小林先生の夏の楽しみは、まずは六月、京都・平野屋の鮎に始まり、次いでは八月、東京湾の「しんこ」だった。
 「しんこ」というのは鮗(このしろ)の幼魚で、大きさは五センチ前後、これが十センチ前後になると「こはだ」と呼ばれ、それから「なかずみ」「このしろ」と呼ばれていくのだが、「しんこ」の旬は八月で、酢でしめて寿司だねとされ、小ぶりのきれいな握りになる。初鰹とともに江戸時代から珍重され、時節がくると寿司職人も客も勇み立ったという。
 先生は、春の桜の見頃は七分咲きだと言い、今年はあそこのあの桜を見ると決めると年明けから準備に入り、花時が近づくや毎日のように現地に七分咲きの日の見通しを問合せ、遠路であろうとその日をはずさず赴いて、目当ての花の七分咲きの下に立つという花見を毎年繰り返したが、桜の見頃ほどではないにしても、「しんこ」も食べ頃は短い。東京湾で揚がる「しんこ」の旬は八月半ばから下旬にかけての時季の一週間ほどで、あっというまに「こはだ」になるのだという。
 そのあっというまを逃さずに、という点で「しんこ」は桜と通いあうのだが、幸い桜とちがって先生には鎌倉に「大繁」というなじみの寿司屋があり、時季がくると「大繁」がすかさず握って山の上の家まで届けてくれた。また、先生の両親の墓は、先生が昭和五十二年に鎌倉の東慶寺に移すまで都心の港区にあったが、毎年旧盆には長女の明子(はるこ)さんも一緒にお参りし、その帰り道、銀座の「きよ田」に寄って「しんこ」を味わうのが習わしになっていた。「きよ田」は先生が六十二歳の年、ということは「本居宣長」の連載を始める前の年に永井龍男さんに連れられて行って気に入り、以来、亡くなる八十歳の直前まで行きつけにしていた寿司屋である。
 そういえば、平野屋の鮎も、先生にとってはあっというまの味覚だった。先生は、鮎は六月中旬から下旬にかけて、十センチほどに育った頃こそが食べ頃なのだと言い、機を逸することなく平野屋へ行っていた。こうして先生は、桜も鮎も「しんこ」も、束の間の旬を逃さずに賞翫、賞味することを年中行事にしていたのだが、先生だけでなく、あの頃の日本人は、まだまだ自然の恵みを恵みどおりに味わう術を知っていたようだ。
 だが今は、それがそうではなくなっているらしい。聞けば冷凍技術や輸送経路の発達によって、各地で獲れた「しんこ」が六月、七月から東京にも出回り、秋九月に入っても口にできるのだという。それにともない、東京湾の「しんこ」は夏の八月、束の間の旬を味わうのだという江戸時代からの粋やよろこび、それを知っている人は少なくなる一方であるらしい。
 「きよ田」の主人は、新津武昭さんと言い、昭和二十一年の生れで私と同い年だが、平成十二年、五十四歳の十二月、思うところがあって店を後輩に譲り、一線を退いた。その翌年、新津さんがインタビューに答えるかたちで求龍堂から出した本『ひかない魚』には、小林先生をはじめ各界にわたった錚々たる「『きよ田』の客」の思い出が生き生きと語られている。

 夏が過ぎて秋になると、「あなご」がうまみを増してくる。先生は「あなご」にも目がなかった。「あなご」は鮎や「しんこ」とちがって、秋、冬から春先まで旬を楽しめる。
 昭和四十七年の九月であった。前にも書いたが、円地文子訳「源氏物語」を新潮社から刊行することになり、その記念講演会を名古屋と大阪で催すことになって、円地さんの「源氏物語」訳のスタッフでもあった私は、講演会の講師として小林先生にも出ていただけるよう頼んでほしいと円地さんから強く頼まれた。当時、先生の講演嫌いは鳴り響いていて、それでなくても「本居宣長」に没頭されている先生に講演を引き受けてもらうなど、自分で頼んだのではとても無理と円地さんは悲観的だったのである。
 鎌倉に先生を訪ね、講演のことを相談した。すんなりというわけにはいかなかったが、引き受けてはもらえた。
 昼間の先生は寡黙である。仕事の話がすめば沈黙の時が流れる。あの日もその沈黙の時が流れ始めていたが、私はふと、先生が「あなご」好きであることを思い出した。同時に、先生が「考えるヒント」で忠臣蔵のことを書いていたことを思い出した。忠臣蔵の播州赤穂は、私の郷里からそう遠くない町である。しかもその年の三月、山陽新幹線が新大阪から岡山まで開通していて、赤穂に近い相生に駅ができていた。
 先生は、赤穂へいらっしゃったことはおありでしょうか、新幹線のおかげで大阪からずいぶん近くなりました、忠臣蔵の史跡はもちろんですが、「あなご」もあります……。すると先生は、身を乗り出して訊かれた。
 ――あなご? あなご丼は食えるかい?
 もちろん食べられます、私がそう答えた刹那だった、
 ――よし、行こう、赤穂へ行こう。
 思いもよらない展開となった。

 小林先生に講演を引き受けてもらえたことを言い、大阪の翌日、赤穂にも行くことになりましたと円地さんに報告すると、円地さんは跳びあがらんばかり悦んで、私も赤穂へ行っていいでしょ、小林さん、嫌とはおっしゃらないわよね、ということで、円地さんの係のKさんも含めて四人で行くことになった。

 名古屋、大阪と講演会は無事に終り、大阪での打上げ会も終って中之島のホテルへ帰り、先生を部屋まで送って自分の部屋へ向かっていると、廊下の途中で円地さんとKさんが何かの打合せらしく立ち話をしていた。私は、円地さんに、お疲れさまでした、明日もよろしくお願いしますとだけ言い、そのまま通り過ぎようとした。そこへ円地さんから声をかけられた。――池田さん、赤穂のあなご、ほんとうにおいしいの? まずかったら小林さん、テーブルひっくり返すわよ……。その口調には諧謔味も混じっていて、円地さん自身は明日が楽しみということを言いたかっただけとはすぐわかったのだが、それはそれとして私は急に不安になった。
 「赤穂のあなご」、それも、これ! という「赤穂のあなご」に私は中学生の頃からなじんでいたが、その「あなご」は、中学生同士の交流会で知り合い、仲よくなった赤穂の友人N君の母親が、地元の魚屋から折々送ってくれていたものだった。当時はグルメ雑誌だの食べログだのといったものはもちろんなく、誰もが日々の暮らしを通して自分の舌で食べ物の良し悪しを決めていたのだが、私がなじんでいた「赤穂のあなご」も、赤穂でずっと暮らしてきたN君の母親が送ってくれて、それをそのつど私と私の家族が堪能していたという以外、誰に保証してもらったというのではない「地(じ)のあなご」であった。とは言え、誰それが誉めていました、どこそこの雑誌に載っていました、などという類の「あなご」であったなら、先生は身を乗り出したりはしなかっただろう。
 翌日、赤穂には昼前に着き、あなご丼を食べさせてくれるよう頼んでおいた旅館「銀波荘」へ直行した。しかし、あなご丼だけではどうかと思い、刺身の盛合せも頼んでおいた。だが先生は、最初に運ばれてきた刺身の大皿を見て言った。
 ――僕はあなご丼を食べに来たんだよ、これを食ったら入らなくなっちゃうよ、老人には無理だよ……。
 ところが、円地さんは大よろこびだった。おいしい、おいしいと言って刺身に何度も箸を伸ばした。私は、またもや気が気でなくなった。ここまで来てもらって、肝心のあなご丼が先生の口に合わないとなったら……。
 そこへ、運ばれてきた。
 先生は私たちに目もくれず、箸を持ち上げ一切れ口に入れ、
 ――うまい!
 と、叫ばれた。
 そして、黙々と食べ尽くされた。
 円地さんもKさんも、ほんとう、おいしいと言って満面の笑みだった。

 先生に「うまい!」と言ってもらった「あなご」は、赤穂市御崎にある鮮魚店「梅田商店」の「あなご」だった。あなご丼を作ってもらった「銀波荘」は、梅田商店の主人の弟さんが営んでいた。
 その年の暮れ、私は梅田商店から太くて大きい「あなご」をどっさり送ってもらい、夕方近くに先生のお宅へ持参した。私としては記念すべき年のお歳暮のつもりだったが、折よく在宅された先生は上がって行けと言われ、夫人に鍋の支度をと言われた。
 先生は「あなご」を鍋に入れ、砂糖と醤油と酒で味付けされた。すき焼きやぼたん鍋のときもそうだったが、鍋の味付けはいつも先生がされた。盃を傾けながら待つこと数分、先生が一切れ引き上げ、味見をし、よし、と言われた。私も、思わず、うまい! と叫びそうになった。
 先生は、鎌倉や東京の寿司屋、天ぷら屋へ行くと、まず一番に「あなご」を注文するほどだったが、あれ以来、寿司屋ででも天ぷら屋ででも「赤穂のあなご」を話題にし、あっちの「あなご」はね、こっちのとはまるでちがうんだ、別の魚じゃないかとさえ思うほどなんだよ、どうだい、そんな話、聞いたことないかい? と、東京湾の「あなご」を握ったり揚げたりする職人さんに、楽しそうに問いかけられていた。

(第四十七回 了)

★小林秀雄の編集担当者・池田雅延氏による、
   小林秀雄をよりよく知る講座

小林秀雄の辞書
9/6(木)18:30~20:30
新潮講座神楽坂教室



  小林秀雄氏は、日々、身の周りに現れる言葉や事柄に鋭く反応し、そこから生きることの意味や味わいをいくつも汲み上げました。1月から始まったこの講座では、私たちの身近な言葉を順次取上げ、小林氏はそれらを私たちとはどんなにちがった意味合で使っているか、ということは、国語辞典に書いてある語義とはどんなにちがった意味合で使っているかを見ていきます。
 講座は各回、池田講師が2語ずつ取上げ、それらの言葉について、小林氏はどう言い、どう使っているかをまずお話しします。次いでその2語が出ている小林氏の文章を抜粋し、出席者全員で声に出して読みます。そうすることで、ふだん私たちはどんなに言葉を軽々しく扱っているか、ごくごく普通と思われる言葉にも、どんなに奥深い人生の真理が宿っているか、そこを教えられて背筋が伸びます。
 私たちが生きていくうえで大切な言葉たちです、ぜひおいでになって下さい。

9月6日(木)独創/模倣
※各回、18:30~20:30

参考図書として、新潮新書『人生の鍛錬~小林秀雄の言葉』、新潮文庫『学生との対話を各自ご用意下さい。

 今後も、知恵、知識、解る、熟する、歴史、哲学、無私、不安、告白、反省、言葉、言霊、思想、伝統、古典、自由、宗教、信仰、詩、歌……と取上げていきますので、お楽しみに。御期待下さい。

小林秀雄と人生を読む夕べ【その8】
文学を読むIV:
「トルストイ」

9/20(木)18:50~20:30
la kagu 2F レクチャースペースsoko

 平成26年(2014)10月に始まったこの集いは、第1シリーズ<天才たちの劇>に<文学を読むⅠ><美を求めて><文学を読むⅡ><歴史と文学><文学を読むⅢ><美を求める心>の各6回シリーズが続き、今回、平成30年4月から始まった第8シリーズは<文学を読むIV>です。

*日程と取上げる作品 ( )内は新潮社刊「小林秀雄全作品」の所収巻

第1回 4月19日 西行(14)     発表年月:昭和17年11月 40歳
第2回 5月17日 実朝(14)             同18年1月 40歳
第3回 6月21日 徒然草(14)             同17年8月 40歳
第4回 7月19日 「悪霊」について(9)        同12年6月 35歳
第5回 8月9日   「カラマアゾフの兄弟」(14) 同16年10月 39歳
第6回 9月20日 トルストイ(17)       同24年10月 47歳

 9月20日の第6回は「トルストイ」です。小林氏は、トルストイに関してはまとまった作家論も作品論も残しませんでした。しかし、トルストイに対する敬意と評価はドストエフスキーに対するそれとまったく変りはなく、ドストエフスキーは矛盾のなかにじっと坐って円熟していった人だが、トルストイは合理的と信じる道を果てまで歩かなければ気のすまなかった人だ、その点、トルストイの方がむしろ偏執狂的であったと言い、「トルストイ」とは別に書いた「トルストイを読み給え」という文章では、今は本が多過ぎる、だからこそトルストイを、トルストイだけを読み給え、文学において、これだけは心得て置くべし、というようなことはない、途方もなく偉い一人の人間の体験の全体性、恒常性というものに先ず触れて、充分に驚くことだけが大事である、と言っています。

☆8月(第2木曜日)を除き、いずれも第3木曜日、時間は午後6時50分~8時30分を予定していますが、やむを得ぬ事情で変更する可能性があることをご了承ください。

 ◇「小林秀雄と人生を読む夕べ」は、上記の第8シリーズ終了後も、小林秀雄作品を6篇ずつ、半年単位で取り上げていきます。