サルブラクでの休憩を終え、おれはセキルに跨りソンクル湖へ向け出発した。

 破れてしまった荷物袋の修理は応急処置と言えるレベルでしかできなかったが、今日一日くらいは何とかもってくれるだろう。あと10kmほど先の山中には少し大きめの村があるようなので、修理道具を持った人に運良く出会えるかもしれない。

 しばらく進み、ナリンへ向かう国道とソンクル湖へ向かう山道との分岐点に到着。

 手綱を軽く右に引き、セキルに「曲がってくれ」と伝える。これまでの国道では大型トラックなどが多く、往来のたびにセキルが暴れるのでかなり神経を使ったが、これからは車があまり通らない道なので安心だ。

 途中、傾斜のきつい登り坂が何ヶ所かあったが、セキルはものともせずにグイグイと登ってくれた。セキルが一歩進むたびにおれは前へ前へと引っ張られて揺れるので、ちょっとしたジェットコースター気分だ。

 
 

 しばらく進むと、目的の村が見えてきた。野宿旅をする中で、次の村や町が見えてきた時の感動は何物にも代えがたいものがある。

 村があるのは事前に分かっていたが、地図で確認できるのは村の名前と位置だけだ。たった数文字で収まってしまうような、ほんの僅かな情報でしかない。その村が「いま」どんな所で、どんな人たちが生活を営み、どんな事がおれの滞在中起こるかなんて、行ってみなければ絶対に分からない。

中央少し上辺りに小さく見えるのがトロク村
 

 村へ到着。

 地図上では「ケンスー」と書かれていたが、村の人々によるとここは「トロク」という名前の村らしい。

 村内を歩いていると、道沿いの建物の日陰で休んでいた男性が声をかけてきた。男性は40~50歳くらいで顔が丸く、温和そうな雰囲気だった。

「こんにちは。僕はコイチュビットというんだけど、君、ツーリストだろ? 良かったら家で食事でもどうだ?」

 これは、キルギスのようなイスラム文化圏ではよくあることだ。イスラム教では「旅人には優しくしなさい」という教えがあるので、モロッコを冒険した時も今回も、おれはたくさんの心優しい人々と出会うことができた。

 かくして、おれはコイチュビットおじさんの家へありがたくお邪魔させてもらうことになった。ちなみに、キルギスの田舎の民家にはだいたいの場合は大型草食動物を繋いでおくためのスペースがあるので、セキルの駐馬場に困ることは無かった。

 コイチュビットおじさんの家には、妻のチョルポンおばさんと長男のアイダールがいた。チョルポンおばさんは終始テンションが高く、初対面のおれをまるで息子のように扱ってくれた。アイダールは19歳の穏やかな青年で、おれが持ってきたスマートフォンや電子機器に興味津々のようすだった。

 コイチュビットおじさん、チョルポンおばさん、アイダールとおれの計4人で食卓を囲む。この時におれが頂いたのは、日本でいうところのチキンライスのような料理だった。ケチャップで味付けされた米が鶏肉と混ぜられていて、非常になじみ深い味だった。

 しかし、出発前のコチコルでの宴会の時と同じく、客人には満腹を超える量の食事を出す、というのがキルギスでのもてなし方だ。おかげでおれの皿は、食べても食べてもいつの間にか元の量が盛られていて食べ終わらない魔法の皿と化していた。

「Go! まだまだご飯あるけど、いらないの? あたしの作ったご飯はとっても美味しいんだからね!」

 Goというのは、おれの海外での通名だ。本名の豪太郎からとったものだが、フランス語圏以外の人々にとっては発音しやすいようだったので、非常に使い勝手が良い。

「すみません、チョルポンおばさん。実は少し体調が悪くて……」

「なら紅茶よ! たっぷり注いであげるから、お茶碗を頂戴!」

 チョルポンおばさんはそう言っておれから茶碗を半ば奪うように受け取り、5杯目の紅茶が入った茶碗をおれに手渡してくれた。

「あ、そうだ、チョルポンおばさん。実はおれ、馬に乗せる為の荷物袋が破れてしまっているんですが、この村のどこかに修理ができそうな場所はありませんか?」

 おれがそう尋ねると、チョルポンおばさんは嬉しそうにニヤリと笑って地面を指さした。

「ここよ」

 どうやら、チョルポンおばさんには嫁ぐ時に手に入れた手回しミシンがあるらしい。食事後、奥の部屋からミシンを引っ張り出してきて、おれの荷物袋の破れた部分を縫って直してくれた。

 

 その後は、おれのこれまでの冒険で撮った写真をまとめたアルバムやドローン、そしてセキルの体調管理の為の聴診器など、持ってきたアイテムの話で盛り上がった。

 コイチュビットおじさんとチョルポンおばさんは特に聴診器が気に入ったようで、二人でお医者さんごっこのようなことをしていた。時々コイチュビットおじさんがいきなり体を硬直させて心臓麻痺のようなしぐさをするので、そのたびにチョルポンおばさんが聴診器をおじさんの胸に当て、険しい顔でこちらを見てから「大丈夫!」と笑顔になるやり取りが何度か行われた。コイチュビットおじさんのあっさりした演技と、チョルポンおばさんのテレビCMのようなリアクションがなかなかシュールだった。

 チョルポンおばさんが敷いてくれたふかふかの布団で寝る際、隣で横になっていたアイダールがおれに話しかけてきた。

「Go。明日、出発するのか?」

「そうだな。ソンクル湖、綺麗らしいから楽しみだよ」

「あぁ、とっても綺麗だよ。あとは今、ソンクル湖には僕の弟が遊牧に行っているから、もし会えたらよろしく」

「へぇ、そうなのか、名前は?」

「アイベックだ」

「分かった、覚えておくよ」

「また、良かったらいつでも家に遊びに来てくれ」

「ありがとう」

 

 トロク村滞在二日目の朝、おれは朝食を頂いてから、出発の準備をする。ここ数日はずっと熱があったのでぼんやりとしていたが、この日になってようやく意識がはっきりして元気が出て来たので、これまでにできていなかったことをやることにした。

 まずはセキルにイベルメクチンという名の駆虫薬を与え、寄生虫のリスクを軽減する。さらに、装備品や身なりを整えるべく、おれはコイチュビットおじさんから馬用の鞭とキルギスの民族帽子を500円ほどで譲ってもらった。

 さあ、目指すはソンクル湖だ!!

 
完全に放し飼いにされている牛たち

 鞭を手に入れたおかげで、セキルに「走ってくれ」と伝えることができるようになった。もちろん鞭で打つようなことはしない。セキルは非常に頭の良い馬なので、首に軽く鞭を当てるだけで移動速度を上げてくれた。

 高いところには残雪もあったが、だいたいはのどかな平野だったので、この日はセキルに何度か走ってもらったり、道から逸れて丘を越えるショートカットを試してみたりと、かなり充実した一日となった。綺麗な小川が流れている場所での休憩などを挟みつつ、どんどん山を登っていく。途中、牛や馬の群れに出会うことが何度かあった。ソンクル湖の周りでは今の時期は遊牧が行われているらしいので、そこで飼われている動物たちかもしれない。

 
 


 そして夕方、おれはソンクル湖に到着した。

 トロク村からソンクル湖までは47kmも離れているので、正直なところ今日は到着できないだろうと覚悟していたが、何とか日没までに辿り着くことができた。セキルが頑張ってくれたおかげだ。

(写真、以上すべて©Gotaro Haruma)
 

 湖の周りには白い円形の移動式住居、ボウズイが点在していて、その内のいくつかは煙突のような部分から煙が出ていた。食事の準備をしているのだろう。

 ボウズイがたくさんあるにも関わらず、外に出て遊んでいる子どもは1人もいなかった。なんとなく、トロク村とは異なる閉鎖的な雰囲気を感じたおれは、野宿をすることにした。

 そして、セキルを地面へ杭で繋ごうとしていると、昨日まで使っていたハンマーが無くなっていることに気付く。おそらくセキルが走っていた時に落としてしまったんだろう。かなりの重要アイテムではあったが、100kmほど先の次の町まで行けばまた入手できるだろうから、大した問題ではない。

 しかしその後、おれは更に深刻な問題に気付いた。……荷物袋が昨日以上に破け、かなり危うい状態になっている。チョルポンおばさんが手回しミシンで直してくれた部分も破れてはいたが、それ以前に荷物袋の材質そのものに問題があるようだ。何十キロもの荷物を運ぶには、この荷物袋では力不足のようだった。

 ……仕方ない、ひとまず明日の朝、手持ちの道具でなんとか補強をしてから出発しよう。

 ちなみに荷物袋に関しては、この強度のものですら現在のキルギスには流通しておらず、この付近では手に入らないものだ。今はどうしようもないので、ナリンに到着してからオーダーメイドして新調することにした。

 近くのボウズイを訪問して7、8歳くらいの少年から怪訝そうな顔をされながらもハンマーを借り、セキルを地面に杭と鎖で繋ぐ。この状態だと杭を抜くだけでセキルを盗めてしまうので、本来であれば木などに鎖で繋いでおくべきだ。しかし周囲に木はなかったし、この辺りの動物たちは皆繋がれずに自由に歩いているようだったので、家畜泥棒がいる可能性はかなり低いといえるだろう。

 

 ハンマーを借りたボウズイの近くにテントを張って中で横になっていると、そのボウズイから父親らしき大柄な男が出てくるのが見えたので、挨拶に行くことにした。

 先ほどハンマーを貸してくれた子どもにされたように、邪険に扱われるのではないかとも考えたが最低限の挨拶はしておくべきだ。おれが知らない間におれへの不信感や不満が積もり積もった場合は何かしらの嫌がらせをしてくる可能性があるので、そうなってしまうと非常に面倒だ。自分がよそ者である環境においては、コミュニケーションを取ることが最善の自衛手段だ。

「こんばんは。先ほどはハンマーを貸して下さってありがとうございます。僕は日本人で、馬と一緒に旅をしています。明日の朝出発しますので、今晩だけここで野宿をしようと思っています」

 おれがそう告げると、男はおれを下から上へ訝しそうに眺めた。

 男の目は虚ろだった。……酒臭い。

「茶、いるか?」

 男はそれだけ言って、ボウズイへ戻って行った。……お茶に誘ってくれているのだろうか。慌てて追いかけたところ、おれは無事にお茶を頂くことができ、男とも仲良くなることができた。

「日本人、この時期この辺りじゃあ、バカでかくて毛深いヤクって動物が夜中にやって来るんだ。あんたのあのちっちゃいテントなんて簡単に踏み潰されるぞ。だから今晩はうちのボウズイに泊まっていけ」

 ヤクは、体長3メートルほどもある大きなウシ科の動物だ。標高の高い地域に生息していて、エベレスト登山などでは荷物の運搬役として活躍している、非常に強靭で逞しいやつらだ。男の言う通り、おれのテントなんて群れが通過すれば踏み荒らされてしまうだろうし、もしその時にテントの中におれがいたらひとたまりもないだろう。

 キルギスのヤクは非常に臆病だという事前情報は得ていたが、それにしても深夜、テントの周りでヤクの集会が始まってしまうような事態は避けたいところだ。

 かくして、おれは男の勧めに従ってありがたくボウズイで寝させてもらうことにした。さらに、男にハンマーを売ってくれないかと交渉したところ、500円ほどで譲ってもらえることになった。

 町では100円程度でハンマーが売られていることを考えるとかなり割高だ。しかし、この辺りには電気も水道もなく最寄りの村からは何十キロも離れているような場所だったので、おれに譲った分を補充するのも一苦労だろう。これでも十分妥当な値段だと言えるかもしれない。

 そして、ボウズイ内に敷かれた何重にも重なっている布団に潜り込んで就寝。季節は夏だが、この辺りは標高が高く非常に寒かった。体感では3℃くらいだろうか。この日、8時間ほどセキルに跨っていて体力的にかなり疲れていたおれは、布団に入ると同時に吸い込まれるように眠りに落ちていった。

(第5回につづく)