞のみが個体を形成する単細胞生物であれば、その細胞膜が境界となるが、神経系を持たないので、わたしたちと同じ意味での「意識」の有無を推測することはできない。約37兆の細胞を持つといわれる人間の場合、その集合である身体がまず自他の境界の根拠となるが、複雑な神経系の作動による心的な認知システムによっても自我の感覚は大きく揺らいだりもする。いずれの場合でも、他者を含む環境と自己の境界が定かでなければ、ひとつのシステムとして「閉じて」いなければ、環境のなかで自律的に行動することは不可能になってしまう。
 それと同時に、完全に閉じているシステムは環境とのエネルギーの交換が行えないため、死滅してしまう。細胞膜にしても、外部からの無機物や有機化合物の取り込みと、その外部への排出の両方を行うための経路を持っている。たとえば呼吸や発酵、光合成、そして食事をとるといった代謝なくしては、エネルギーを生成することができず、生命活動を維持できない。だから、個を維持しつつも、外界に対して「開かれて」いる必要がある。
 この閉鎖と開放の適切な配合を数値で表す指標は存在しないが、前提として閉じており、それが必要最小限の開かれを持っていることが必要である。この絶妙なバランスの上にわたしたちの生が依拠しているとすれば、生殖による自己複製もまた、精確な複製とそのゆらぎという、相反する働きのせめぎ合いの上で成り立っていると言える。単純な細胞分裂によって自己複製する無性生殖のあとに、異なる遺伝子の交配によって多様性の発露を可能にした有性生殖が登場したが、これは意図的に遺伝子を攪拌することによって環境の変化に適用しやすく進化した例だと考えられている。こうやって巨視的にみてみれば、強すぎる個に揺さぶりをかけながら変化を促し続けることこそが生命進化史の主軸であるように思えてくる。
 わたしたちは地球上の生命のかたちしか知らず、また進化史についても実際に原初の細胞の発生からの記録を持っているわけでもない。それでも、もしも地球で発生した最初の細胞が途絶えることなく今日生存する全ての生物へと発展したのだとしたら、「地球上生命」とでも呼ぶべき一つの系統は驚くべき多様性を発現させたといえるだろう。
 1970年代にNASAで火星探査の調査に従事した惑星科学者のジェームズ・ラブロックは、地球とそこで活動する全生命システムを、恒温性という平衡状態を志向する一つのシステムとして捉えるガイア理論を提唱した。ラブロックはガイア理論の批判者に反論するために、デイジーワールドというシミュレーションモデルを提出した。これは人工生命(ALife)の文脈でもしばしば言及される。デイジーワールドは仮想的な惑星であり、そこには光を反射する白いデイジーと光を吸収する黒いデイジーの二種が存在する。時間経過と共に、太陽光を浴びて黒いデイジーが繁殖することで惑星の温度は上昇するが、次第に白いデイジーも増えると温度を下げる効果をもたらす。最終的に、白と黒の両方のデイジーが均衡状態を保ち、惑星全体としても一定の温度を維持するようになる。後に行われた拡張で、植物や草食動物、肉食動物といったエージェントが追加されると、惑星全体の恒温性が向上するという発見もなされた。このシミュレーションが見せたことは、特定の目的論がなくても生命系の平衡系がもたらされること、そして生物多様性は系全体の平衡性を向上する可能性があるという点だった。
 現実の地球ほどの複雑性を持たないガイア理論のシミュレーションモデルには批判も多くなされてきて、議論は終着していないが、進化論を巡る思想的な発展に科学的な側面から寄与してきたと言える。中でも、ガイア理論を支持する生物学者のリン・マーギュリスは、1991年の著書『Symbiosis as a Source of Evolutionary Innovation』のなかで、複数の異なる生物種が共生関係(symbiosis)を結び、一個の不可分の全体を形成することをホロビオント(holobiont)という造語で表現した。たとえば、褐虫藻やバクテリア、古細菌、菌類の複合システムとして見なされる造礁サンゴは、ひとつのホロビオントだと言われる。全て(ホロ)の生物(ビオント)が共に活かし合うことで、複数の生物種が連合しながら一つの超個体として作動している。マーギュリスはこのような観察から、生命進化の特質は競争ではなく共生にあるという考えに至り、適者生存を主張するネオ・ダーウィニズムの考え方とは袂を分かった。
 ここで、自然進化を人間社会に当てはめるのは、二重の意味で困難であることに留意しなければならない。まず、人間の技術的文明は自然進化に内包して捉えられるのかは自明ではない。なぜなら、合目的性を持たない自然進化と、局所的な合目的性を持って推進される社会活動を比較するのは論理的に的確ではない。わたしたちは、多様な職能を持つ個人によって構成される人間社会を、造礁サンゴのようなホロビオントとしてみなす誘惑に駆られる。
 しかし、安易に進化史を社会に当てはめてみようとすると、思考停止にも陥りかねない。自然進化の結果、環境変化に対する適応の最適化のプロセスを経て、現在の社会形態に至ったのだと考えれば、あらゆる社会問題は誤差の範囲として捨象され、現状の追認をせざるを得ない。誤った科学技術(テクノサイエンス)主義に根ざした進歩史観は、時に生命進化の比喩を用いて全体主義や人種差別を肯定しようとしてきたことを思い出そう。アーリア人種の血統を最上のものとし、ユダヤやロマ民族の民を大量虐殺したナチスの優生学的な選民思想はその最たるものであるし、昨今の世界的な排外主義や国家主義の動向もまた、種の優劣という非科学的な幻想をふりまく言説に依拠している。
 排他主義が活性化する背景には、共通して資源配分の問題がある。ヨーロッパにせよアジアにせよ、外国人が不当に雇用や福祉の恩恵を受けるせいで、本国人の生きる糧が奪われているという主張が共通している。つまり、「本来はわたしのもの」が受け取れていないという不足の状態が、彼我の境界を強める要因となっている。自分の領域が侵犯されるという認知が働くことによって、「わたし」と「他者」を区別しようとする防衛機構が働くことは、身体の免疫系と同様の働きだといっていいだろう。
 それは生物学的には原初のレベルの自己同一性(アイデンティティ)である。しかし、個々の生物のある時点における状態ではなく、連綿とつながる進化の鎖に注意を向ければ、種の系統発生という、個体の寿命よりも長い時間軸の上においては、より高次な自己同一性が発現した。先に見てきた、遺伝子の交配とは、個々にとっての自己、つまり究極的な「わたしのもの」のなかに、「他者のもの」が混ざることで、個がゆるやかに変容していくプロセスである。だから、短期的な個体発生の時間の上に長期的な系統発生の時間が重畳している、というのが正確な認識論だといえるだろう。
 そして、わたしたちの精神は、それが根ざしている生物学的な基盤よりも、ずっと柔軟で可塑的な構造を持っている。ここでも繰り返し述べてきたように、わたしたちはまずは口頭伝承による言語の長期的な記憶を獲得した後に、次に象形文字による半永久的な記録という媒体(メディア)を手にすることにより、自然進化とは別の人工的な進化のフィードバック・サイクルを自らに適用してきた。わたしたちは歴史の学習を通して、先行する世代たちの軌跡(プロセス)を追体験することができるわけだが、それは先人たちの体験を自らの記憶のなかに浸透させることで、個の時間を越えた思考の継承を可能にしているともいえる。その上で、所有の感覚を「権利」として社会的に制度化し、より強固な個のリアリティを作り出してきたのと同時に、所有を分有に変換することを通して個を混交させ、「共」のリアリティを醸成する技術をも磨いてきた。
 70億を超す個体が形成する社会システムが、37兆の細胞が連動する一個の身体と同じようなしなやかさを獲得するためには、まだ個別の部位の個性が強すぎるように思う。そこには、比喩としてではなく、個体のレベルから社会のレベルまで再帰的に反復する構造として、「共の身体」を構築する現代的な動機がある。そのためには、わたしたちの個々人が、個体ではなく系統の時間を能動的に生きられるようになる認識論の質的な発展が必要になるように思われる。

14回目につづく