みなさんはじめまして。神話学者の沖田瑞穂です。

 と、自己紹介したところで、さて、「神話学」って何?と疑問に思われることでしょう。日本で「神話学者」を名乗っている研究者は、おそらく数人しかいませんから、あまりメジャーな分野ではありません。そこで、「神話学」とは、一体どういう学問なのか。これをお話しておく必要があると思います。

 まず神話は、文献に記されている文献神話と、文字化されず口承のみで伝えられている口承神話がある、というのが大きな分類です。これら両方の神話に関して、それぞれ神話学以外からの伝統的な研究方法があります。

 文献神話については、「文献学」があります。文献学は、文字通り文献を読み、注釈を書いたり、同じ文献の中の古い要素と新しい要素をふるいにかけたりします。

 口承神話については、「文化人類学」があります。文化人類学は、主に現地に赴いて、世界の様々な地域の人々の生活と文化を観察し、分析し、報告します。

 さて、では、神話学は、何をしているのでしょう?

 実はこれは、難しい問題です。神話学、という学問は、確立しきっていないところがあるからです。

 そこで、「神話学者」である私自身が何をしているのか、それをお話することで「神話学」の一端をご紹介することにします。

 

 まずは私の考えでは、神話学とは「解釈」するものだと思います。その神話が何を語っているか、考えるのです。答えは人それぞれあると思います。論理が通っているならば、それでいいと思うのです。ある神話への一つの解釈が、他の解釈を排除することはない、複数の解釈がありうる。神話学とはそういうものなのです。多面体にそれぞれ異なった方向から光を当てる、すると様々な顔が浮かび上がる。そのような感じ。

 大学院生の時に参加した学会で、このようなことがありました。インド神話に関して欧米の研究者による解釈を踏まえて、さらに自分の解釈を発表したのです。すると、文献学の先生から、「解釈していないで原文をきちんと読みなさい」と、お叱りを受けました。もちろん私は原文のサンスクリット語を読んだ上で発表したのですが、解釈を中心とした研究は、文献学からみると、十分に文献を読んでいない、と判断されたのです。後日談ですが、この件を師匠に報告したところ、師匠はあっさりと「解釈しなくて何をするのかね」とおっしゃいました。文献学は「読む」ことに注力する、神話学は「解釈」に注力する、そういう違いがあるのです。

 私の神話学の始まりは、インド神話を通じて、インド・ヨーロッパ語族に遡る古い神話要素を導き出したい、ということにありました。(いにしえ)に遡る「神話学」。大きな課題です。おそらく、生涯の課題となるでしょう。私の師匠は吉田敦彦(よしだあつひこ)先生(1934年―、フランスの最新の比較神話学を日本に持ち帰り、日本と世界の神話を分析し神話学を大きく前進させている)、その師匠はフランスの大学者、ジョルジュ・デュメジル(1898―1986年。神話学者・言語学者。主著『神々の構造』〔松村一男訳、国文社、1987年〕)。インド・ヨーロッパ語族の比較神話学を確立した人です。

 同時に私は、インド神話と世界の神話を通じて、新しい神話ということも考えたい。この試みの一端が、3回目以降お話する予定の、現代インド映画の『バーフバリ』です。

 現代は、神話の死んだ世界だと思われるかもしれません。しかし実はそうではなく、私たちは古代から変わらず、神話を生きている。ただ、形を変えて。その「形」を見つけていきたい、と思うのです。

 過去でも現在でも、そして洋の東西を問わず、神話には似たものが多くみつかります。その理由は実にさまざまで、伝播、すなわち一方から他方に伝わった、ということで説明できるものが多いと思っていますが(私はかなりの割合で伝播論者です)、人間の共通の心理に由来するもの、人類がアフリカから出てきたときから携えていた共通の神話に由来するものなど、古くも新しくも様々な説があります。この「神話の類似」の謎を解き明かすのも、神話学の醍醐味です。

 さて、「現代の神話」ということについて考えてみると、それは「ゲーム」の形でも表われているのではないか、ということを最近考えはじめています。みなさんがスマホなどで楽しむ、あのゲームです。ゲームには神々や英雄が多く出てくるものがあります。これは、神話の一部を切り取り、地域も時代も無秩序に構成しなおしたものですが、それでも古代の神々や英雄たちが古い神話要素を現代にも引っ張ってきてくれている。それが「ゲームの神話」だと思うのです。

 ここでは一例として、私もプレイしている「FGO」(Fate/Grand Order、TYPE-MOONによるスマートフォン専用ロールプレイングゲーム。日本発売2015年)を考えていきましょう。このゲームはたいへんな社会的影響力のあるゲームです。それを証明するのが、「岡田以蔵事件」(沖田命名)です。2018年6月に期間限定イベントのキャラクターとして登場した幕末の人斬り、岡田以蔵。実装されるや、爆発的な人気となり、岡田以蔵について記された学術書『正伝 岡田以蔵』(松岡司著、戎光祥出版、2014年)はまたたくまに売り切れ、ただちに増刷されて、2018年10月現在、5刷までいったといいます。繰り返しになりますが、固い学術書が、ゲームの影響で大増刷、書店だけでなく「アニメイト」にも置かれたという、非常に興味深い現象です。

 さて、そのFGOは、世界滅亡の危機を救うため、過去のある地点に遡ってそこで行われる聖杯(せいはい)戦争に参入し聖杯を入手する、というのが主な筋書きです。このストーリーの中に、過去の様々な神話の英雄や、歴史上の人物、時には神々が登場します。

 このように、このゲームの中心となるテーマは「聖杯戦争」であって、まずここに神話の要素を見出すことができます。

 「聖杯」とは、キリスト教において最後の晩餐(ばんさん)の時にイエスが用いた杯で、(はりつけ)になった時のイエスの血を受けたものとされています。この聖杯が伝承ではブリテンに運ばれ、「アーサー王伝説」に現れるようになります。たとえば円卓の騎士パーシヴァルが聖杯の城で漁夫王(脚に槍を受けて歩くことができず魚釣りを楽しみに生きるようになったためこのように呼ばれる)の歓待を受けている時に、血の流れる槍と、聖杯(グレイル)と、銀の皿を見る、という次のような場面があります。

 漁夫王が晩餐のもてなしをしている時、若者が白い槍を捧げて入ってきた。槍の穂先からは血が滴っていた。パーシヴァルはその槍が何か知りたかったが、質問することを何かが拒んでいるようで、尋ねることができなかった。その槍はキリストが十字架にかけられた時、ローマ軍の兵士がキリストのわき腹を突くと「たちまち血と水が吹き出した」という「聖なる槍」であった。

 「聖なる槍」が入ってくると、そのあとからローソクを持った者が従い、その後に両手に「聖杯」を捧げた若者が入ってきた。「聖杯」は黄金で宝石がはめ込まれ、まぶしいその輝きは、ローソクの光を、まるで太陽の下の星のようにかすませた(井村君江『アーサー王ロマンス』ちくま文庫、1992年、205-206頁を参照した)。

 このようなアーサー王伝説にでてくる「聖杯」の観念は、ケルト神話に遡ると言われています。ダグダという力持ちで食いしん坊の神が、「無尽蔵に中身が出てくる大釜」という宝物を持っているのですが、これが聖杯のもとになったともいいます。

 聖杯探求の物語は現代にも継承されていて、たとえば映画のハリソン・フォード主演の人気作品『インディ・ジョーンズ 最後の聖戦』(スティーヴン・スピルバーグ監督、1989年)にも聖杯が出てきますし、小説で、映画化もされた『ダ・ヴィンチ・コード』(原作ダン・ブラウン、2003年。映画化2006年)も、聖杯探求の物語で、聖杯に対する独自の解釈が話題となりました。

 このような、神話から続く聖杯探求の物語の中に、FGOというゲームも位置づけることができるでしょう。ゲーム中にアーサー王物語の騎士たちが多く登場するのも、偶然ではないのです。

人間や動物が描かれた銀の大釜。デンマーク国立美術館所蔵。Creative Commons Attribution 2.0 Generic

第2回につづく