私学に対する「特典付与」運動の弱点

 慶應義塾の創設者福澤諭吉は、1883(明治16)年の徴兵令改正に強い危機感を抱いた。徴集猶予など徴兵令上の特典が官立府県立学校に限定され、私立学校はそこから排除されていたからである。
 在校生や入学予定者が、特典の得られない私学を見捨てて官立府県立学校を選ぶ可能性が著しく高まった。実際、改正直後に官立府県立学校の人気が急上昇したこと、私学が大幅な生徒減に陥ったことは、前回言及したとおりである。

福澤諭吉(明治14)  国立国会図書館デジタルコレクション
 

 そして福澤は、東京府知事宛に「願書」を提出して慶應義塾に対する特典付与を求め、同時に陸軍の最高実力者の山縣やまがた有朋に書簡を送り、「特別ノ御取扱」を求めた。要するに、政界工作である。
 福澤の運動は、それにとどまらなかった。自身が経営する『時事新報』や著書を通して、このままでは私学が「廃滅」する恐れがあること、私立各校の実態を調査して一定以上のレベルのものには特典を付与すべきことを広く訴えたのである。当然そこには、慶應義塾は府県立中学校などよりはるかに高度な教育を行っているので、公平に審査すれば特典が得られないはずがない、という自負があっただろう。
 このように、慶應義塾の存立を賭け、また私立学校を代表して「官」による差別と戦う福澤は、現代人の目にはきわめて立派な人物に映る。とりわけ慶應義塾をはじめとする私学関係者にとってはそうだろう。だが、少し見方を変えてみると、福澤は官立府県立学校が享受している〈特権〉を慶應義塾にもよこせと主張しただけだとも解釈できる。そうだとすれば、福澤の主張と行動には、ある大きな弱点が生じることになる。

「平等連帯の主義」との矛盾

 なぜならこの主張は、当時福澤自身が唱えていた兵役論と根本的なところで矛盾するからである。
 1884(明治17)年に刊行された『全国徴兵論』という著作にまとめられた福澤の兵役論の重要な柱のひとつは、「平等連帯の主義」つまり「国役を国中に平等ならしむる事」であった。兵役は、すべての国民男子が平等に負担しなくてはならない、というのが福澤の持論である。

『全国徴兵論』 ©️慶應義塾福澤研究センター
 

 この観点からすれば、官学だろうと私学だろうと〈学歴〉によって兵役に関するさまざまな〈特権〉が得られる事態は、教育と深い縁のない圧倒的多数の国民にとってはただの不平等である。福澤の兵役論は、当時日本に導入されていた現実の徴兵制度とはかなり異なる構想だが、それにしても、例外的な〈特権〉の存在自体を許容し、慶應義塾もそれを得るべく政界工作を行い、広く社会に私学優遇を訴えることは、福澤が唱えた兵役の「平等連帯の主義」と明らかにつじつまがあわない。
 当然、福澤自身からなんらかの説明があるべきだが、それについて特段の言及はなかった。強調されたのは、「古今私学より人物を出したること多きの事実」という教育面での実績と、私立学校は国家財政の負担にならないという経済面のメリットである(『全国徴兵論』)。
 実は福澤自身、大変苦しい思いで論陣を張っていたことが推察される。というのは、慶應義塾に対する特典付与を求めた「願書」が却下されたのち、福澤は議論を大きく転換させてしまうからである。1884年(明治17)年7月30日の『時事新報』に掲載した論説「兵役のがれしむ可らず」において、福澤は、徴兵令の特典を得る目的で府県立学校を志望することを戸籍操作と同様の卑劣な徴兵逃れ行為と断定し、すべての特典を廃止してひとりも兵役から逃れられないようにするべきと主張した。つい半年ほど前までは私学に官立府県立学校と同様の特典を付与せよ、と主張していたのに、根本から論調を変えてしまったのである。
 福澤は「我輩はかつて此辺の事を論じ、当時にありては専ら私立学校生徒の為にしたるもの多しといえども、今や細事を顧るにいとまあらず、眼中既に私立校なし」と末尾で述べた。これまでは「私立学校生徒」のために特典の付与を訴えていたが、いまや官立府県立学校への入学が事実上の徴兵逃れとなっている〈不正〉のほうが大問題である。〈不正〉撲滅のためには、一律に特典を廃止するしかないというのである。
 つまり福澤は、慶應義塾をはじめとする私学が例外的〈特権〉を獲得することで官学との不平等を解消する路線から、〈特権〉それ自体を廃止することで不平等を解消する路線にシフトしたといえる。

「官尊民卑」の打破

 1883(明治16)年の徴兵令改正で福澤が直面した問題は、近代日本のいたるところに見られる「官尊民卑」現象のひとつである。少なくとも福澤自身が、官学と私学の格差をそのように捉えていた。1894(明治27)年5月22日の『時事新報』論説「社会の弊習は根底より絶つ可し」には次のような一節がある。

「又教育学問の事にしても、官の学校に養はれて卒業したるものは学士の称号を授けられて独り学者の名誉を専らにし、然らざるものは学術の実際如何にかかはらず社会に於ては殆んど顔色なからしめ、官立の学校には種々の特典を与へて其繁昌はんじょうはかりながら、私立は之を擯斥ひんせきしてあたかも其自滅を促し、又官立の教師は官吏同様に位階等を授けて其威光すこぶる高きに反し、私立の教師は恰も方外のとして冷遇するが如き、凡そ此種の例を計ふるときは数限りもなきことにして、官尊民卑、専制時代の復色と見るの外ある可らず」。(「社会の弊習は根底より絶つ可し」)

 この時期、すでに設立されていた帝国大学の卒業生は「学士」の称号を使用することができた。「学士」でなければ名誉ある知識人と見なされない風潮すらあった。また、帝大卒業生には、法曹・医師などの国家資格を無試験で得られる特権が与えられていた。官学の教員は官吏と同じように位階を持ち、「威光」も高かった。福澤は、官学に特典を与えてその発展を促し、私学には与えずに「自滅」を促したことを非難しているが、その最たるものこそ、徴兵令の特典問題だろう。
 徴兵令改正をひとつの発端とする福澤の〈反官学〉の闘いは、やがて「官尊民卑」の打破という大目標のなかに位置づけられていくことになる。

「官員様」の内面世界

 「官尊民卑」という言葉は、福澤の後半期の言論活動における最重要のキーワードのひとつであり、福澤という人物と切っても切り離せない関係にある。『日本国語大辞典』を引いてみると、「官尊民卑」は「政府や官吏を尊いものとし、一般人民や民間の事を卑しいものとすること。またその考え」と説明され、最も早い時期の用例として福澤が創刊した『時事新報』1882(明治21)年8月18日の記事、続いて福澤晩年の随筆『福翁百話』が引かれている。

『福翁百話』に掲載された福澤諭吉の近影 国立国会図書館デジタルコレクション
 

 『時事新報』の論説タイトルにはじめて「官尊民卑」という言葉が登場するのは1886(明治19)年1月16日の「官尊民卑の弊」で、次のような内容である。
 前年12月の内閣制度発足にともなって官吏のリストラが行われたが、免職・非職となった元官吏のなかに「自今処世の目的に当惑する者」つまりクビになって路頭に迷い、困惑する者が多数あらわれた。彼らの困惑の最大の原因は、日本社会の「官尊民卑」の風習である。猟官制のアメリカでは、政権交代によって官吏が免職になっても民間に就職すればよいので、大きな問題にはならない。ところが、日本の官吏は異なる。彼らの脳裏には日本の官界という小さな天地しかなく、商工業や農業、学問などの「民間の事業」はしょせん「卑賤ひせん」なものだという固定観念をが染みついている。

 「昨日までは官庁に座して目下に人民を見るのみならず都鄙とひ私の交際に於ても官員様と仰がれたる者が今日は則ち大官庁に行けば官員様を見上げ、私の交際に於ても官員様を仰ぐの身分と為り、俗に所謂駕籠かごに乗る人担ぐ人の相違を瞬間に生ずるとはさても扨も痛ましきことにこそあれ」(「官尊民卑の弊」)。

 在官時には「官員様」ともてはやされて人民を見下していた者が、クビになるや一転して「官員様」に見下されるただの人となり、「零落」を存分に味わう。「官」に拝跪はいきする「民」、「民」を見下す「官」の双方に対する批判は、やがて『時事新報』の重要なテーマになっていく。

ソフト化と定着

 かつて福澤は、徳川末期の1866(慶應2)年、『西洋事情』初編において「(人々の)貴賤きせんの別は、公務に当て朝廷の位を尊ぶのみ」と説いた。政府官吏の地位が重んじられるのは、あくまでその公務を執行する場合に限ってのことであり、それ以外は官吏であろうと民間人であろうと対等である。これが、明治がはじまろうとするその時に福澤が発したメッセージであった。

『西洋事情』初編 ©️慶應義塾福澤研究センター
 

 ところが、この福澤の言葉は現実のものにはならなかった。明治も30年になったにもかかわらず、政府とまったく関係のない私的な集まりでさえ、官吏は上座に奉られ、無位無爵の民間人は下座でへりくだるのが当たり前になっている。官吏は横柄な言葉づかいで威張り、民間人は精一杯尊敬の念を示し、卑屈にふるまう。さすがに「政府の小役人」が公然と人民を奴隷扱いするような風潮は薄まってきたものの、「官尊民卑」の風習はソフトになりつつ社会に広く定着していた(「社会の交際に官尊民卑の陋習ろうしゅう」『時事新報』1897年8月26日)。

「官尊民卑」の正体

 この「官尊民卑」の正体はいったいなんなのか。徴兵令改正からちょうど2年後、1885(明治18)年に刊行された『士人処世論』で、福澤は「日本の士人」(この場合は学問や教養を身につけた人々を意味する)がみな「世に官吏の職業ほど尊きものはなしと心得、只管ひたすら仕官に熱中煩悶はんもん」する有様を激しく批判した。人々は官吏に憧れ、官吏を目指して激しく争い、ほかの仕事など一切眼中にないというのである。この本のなかで福澤は、官吏を目指す、あるいは官吏となることは必ずしも利益にならないこと、むしろ大多数の人々は「断じて官途の事は思ひ止まり、一日も早く他の独行私立の営業に身を転ずべき」ことを強く主張した。

『士人処世論』 ©️慶應義塾福澤研究センター
 

 なぜ多くの若者が政府に勤めることを熱望し、官吏の地位に恋い焦がれるのか。その原因こそが、日本社会にまとわりつく「官尊民卑」の気風である。そしてそれは、封建の時代に端を発する、きわめて根の深い病である。

「我国の制度全く封建門閥の体を解きたりと雖ども、数百年来の余臭は容易に洗ふべからずして、政府と人民との間柄を見るに、上下尊卑の懸隔けんかく甚だしく、その発して公用の文書に現はれて、文字の大小敬語の用法等は勿論、日常些細の事にして政治に縁なき性質のものにても、政府の筋と云へば一種特別の重みを附けて、之を仰ぎ尊ぶこと、封建世禄の時代に所謂る御上様の御用の筋をむやみに尊敬したるの風に彷彿たるもの少なからず……畢竟数百千年、我国の士族尊く人民卑くして、其の士尊民卑の遺俗が今は官尊民卑の姿に改まり、官員の家に一種の勢力を生じて、家人の心も自然に其風に化するものなれば、之を如何ともすべからざるなり」(『士人処世論』)。

 明治維新によって「封建門閥」の時代は終わりを告げた。だが、数百年の習慣は容易になくなるものではない。政府と人民はまさに「尊卑」の関係であり続けていることは、公文書における名前の大小や敬語の使い方などを見ても明らかで、政府に関することは「一種特別の重み」をつけて尊ぶことが当たり前になっている。封建世襲の時代に、御上の「御用」とあればやたらに尊んでいた時代を彷彿とさせる。長い間、この国では士族は尊く、人民は卑しい存在だった。その時代の「士尊民卑」の習慣が、明治のいまになって「官尊民卑」に姿を変えた。福澤はこう主張する。
 このくだりは、『学問のすゝめ』初編での議論を想起させる。そこで福澤は、徳川時代のエピソードとして、将軍家御用の宇治茶が東海道をまかり通った茶壺道中、将軍が狩で用いる鷹が人間よりも偉かったことなどの例を示し、「御用の二字を附れば石にても瓦にても恐ろしく貴きものゝやうに見へ、世の中の人も数千百年の古よりこれを嫌ひながら又自然に其仕来しきたりに慣れ、上下互に見苦しき風俗を成せし」有様だったことを指摘した。福澤のいうように、人間交際から官学と私学の格差にいたる「官尊民卑」がかつての「士尊民卑」の〈伝統〉から転化したものだとすれば、それは尋常一様の方法では改革されないだろう。

二つの方法

 これまで、福澤の「官尊民卑」批判は、政府と民権派の対立を収拾し、国内の秩序回復を図ろうとする官民調和論との関係で論じられることが多かった(伊藤彌彦『維新と人心』)。福澤自身が「官尊民卑の流弊と為り、官は益尊くして民は益卑く、次第に其地位を懸隔せしむるときは、自然に其利害を殊にし、官と民と漸く別乾坤の事相を呈して、遂には一種隔意の塊を生じて解く可らざるに至る可し」と述べている。「官尊民卑」の弊害は、自然に「官」の世界と「民」の世界の分離をもたらし、やがて互いにバリアを作るにいたる。そう考えると、たしかに「官尊民卑」の打破は官民調和の一階梯かいていではある(「官民調和論」『時事新報』1887年12月26日)。
 だが、福澤の「官尊民卑」批判は、官民調和論の範疇に収まるものでは決してないように思われる。「官尊民卑」を打破しようとする時、そこには二つの方法が存在する。ひとつは「官」の側が門戸を開放する、あるいはへりくだるなどして目線を「民」にあわせることである。福澤が『時事新報』でまず「官」の側が爵位を誇示するなどの「空威張」をやめるべきと説いたのは、これにあてはまる。まさに官民調和のための「官尊民卑」の打破である。

時事新報
 

 同時に、もうひとつの方法がある。それは「民」の側が勢力を拡大させ、「官」と同等、あるいはそれ以上の権勢を得ることである。福澤が「官尊民卑」批判を展開した初期の例である『士人処世論』は、人々に官界を志望することの愚を説き、「独行私立の営業」つまり商工業に従事し、官吏になる以上の利益を得るべきことを訴えるものだった。
 この主張は、官民調和論の範疇に収まるものではない。むしろ、明らかに反「官」的なニュアンスが感じられる。「官」に頼らない「独行私立」者で溢れる社会。それは、常に「民」の勢いが「官」を凌駕する可能性をはらんだ世界である。
 以後、福澤が試みる「官尊民卑」の打破、そして新しい学問や教育の創生は、この「独行私立」と深い関わりを持つことになる。徴兵令改正を通した政府による〈私学冷遇〉という現実を前に、それらはいかにして可能なのか。もちろん、予算面や人材面で私学が官学に敵うわけがない。福澤の戦略は、おのずと多くの奇策を内包せざるを得ないものになるのだった――。

(第4回へつづく)