クスクスというのは「肉煮込み汁ご飯」といったところか。サハラ周縁地域でよく食べられている家庭料理だ。
 小麦やヒエ、キビなどを粗く挽いて蒸す。それを皿に盛り、羊肉や野菜のトマト煮込み汁をかける。煮込み汁が粒の粗いクスクスによくしみ込み、「牛丼」的な食べやすさがある。
 1985年、サハラ砂漠のど真ん中のゲリラ基地で、そのクスクスが出てきた。
 朝早くから砂漠の戦場を走り回り、宿舎に帰りついたのは深夜だった。昼食のあとは何も食べていない。腹がすごく空いていた。煮込み汁の香辛料の香りに胃袋が刺激され、腹が鳴った。大盛りのクスクスを、自分でも呆れるほどのスピードでたいらげた。給仕してくれた50歳ぐらいの主婦が、おかしそうに笑った。

クスクス・四谷荒木町「トライブス」にて。

 

 西サハラのゲリラ「ポリサリオ戦線」の兵士に同行し、モロッコとの戦争を取材した。
 スペイン領だった西サハラ地区では、遊牧民の抵抗運動が続いていた。手を焼いたスペインは1976年、領有をあきらめて撤退する。その後は隣接のモロッコとモーリタニアの分割統治となった。しかし独立を求める住民は「サハラ・アラブ民主共和国」樹立を宣言し、独立闘争を継続する。
 「共和国」の軍隊である「ポリサリオ戦線」は、まず南隣のモーリタニアに攻勢をかけた。首都ヌアクショットまで攻め入られたモーリタニアは内政ががたがたになり、79年に領有権を放棄する。再びポリサリオ戦線の勝利だった。ところが間髪を入れずモロッコが軍を投入し、全域の領有を宣言してしまう。ポリサリオ側は怒り、今度はモロッコを相手に闘争が始まった。
 ポリサリオ戦線の基地は、東隣のアルジェリア領内、チンドゥフにある。アルジェリアの首都アルジェから南西約1000キロの砂漠地帯だ。モロッコと仲の悪いアルジェリアが、暗黙の了解で基地使用を認めている。ゲリラたちはそこから毎日、国境を越えてモロッコとの戦争に出かけるのである。

 午前4時すぎ、チンドゥフ基地を出発して前線のマハバスに向かった。まだ辺りは闇の中だ。5台の四駆車と120ミリ自走砲が1台、兵士は10数名。全員がカラシニコフ銃を持っているが、武装はそれだけだ。
 車のライトはつけない。真っ暗な砂漠の上だが、彼らは十分に道を知っている様子だ。2時間ほど走ると夜が明けてきた。もう西サハラに入っているという。砂漠の同じような景色の中を走っているうちに、国境を越えてしまったようだ。フェンスや検問所などなかった。
 午前9時前、車列が停まる。ここがマハバスだ、といわれて車を降りた。見渡す限りの砂漠だ。周囲には砂丘が起伏する。
 兵士の後について砂丘の一つに登った。尾根の手前に腹ばいになって双眼鏡でのぞくと、驚くほど近くにモロッコ軍の陣地が見えた。モロッコ兵が動いているのがはっきりと分かる。「大丈夫だ、あそこまで5キロもある」とゲリラ兵士がいった。冗談じゃないぞ、敵基地まで5キロしかないのか。お尻のあたりがむずむずしてきた。
 砂丘の陰では、あちこちのゲリラ基地からやってきた自走砲が散開し、砂丘越しにモロッコ軍の陣地をねらっている。私たちの隊長が、無線で自走砲と連絡を取り合っている。
 午前10時過ぎ、自走砲の砲撃が始まった。砲声がズンと腹に響く。自走砲は1、2発撃っては位置を変えている。双眼鏡で見ると、モロッコ軍陣地の周辺に次々に着弾の砂煙が上がっていた。隊長が双眼鏡をのぞきながら、自走砲に照準の修正を指示する。
 モロッコ軍もすぐ撃ち返してきた。砲弾がヒュルヒュルと音を立てて頭上を飛び越え、後方の砂漠で炸裂する。一発は300メートルほど左側ではじけ、猛烈な砂煙を上げた。思わず砂丘に突っ伏す。汗の顔が砂だらけになり、隣のゲリラ兵士がおかしそうに笑った。
 「敵からわれわれは見えていない。適当に撃ち返しているだけだ。当たりはしない」
 ということは、当たるときだってあるということじゃないか。
 2時間ほどの砲撃戦のあと、ゲリラ側はさっさと陣をたたみ、8キロほど後方のオアシスに引き揚げた。昼休みだという。砂漠の中の窪地にそこだけ草があり、背の低い木が生えていた。かんたんな井戸が掘ってあり、ポリバケツが置いてある。ヤギやラクダの糞が転がり、それにまじってモロッコ軍の戦闘機のものらしい20ミリ機関砲の空薬きょうが散乱していた。
 ゲリラたちは、木と木の間にロープを張ってキャンバスシートをかけ、かんたんな日除けテントをつくる。その日陰で火を起こし、のんびりとお茶をたてはじめた。
 「あいつらは絶対に陣地から出てこない。安心してお茶を飲め」
 小さなカップを渡された。砂糖と香料がたっぷり入った、熱々のアラブ風紅茶だった。底には茶葉が沈んでいる。彼らはその茶葉まで飲みほし、3回お代わりをした。それが彼らの茶道のようだった。それにしても、戦争をするのに彼らはお茶の道具一式を持ち歩いているのだ。
 別の部隊から差し入れのあったヤギを殺し、肉をあぶって昼飯になった。食事が終わるとまたお茶。それから、20メートルほど先の土盛りの上に空き缶を並べ、射撃大会が始まった。私にも銃が渡された。3発撃って1発も当たらず、大笑いされた。射撃大会が終わると、テントでお昼寝だ。
 砲弾が届く距離に敵がいるというのに、目を吊り上げたような緊迫感はなかった。スペインに対する独立闘争を始めたのは1973年だ。それ以来、相手がモーリタニアに変わり、モロッコに変わってもずっと戦争を続けている。彼らにとってゲリラ戦は日常の生活の一部になっているようにさえ見えた。

戦場の砂丘の陰に展開したゲリラ部隊の自走砲


 昼寝が終わった夕方5時過ぎ、テントをたたんで基地に戻る。また砂漠の道なき道を走った。9時過ぎに日が暮れた。その中、再びライトなしの走行だ。基地に着いたのは夜の10時過ぎだった。
 夕食は深夜の11時過ぎに始まった。出てきたのが、アルミ皿に山盛りのクスクスだったのである。
 ヒツジ肉の煮込みには香辛料がたっぷり入っており、いいにおいがする。一口食べたら、ジャリッと砂をかんだ。しかし、未明からずっと動き回り、砲撃戦まで体験してエネルギーを消耗しつくした胃袋には、多少の砂など大した問題ではなかった。空腹時の牛丼のごとく、あっという間に食べてしまったのである。初めてのクスクスは、汁が沁みていて実にうまかった。

 

 チンドゥフ基地に滞在していたある朝、隊長がやってきて「住民のキャンプを見に行こう」といった。
 ポリサリオ戦線の基地はアルジェリア領内のチンドゥフにある。だが、モロッコ支配から逃れてきた「国民」は別のところにキャンプをつくって住んでいる。そこへ行ってみようというのである。
 アルジェリア内の国境沿いに、故郷の出身州別の三つのキャンプがあり、あわせて10万人が住んでいる。その一つ、ダハル州のキャンプに行くという。
 2台の四駆車で基地を出た。基地から10キロぐらいまでは、未舗装とはいえ道路があった。しかし、そのあとは砂漠だった。車のわだちさえない砂の上を、時速80キロを超えるスピードで突っ走っていく。先行車は途中でときどき停まり、後続車が追い付くのを待った。途中で砂に車輪が埋まったり、砂嵐で道を間違えたりすることがある。そのため1台だけでは決して砂漠に出ないのだという。砂漠でそんなことが起きたら、いかに彼らとはいえ、命にかかわることなのだ。
 ダハル州キャンプに着いたのは昼過ぎだった。オアシスもない。木も草もない。そんなただの砂の上に、大きなテントが無数に並んでいた。
 こんな、何もないところに、なぜキャンプをつくったのだろう。
 この砂の下に水があるからだ、と隊長がいった。
 「砂の下3メートルぐらいに岩盤が広がっている。さらにその下にある岩盤との間に、深さ20メートルほどの水がたまっている。地下の湖みたいなものだ。岩盤の薄いところを探して少し掘れば、10万人が100年以上使えるほどのきれいな水が出てくる」
 化石水だ。太古の地殻変動で地中に閉じ込められてしまった水である。その水が、西サハラの人々の生活を支え、戦いを支えている。
 キャンプの役員の家だという大きなテントに泊めてもらうことになった。テントは二重張りになっており、外側はキャンバス地で、上にラクダの皮がかぶせてある。ラクダの皮は砂をかぶって薄汚れ、一見したところ乞食小屋のような感じだ。しかし内側は二重張りになっており、花模様の厚手のビロード地の内張りは豪華だった。内部は20畳分はたっぷりある。下は砂だが、その上にキャンバスシート、そしてじゅうたんが敷いてある。居心地がよさそうだ。
 サハラ砂漠の砂は細かい。2、3日過ごすだけで砂がカメラの裏ぶたの中まで入りこみ、体全体がじゃりじゃりした感じになる。砂漠とはそんなものだと観念していた。それだけに「じゃりじゃり感」のないテントの中が、かえって意外な感じだった。

遊牧の人々のテントの中は、意外に豪華で居心地がよかった。


 テントの一番奥には、木枠を組んだだけの3段の棚があった。大きなトランクが二つおさめられている。いちばんよく使う身の回り品が入っているのだという。2段目には赤いシートで包まれた行李こうり。3段目はテントの傾斜との間の三角のスペースだが、そこにはたたんだ毛布やマットがきちんと積まれていた。所帯道具はそれだけだという。いつでも移動ができる態勢だ。遊牧民の生活文化なのだろう。このキャンプに住みついてもう10数年にもなるというのに、身についた遊牧の習慣というのは変わらないものだ。
 キャンプには学校や診療所もあり、女たちが委員会をつくって運営していた。男たちは3か月を戦場で戦い、帰ってきても2週間ほど滞在するだけでまた戦場に行ってしまう。私たちが泊まったテントも、ゲリラ指導者の夫が戦場に行っている留守宅だった。50歳代の主婦は、私たちの寝床を用意すると出て行った。親族のテントで寝るのだという。
 ダハル・キャンプの「村長」はナジャム・シェイクさんという70歳代の老人だった。スペインに追われ、1976年にここに来たのだという。ナジャムさんは「一か所に長く住み続けるというのはよくない。体の調子がおかしくなる」とぼやいていた。

 

 翌日、もう一つの州のキャンプを訪ねた。やはり2台の四駆車で2時間、スマラ州のキャンプだ。
 キャンプのテント群のわきに、捕獲兵器の展示場があった。土塀に囲まれて、対スペイン戦争時代の古い砦がある。その中庭に、モロッコ軍の兵器がずらりと並んでいた。ミラージュ戦闘機の残骸。真新しい米国製105ミリ自走砲。ベルギー製自動小銃。中国製迫撃砲……。戦死したモロッコ軍兵士から回収した認識票が何百枚とある。
 そうした捕獲品の列の最後に、モロッコ軍の捕虜が並んでいた。色のさめた青い囚人服姿で、頭は丸坊主だ。ゲリラ隊長の通訳で話を聞いた。
 ズムル・ニラズ空軍大尉、40歳。84年10月、マハバス西50キロの地点で偵察飛行中に撃墜され、落下傘で降りて捕まった。
 「自分個人としては、この戦争はポリサリオ側に理があると思う。しかし自分はモロッコ軍の軍人であり、命令に従って行動した。国には妻と幼い子どもがいる。会いたいが、しかたがない」
 どんな食事をしているのか。
 「だいたい毎日、クスクスだ。ポリサリオが、クスクスの袋と羊肉を持ってきてくれる。野菜は自分たちでつくったものを使う。量が足りないということはない」
 ゲリラ兵士も捕虜たちも、同じ神に祈り、同じ言葉を話し、同じものを食べて暮らしていた。
 ベテチ・モハマド機械科曹長、41歳。78年の戦闘で負傷して捕まった。以来7年間、捕虜生活を続けている。
 「モロッコ政府がこの戦争を戦争と認めていないため、私は本国から捕虜の扱いを受けておらず、行方不明兵とされている。妻子がおり、赤十字を通じて年に1、2回手紙を交換している。しかし、収入のない中で家族がどんな生活をしているのか、詳しいことは分からない」
 朝起きるとキャンプの農場に出かけ、地下水をくみ上げて野菜を育てる。夕方、収容所に帰って2段ベッドに寝る。その繰り返しだ。周囲は果てしない黄色の砂漠で、脱走など思いもよらない。そんな生活をもう7年も続け、そしてこれからも果てしなく繰り返さなければならない。それでよく気が狂わずにいられるものだ。モハマド曹長は「神の御心だから」といった。
 個人の人生とか日常の生活とかいうものについて、彼らは私たちとまったく目盛りの違う物差しをもっているのではないか。そんな感じがした。

スペインとの戦勝記念日にはラクダ部隊のパレードが行われた。

 

 

 88年、西サハラの独立か併合かを住民投票で決めるということで、モロッコ政府とポリサリオの間で合意が成立した。それに基づいて91年、戦闘は停止する。しかし住民投票の方法をめぐって対立は解けず、事態はこう着した。
 その後、モロッコは国王が西サハラを訪問し、域内に道路や政府機関の建物をつくるなどの既成事実化を進めている。モロッコは最近、「モロッコ統治下の自治なら認める」と態度を変えた。問題解決の見通しは立っていない。

マハバス基地で暮らすモロッコ軍の捕虜たち。