最初に「共話」という言葉に興味を抱いたのは、能楽師の安田登さんから稽古をつけて頂いている時のことだった。能楽の謡本を読んでいると、シテ方(曲の主役)とワキ方(シテと対話する役)、そして地謡の台詞が有機的に交わっていることがわかる。特に物語がクライマックスを迎えるあたりで、シテとワキが台詞を互いにリレーしながら、会話を協調的に進めるということが起こる。
 藤原定家と式子内親王(しきしないしんのう)の悲恋を題材にした『定家』という演目がある。旅の僧が雨宿りに訪れたところが定家がかつて建てた家だったのだが、そこにどこからか女性が現れる。生前、定家は式子内親王を慕い続けたが、思いを成就することなく死んでしまい、その執心が(かずら)に乗り移って、式子内親王の墓に絡みついてしまい、彼女の霊が苦しんでいるという。二人は墓に赴き、僧が内親王の霊が成仏できるように経を上げると、女性は実は式子内親王その人の霊だという。
 演目の終盤にさしかかり、まさに内親王の霊が成仏しようとする場面で、二人は以下のような共話を交わす。シテは式子内親王の霊で、ワキは僧侶である。

シテ あらありがたやげにもげにも、これぞ妙なる(のり)の心。
ワキ あまねき露の恵みを受けて、
シテ 二つもなく、
ワキ 三つもなき、
地謡 一味の御法の雨のしただり、皆潤いて。草木国土、悉皆成仏の機を得ぬれば、定家葛もかかる涙も、ほろ〳〵と解けひろごれば、......

 互いに未完成の文章を投げ合い、協働して語りを進めていくという、これまで見て来た共話の構造に沿っている。ここで興味深いのが、最後のワキの台詞の直後に地謡が続き、風景描写に移行して終わっている点だ。
 映画でいえば、メインの登場人物たちのクローズアップから突如、遠景のシーンにつなぐような編集だといえるが、まるで共話によって一つの主体に融解したシテとワキがそのまま彼らが位置している風景へと融け込んでいくようなイメージを喚起させる。
 また、能における共話性が最も象徴されているのが、刀鍛冶が刀を打つ際のパートナーとしての「相槌を打つ相手」を求めるところから始まる『小鍛冶』という作品である。共話を成立させる相槌という言葉が鍛冶から取られていることは以前にも見たが、この作品では、まさに刀鍛冶の宗近(ワキ)と稲荷明神の化身(シテ)が舞台上で相槌を打ちながら一條天皇に奉ずる刀剣を鍛え上げたところで物語が終わる。
 実はつい最近まで、安田さんとは『小鍛冶』の稽古を続けており、さらに先日、国立能楽堂で開催されたご出演の天籟能の会で『小鍛冶』が演じられたので、謡本を抱えて鑑賞してきた。アフタートークでの安田さんの指摘で気づかされたことだが、この作品ではシテとワキの会話が噛み合わない。まるで共話が成り立っていないのだ。
 勅使に刀を打つように命じられたが、相槌を打てる相手がいないことに絶望した宗近が稲荷明神の化身と出会う時、ワキは執拗にお前は何者だと問うのだが、シテはそれには答えず、遠く中国の漢朝から、ヤマトタケルの草薙の剣に至るまで、これまで優れた刀剣の存在が乱れた世を鎮めてきたことを説き、ただただ自分の力を頼めと伝える。
 次に舞台の上に壇が拵えられて、二人が刀を打つシーンでは会話はなく、地謡とシテが情景を描写し続ける。この作品ではシテの稲荷明神の化身の台詞が地謡によって引き継がれるシーンが多いのだが、自然世界に属する明神は世界背景そのものと共鳴しながら語りを続けているように感じられる効果がある。人間である宗近は、擬人化された神というよりは、自然と同化した超越的存在と、言語ではなく、刀を打つ共同作業における相槌という実際の所作を通して、非言語的な共話を成し遂げる。

 これら能楽の作品において、人間存在が自然世界に融け込んだり、人と自然の境界線上を行き来するという描写を通して、わたしたちはなぜカタルシスを得るのだろうか?この認識論は、ヒンドゥ教由来で、密教にも取り入れられた、「梵我一如」という概念にも通じるところがある。世界と自我の一体化を指すこの言葉は、アジアの広範な地域に根付く考え方であるともいえるだろう。亡霊や神と人間が邂逅を果たすという主題を扱う夢幻能の作品にも流れるこの感覚は、自然と人間を媒介する亡霊や神との共話を通して発現するということを見たわけだが、それは本来的には言語を用いた会話から始まって、非言語的な相互作用へと至るプロセスとして描かれている。そこでは空間的にも主体と環境との区別は曖昧になるが、時間の流れも混交しはじめる。過去の生者の亡霊が現在の人間と交流する際、ただ過去を参照して新しい状況が作られるという通時的な流れだけではなく、過去の状況がそのまま現在にも挿入されるという、いわば過去と現在が共時的に複層を成すという奇妙な捻れが生じるのだ。

 この連載では、親と子の間に流れる一方向的な時間の流れというイメージを裏切る筆者の体験を起点にして、子の誕生が親の死の予祝であり、子の未来の時間軸が親の現在に現出するという感覚に言葉を与えようとしてきた。それは能楽における時空軸の混乱を意識的に考えるようになるきっかけとなったが、それより以前に、親と子という関係性が時間的に捻れる文芸作品について考えていたことがある。
 現代的な文芸において、このような時空の捻れを積極的に表現しているのはサイエンス・フィクションというジャンルだ。最初に想起するのは、ブラックホールの極大な重力場の作用によって、遠く離れた娘が主人公よりも年老いてしまう『インターステラー』がある。こちらはカリフォルニア工科大学の理論物理学者キップ・ソーンがそもそものプロットを書いただけあって、娘の老衰に若き父親が立ち会うという演出の妙がどれだけ効果的であったとしても、物理的にありえる状況として頭では了解できる筋書きである。病院のベッドで子どもや孫たちに囲まれた娘は、通常の親子の縁を超越してしまった父親に対して、子どもの死に目に親が立ち会ってはならないことに加えて、父親の経験していない数十年の間に育んできた自分の家族との最後の時間が待っていることを伝え、その場を立ち去るように促す。父親の観点からみても悲劇的なシーンで胸を打たれるが、それはどれほど奇妙なシーンに見えたとしても、相対性理論が予測する範囲にある現実の可能な情景のひとつである。
 より想像の範囲外にある親子関係を、言語的相対論をモチーフに描いたSF作品として、テッド・チャンの『Story of Your Life』(初出は1998年。邦題は『あなたの人生の物語』。2000年ネビュラ賞中長編小説部門受賞)がある。この連載のタイトルである「未来を思い出す」とは、この作品を読んだ時に想起させられた表現だ。この物語では、主人公である言語学者の女性が、世界中に突如出現した謎の宇宙船の秘密を探るために合衆国政府に請われ、ヘプタポッド(七本脚)と呼ばれる宇宙人たちとの会話を分析する。その過程で、ヘプタポッドたちは地球人とは全く異なる文法を持っていることに気づく。それは円環的な話法であり、ひとつのフレーズのなかに過去、現在と未来の時制が混在している。また、会話と記法で異なる言語を使用していることがわかり、主人公は特に「ヘプタポッドB」と名付けられたその記法を研究することになる。そうして次第に「ヘプタポッドB」の理解が進むに連れて、主人公の記憶に異変が生じる。時折、「ヘプタポッドB」が意識のなかで優勢になると、過去と未来を同時に経験するという感覚を抱くようになるのだ。
 この短編作品は、物語を通して不在である主人公の娘に宛てて書かれているパートと、ヘプタポッドとの邂逅の描写のパートが交互に繰り返されるという構成をとっている。冒頭で、主人公は娘に向かって、娘の父親と子どもを作ろうと決めた瞬間について語っているが、実はこの娘は物語の終盤ではまだ生まれていない。主人公は物語を通して、ヘプタポッドの円環的な言語の認識論を受肉化させつつ、未来に生まれる娘と過ごした数々の記憶を思い出しながら、語りかけていたのだ。そして、主人公は娘が若くして事故によって自分よりも先に死んでしまうこともわかっている。それでも、ヘプタポッドたちが去っていったあとに、娘を生むことをひとつの必然として、受け容れる。
 この物語を論理的に説明しようとしても難しく、むしろ粗探しをする方が容易だろう。ヘプタポッドの言語的認識論の影響を受けたとしても、未来の、まだ到来していない経験を思い出すということは予知ではないのか? もしくは既に子どもの誕生と死を経験し終えた後の主人公が、時制の認識を失って錯乱しているだけではないのか? こうした指摘に対して、それらしい説明を試みることはできるが、意味はあまりないだろう。この物語の本質はシナリオの論理的整合性ではなく、子どもとの別れを了解しながら、その誕生を受け容れる主人公の心理だとわたしは思う。最後の頁を読み終えた時に、わたしは深い悲しみと根源的な喜びが混在した感情の波に襲われた。そして、この感情の振幅が、自分自身の娘の誕生に立ち会った際に体験したものと相似している、と思わされた。それは言い換えてみれば、まるで種々の色に分光される前の光の束を浴びるように、いつか訪れる喪失と同時に、永遠に失われることのない獲得が同時に訪れる、そのような経験だといえるかもしれない。
 作者のチャンはインタビューのひとつで、『Story of Your Life』を書き上げるために、5年かけて言語学の調査を続けたというが、この宇宙人の言語的相対論をテーマにした背景には、彼が台湾からアメリカへ移住した親を持っていることも関係しているかもしれない。
 現代のもうひとりの中国系アメリカ人のSF作家にケン・リュウがいる。デビュー作である短編小説『The Paper Menagerie』(2011年。邦題『紙の動物園』)では、中国とアメリカの文化的差異に引き裂かれた母子の情を、母親の故郷に古くから伝わる、折り紙の動物に生命を与えるまじないという幻想的なモチーフでつなぎながら描いている。この作品でネビュラ賞、ヒューゴー賞と世界幻想文学大賞の短編部門の同時受賞という三冠を史上初めて達成したリュウは、『Mono no Aware』(2012年。邦題『もののあはれ』。ヒューゴー賞短編部門受賞)という、「世界で最後に残った日本人」を題材にした短編も描いている。人類が生存をかけて他の惑星系探査に乗り出す船が事故を起こし、命を挺してその修理を行う主人公が味わう充足感が静かな筆致で描かれる。碁盤に配された碁石のように、自らの命を失ったとしても全体のために役割を果たす美徳、というと軍国主義時代の日本をも想起させかねない危うさが生じるが、善悪の彼岸を通り越した先に全体の状況に自らの主体性が重なり得るという認識論を、この中国系アメリカ人の作家が描き、そして、そのことにアメリカのSFシーンの批評家やファンたちが共感を示しているという事実は、なお興味深い。主人公が死ぬ間際に思い出すのは、父との散歩というなにげない日常のなかで見出した、ささいな瞬間の光景のことだった。
 ところでチャンの『Story of Your Life』では、なぜヘプタポッドたちが地球に到来し、人間と会話しただけで去っていったのかは、最後まで謎のままだ。要求を伝えるでもなく、新しい技術をもたらしたわけでもない。しかし言語学者が超越的なヘプタポッドたちとの会話の糸口を探しながら、最終的に彼らの円環的な認識論を獲得し、未来に訪れる運命を能動的に受容するに至るという流れは、まるで夢幻能において宗近や旅の僧が、稲荷明神の化身や式子内親王の亡霊と相槌を打ちながら、世界の背景描写そのものへと融合していく様子と重なるように感じられる。こう書いているうちに、いつかこの小説を原作にして、シテはヘプタポッド、ワキは言語学者の『七本脚』という題の切能(きりのう)(能の上演で、最後の5番目に演じられ、鬼や神がシテとなる曲)を書いてみたいと思った。

16回目につづく