滝口悠生→松原俊太郎

演劇計画Ⅱ」で公開された「カオラマ」の第二稿を読みました。第一稿の改稿というより、もうまったく別の戯曲ですね。このプロジェクトは創作される戯曲が〈上演を前提としない〉ものであることに加え、〈制作過程が公開される〉という作り手にとっては厄介な〈前提〉があるわけですが、その前提もろとも創作物にしていくような松原さんの姿勢にナイス、と思いました。ト書きがですます調であることが効果的で、登場人物たちが自分たちを取り囲む「戯曲」を読んでいるような箇所はクリティカルですが同時にチャーミングでした。

これまでもたびたび松原さんが書かれていた「紋切り型」は、二稿のなかで重要な言葉として書かれていましたね。前半部は「作者1」と「作者2」の戯曲の定義をめぐるような対話が続き(ちなみに、僕はここを読みながら、時々小説についても言われる「純文学」の定義をめぐる議論を思い出しました)、そのなかで「私の頭から出てくる文章はすべて紋切り型で、それをここで戯曲の形式に当てはめていけば、普通の戯曲ができあがる」とあります。言葉が紋切り型に用いられることを徹底して拒む松原さんのこだわりはこれまでのやりとりでだいぶわかってきたように思うのですが、ではその先にあるであろう戯曲のおもしろさ、戯曲を読む楽しみ、みたいなことについて今回は考えたり投げかけたりしてみたいです。

「その身体から発せられる声が、フィクションではなく現実の身近な言葉として、意味ではなく身体を獲得した言葉として『聞こえる』こと、そこに演劇のおもしろみを感じます」と松原さんは前回書いていましたが、この「演劇のおもしろみ」は小説でもほとんど同じではないかと思います。小説には物理的な声も身体もないけれど、読み手はフィクショナルな人間の声や身体とともに小説を読んでいるはずだし(なぜなら言葉は人間のものだから)、小説のおもしろみもやはり言葉が意味以上の何かを獲得する瞬間にあると思います。

では、やはり言葉だけでつくられている戯曲のおもしろみも、それと同じなのでしょうか?

上演と戯曲のどちらがおもしろいのか。

というのはナンセンスな比較で、愚問かもしれません。でも、芝居を観に行って、ああおもしろかった、と会場を出た時に物販で戯曲(上演台本)を売ってたりすると、じゃあ買って帰ろうかなと思うこともあり、そんな時この問いが実際よく頭に浮かぶものです。すでに上演を観た芝居の戯曲を、記録とか資料的な意味ではなく、テキストとして楽しむことができるのか? 僕はやっぱり上演の方がおもしろいかな、と思ってしまうことが多いように思います。買っても結局読まなかったり。そもそも両者を比較することに無理があるわけですが、戯曲が上演よりもおもしろければ上演の必要はないかもしれないわけで、これは松原さんがいま取り組んでいる作業にも通じる問いでもあるように思います。

戯曲としてのおもしろさ、戯曲ならではのおもしろさを見つけるのは読み手の作業です。そこには前提やある種の訓練も可能だし必要なのかもしれません。そもそも多くの人が、戯曲をどういうテキストとして読めばいいのかよくわかっていない。僕が上演後の物販で戯曲を買おうとする時も同じで、これを自分はどんなものとして読めばいいのか、楽しめばいいのか、よくわからないのだと思います。あるいは、これはどういう楽しみのために書かれ、販売されているのか? これは上演を前提とした戯曲であり、であるならば上演を観れば読む必要はないのではないか? と思ってしまう。必要がないとまでは言わなくても、すでに上演を観た自分は、この戯曲を含む作品への関わりとしてもう十分こと足りているのではないか。みたいな。

たとえば6月のKAATでの「山山」と「忘れる日本人」の時は、上演台本と戯曲は全然違う、ということが戯曲をためらいなく買うひとつの理由だったはずで、現金と言えばまあそれまでですが、無条件に戯曲を楽しむ準備が僕を含め多くの人には備わっていないのかもしれません。戯曲を読む、とはいったいどんな経験なのか。

とこのへんまでで次回の松原さんからの返答を待つことにして、前回の問いかけにいくつかお応えしようと思います。

松原さんの戯曲も、そして僕の小説も、モノローグであれ対話を前提にしているのではないか、というのは、その通りだと思います。言葉はどこかの誰かに向けられているはずです。ただ、僕は小説というのは結局のところ全部モノローグだと思うので、対話と言っていいかは微妙で、対話の可能性とか、かえってくるかわからない、おーい、ヤッホー、みたいな呼びかけみたいなことになるでしょうか。いや、違うな。呼びかけではない。そのへんは松原さんの方法とはもしかしたら決定的に違うのかもしれないし、戯曲と小説の形式(ただ、どちらも形式なんてあるのか?)による違いなのかもしれません。でも松原さんの戯曲の対話も、二者によるかけあいのようでいて、話題はあまりずれていかないので、モノローグ的な印象もある。これは小説だと瑕疵になりがち(鈍重というか退屈というか)なのですが、戯曲では必ずしもそうでないのかもしれません。なにか松原さんの狙いがあったらうかがいたいです。

小説の言葉の宛先は、具体的な誰かでなくともよい、というか小説の場合、むしろ具体的な誰かでないからこそ語られるのかもしれない、と僕は思います。たとえば死者だったり、会うことのできない人であったり。で、そんな人らへ向ける言葉というのは、やっぱり家族とか友人、あるいは自分自身に向けるのとも違う向け方、やり方になると思うのです。

で、これも似たような話ではあるのですが、小説の文章を書くことは誰かの声を聞くことに似ている、という前に僕が書いたことについて。これもなかなか説明が難しいのですが、登場人物も物語も自分で考えているには違いなく、まして執筆作業には自分以外の誰も直接的にかかわっていないにもかかわらず、能動的な感じがなく、なんだかその作業における自分(書き手)は虚ろな存在であるような感じがします。その声にチューニングするというのも、こう、という方法よりは、焦らず待つ、みたいな、方法というよりは気構えに近い感じ。こうして言語化していくとまた少し実感とずれていくのですが。松原さんの言う「異化」とこの感じはもしかしたら近いのかもしれませんが、僕としては別の意味や存在に変質するというよりは、虚ろになるとか薄まるとか後退していく、みたいな言い方の方がしっくりくる気もします。その現れが、この前書いた受動性、受け身の感じです。

最初と最後に近況や時候の挨拶を置く形式に飽きてきたので、今回はやめてみました。そしてずいぶん締切を遅れてしまいました。ごめんなさい。オープンラボはいかがでしたか。

10月3日 滝口悠生

『演劇計画Ⅱ -戯曲創作-』

委嘱劇作家:松原俊太郎、山本健介(The end of company ジエン社)
演劇計画Ⅱアーカイブウェブサイト http://engekikeikaku2.kac.or.jp/
京都芸術センター http://www.kac.or.jp/