キルギスに到着したおれはまず、キルギスで働いている日本人の友人と首都ビシュケクで再会を果たした。彼女の目と雰囲気は女優の石原さとみにどことなく似ているので、今後彼女のことはさとみさんと呼ぶことにする。

 さとみさんとは2年前、青年海外協力隊の訓練合宿の時に出会った。

 青年海外協力隊では通常、世界各国へ派遣されるまでに2ヶ月間の合宿訓練を行う。合宿では語学学習以外にも、文化理解に役立つ講義や多種多様な予防接種、サバイバルの演習などが行われ、協力隊の候補生たちは心身ともに途上国での活動に耐えられるようになる。

 本来であればおれも、今の時期はパプアニューギニアの森の中で高校生にPCの活用法などを指導しているはずだった。しかし、派遣予定の高校が干ばつの影響で休校になったことや、その他さまざまな事情があったため協力隊を辞退することになり、現在に至る。

 

 おれ、さとみさん、そしてさとみさんの彼氏の3人で、首都の南に位置するナリン州の州都、ナリンへ向かう。ナリンに住んでいるさとみさんの友人、ウランおじさんは顔が広く、馬を探す際に力になってくれるだろうとのことだった。

 ナリン到着後、すぐにウランおじさんに会いに行くことになった。おじさんは背が高く穏やかな性格の男で、妻と3人の子がいた。

 「馬を探しているので力を貸して欲しい」と頼むと、おじさんは「1人で野宿なんて大丈夫なのか?」「馬に対する知識はあるのか?」と心配そうな顔で尋ねてきた。

 おじさんが心配になるのも無理はない。いきなりやって来た外国人が、「馬と野宿旅をするから力を貸して欲しい」などと言ってきたのだ。訝しく思わない方がおかしいだろう。

 さっそく、おれは持ってきた資料や写真、医療器具などを机に広げ、これまでの冒険ではキルギス以上に治安が悪い地域で野宿旅をしていたことや、日本で医療技術を学んだので馬の生態についても十分理解していることを伝えた。

 ウランおじさんはおれのプレゼンを興味深そうに聞いてくれて、聞き終わってから「僕よりずっと詳しそうだね! 大丈夫そうだ! 強い馬を売ってくれそうな友人を紹介するよ」と笑顔で約束してくれた。

 ウランおじさんの友人は名をクバンといい、ナリンから90kmほど北にあるコチコルという町に住んでいるらしい。コチコルでは、あさって動物市場が開かれるとのことだったので、そのクバンという男にはそのタイミングで会いに行くことになった。

 

 ちなみに、ウランおじさんには説明していなかったが、おれは乗馬経験がない。なぜなら、それを事前に習得してしまうと今回の計画では不確定要素がほとんどなくなり、冒険ではなくなってしまうと考えたからだ。「調べる」ことが目的の探検とは異なり、冒険では「挑む」ことが目的となる。「平穏な日常を送る」という状況とは真逆になってしまうが、冒険は事前段階での「未知」や「不安」が多ければ多いほど、より充実したものとなる。逆にそれらを排除した、安全・安心なものは冒険たり得ない。

 だから、ラクダの遊牧をした時も、ピグミー族と暮らした時も、ロバと一緒に旅をした時も、出発前はいつも「未知」がそこにあった。いつも「そんなこと本当に実現できるんだろうか」という「不安」と闘っていた。今回の冒険では、「乗馬スキルを現地で習得する」という壁に打ち勝たなければならない。

 

 次の日の早朝。おれとさとみさんの彼氏は、ウランおじさんの家で羊の解体をすることになった。今回はさとみさんの彼氏がやりたがっていたという理由があったが、そもそもキルギスでは自宅で羊を解体するのは一般的なことだ。日本で「肉」といえば牛肉や鶏肉、あるいは豚肉などを連想するが、キルギスで「肉」というと羊肉であることが多い。牛肉や鶏肉もあるにはあるが、羊肉に比べると食べられている頻度は少ないようだった。ちなみに、キルギスはイスラム教徒が多数を占める国なので、基本的に豚肉は食べられていない。

 朝限定で毎日やっているというナリンの羊市場へ行き、元気がいい羊を購入して乗用車のトランクに積み込み家へ移動する。家に到着してから一旦羊を庭の木に繋いでおいて、地面にビニールシートを敷き包丁などを並べて準備する。

1頭およそ6,000~8,000円程度で取引される
 

 成人男性と同じくらいの体重の大きな羊を、二人がかりでビニールシートの上に横たえ、前後の足をクロスさせて強く縛る。喉を切って血を抜き、毛皮部分だけを丁寧に切り取る。

 そして、肉を切り分ける者と腸を洗う者に分かれ、羊の体を全て余すことなく利用すべくそれぞれ作業を行う。解体は全体で1時間半程度しかかからず、スムーズに終わった。その後、羊の肉はシンプルに塩こしょうで味付けされ、シャシリクと呼ばれる串焼きとなっておれやウランおじさんたちの口に入ることになった。

 

 問題が発生したのはその夜だった。ウランおじさんの家からさとみさんの家へ帰ってから、おれとさとみさんの彼氏は徐々に体調を崩していった。最初は少しめまいと寒気がする程度だったが、時間が経つにつれて症状は悪化し、遂にはほとんど動けない状態になってしまった。

 持ってきていた体温計で熱を測ると、38.5℃だった。さとみさんの彼氏も同様の症状なので、羊の血液を直接触っていたことで何かの病原菌に感染したか、あるいは羊肉にあたったかのどちらかだろう。

 せっかく明日、コチコルへ行き馬を選ぼうと思っていたのに、これでは難しいかもしれない。そう考えて困り果てていると、さとみさんがこちらへ来て申し訳なさそうにこう告げた。

 「豪ちゃん。悪いけど、熱が下がらなくても明日の朝には出発して欲しいんだけど……」

 言われた当初は、さとみさんが何を言っているのか全く分からなかった。というのは、さとみさんはもともと非常に心優しい女性で、間違っても病人を追い出すようなことを言う人ではなかったからだ。実際、「キルギスに来たら何ヶ月でも家に居てくれて大丈夫だから」とまで事前に言ってくれていたし、それが社交辞令でないことは、計画をしてからキルギスに到着するまでの間にした、何度もの通話の中で確信が持てていた。にもかかわらず、どうしてさとみさんはそんなことを言ってきたのだろう。単純に、病気をうつされるのが嫌だったのだろうか……。

 おれが理由を尋ねると、さとみさんは「実は、豪ちゃんと2人きりになるのを彼氏が良く思っていなくて……」と答えてくれたので、ようやくおれも合点がいった。

 実は、明日のコチコルでの動物市場を逃すと次が1週間後になってしまい、それまでの間はさとみさんの家にお世話になる可能性が高い。しかし、さとみさんの彼氏はビシュケクで仕事があるため、数日後には帰らなければならず、大切な彼女であるさとみさんがその後男と2人で長時間過ごすのが耐えられないとのことだった。

 熱がある状態で行動するのは気が進まなかったが、そんなことを言っていても仕方がない。おれは次の日、ウランおじさんと共にコチコルへ向かった。熱は37.8℃まで下がっていたので、ひとまず馬選びくらいはできるだろう。

 コチコルに到着し、ウランおじさんの友人であるクバンと出会う。クバンは聡明そうな顔立ちの男で、かなり大きな家に家族や家畜と共に住んでいた。家には奥さんと2人の子どもがいて、庭には馬以外にも牛、鶏、鴨、七面鳥などがたくさんいた。クバンの父親は獣医とのことだったので、かなり裕福な家庭のようだ。

 クバンの馬にはマキシムスという名前が付いていて、その名の通りかなり大きく屈強そうな雄馬だった。そして、マキシムスは黒いたてがみが美しく、非常に大人しい性格のようだ。クバンはおれの目の前でマキシムスに乱暴に跨り、大人しい馬だということを実演して見せてくれた。

マキシムス
ウランおじさんとマキシムス

 熱で頭が少しぼんやりしてはいたが、それでもおれはマキシムスを一目見た瞬間、はっきりと「この馬にしよう」と思った。美しいたてがみにも惹かれたし、さらに強く大人しいともなれば、冒険の相棒としては心強いことこの上ない。ちなみにその後、馬の為の装備品購入も兼ねて動物市場へ行き、そこにいる馬も見てはみたが、病弱そうな馬や気性の荒い暴れ馬ばかりで、乗って冒険するのには向いていないようだった。

 かくして、冒険の相棒はクバンのマキシムスに決定した。値段は8万ソムで、日本円だとおよそ13万円くらいだった。一般的な体格の馬の相場と比較すると少し割高だが、マキシムスは大きく大人しい馬なので適正価格だと言えるだろう。

 早速おれは、クバンに金を払い、マキシムスを引き取った。正直なところ、このマキシムスという名前は少し安直に感じられたので、おいおい別の名前を付けたいところだ。

 今はまだ熱があるので、明日から数日間、熱を下げつつ乗馬の練習でもして、その後出発しよう。……などとおれは考えていたが、その計画はさとみさんからの着信によって打ち砕かれることとなった。

 「豪ちゃん、あのね。しんどいかもしれないけど、迷惑になるから、もう明日にはクバンさんの家から出て行って欲しいんだけど……」

 ……熱で思考がまとまらず、正直ピンと来ない。迷惑……なんだろうか。馬代としてクバンには十分に金を支払ったし、なによりクバンはうちで数日休んでから出発した方がいいと言ってくれていた。彼ははっきりものを言う性格のようだったし、迷惑なら迷惑だと言うだろう。クバンとさとみさんの面識はないので、さとみさんだって現在彼がどのように考えているかは全く分からないはずだ。

 しかし、クバンに出会えたのはさとみさんのおかげなので、ここは彼女に従うべきだと考えたおれは、次の日出発することにした。この日の夜は宴会があったが、夕食があまりにも肉々しかったので、熱があったおれはどうしても食べる気にならなかった。満腹を遥かに超える量の肉や食事を勧めるのが、キルギスでの客人へのもてなし方だ。通常であれば失礼にならないよう何とか食らいつくところだが、おれの顔よりも明らかに大きいと思われる肉塊を眺めていると、どうしても食欲が出なくなってしまった。結局おれは、少しだけ食事を頂いて寝ることにした。頭は未だにぼんやりしているが、明日、遂に出発だ。

宴会での羊肉
 

 翌日、おれは新しい相棒に跨り、クバンに見送られながら出発した。最初の目的地はソンクルという名の湖だ。熱は37.2℃だったので、なんとか冒険ができそうだった。見たところ、この馬はどうやらおれを受け入れているように感じられたので、言うことを聞いてくれるだろうという自信はあった。結局、乗馬練習をする時間は無かったので、移動しながら乗馬スキルを習得するしかない。

 おれはクバンがやっていたように、見よう見まねで馬の腹を両足で軽く叩き、進むよう指示を出す。馬は迷いながらも理解してくれたようで、ゆっくりと進みだした。……が、どうにも安定しない。右へ逸れたり、左へ逸れたりして、なかなかまっすぐ進み続けてくれることは無かった。おれとの息がいまいち合っていないようだったが、これまで関わってきた動物たちだって最初は皆そうだったので、数日経てば改善するだろう。

 馬が左右に逸れるたびに軌道修正をし、集中しながら少しずつ進んでいく。

 ふと気が付いて振り返ると、クバンの家は既に見えなくなっていた。

(写真、以上すべて©Gotaro Haruma)

(次回につづく)