前回は、能楽とサイエンス・フィクション(SF)に共通する「世界そのものとの共話」というテーマについて書いた。奇しくも、両者ともに死者が介在している。今回は死者とのコミュニケーションというテーマについて考えていきたい。
 『定家』は、式子内親王(しきしないしんのう)の霊と旅の僧が邂逅する話だが、そもそも夢幻能にはよく死者の亡霊がシテとして登場する。亡霊は生前に解消できなかった執着心が結晶化したような存在であり、再びこの世に現出するための媒介としてワキがその話に耳を傾け、共話を通して世界の背景に融けていく。鑑賞者は、生き続けるワキと同じ視点に立って、亡霊の成仏に立ち会うわけだが、それはまるで死者の旅立ちを見送るような体験である。
 ケン・リュウの『紙の動物園』では動物の紙人形と亡母の記憶が、『もののあはれ』では主人公の死の現前と亡父の記憶が重なり合う。この二つの作品に共通するのは、死者の存在が追憶というかたちで生者の中で生きている、という点だ。
 ここまでは、過去の死者が現在の生者に向き合うという、線形な時間の流れが保たれている例であり、わたしたちは難なくそこに自らの生を重ね合わせることができる。しかし、テッド・チャンの『あなたの人生の物語』では、未来において親に先立って亡くなるはずの子どもの記憶が主題となっていて、時間の流れは円環的なものになっている。この視点の特異さは、未来の子どもの死を予め分かっている母親が、それでもその子の誕生を決意するという点にある。その死が決定している子どもはまだ生まれていないのにもかかわらず、物語を読み終わる時点で読者であるわたしたちはその死を悼む立場に置かれるのだ。しかし、ここでは同時に、これから子どもを生む主人公に対する(よろこ)びの感情も生起する。なぜなら、物語の終わりに子どもの死が予定されているという事実が明かされるまでは、読者は主人公が子どもと過ごすであろう幸福な時間を追憶する様子を共有しているからだ。この点は読者によって感じ方の個人差があるだろう。しかし、わたしは、たとえサイエンス・フィクションの特殊な設定であるとはいえ、このクライマックスでの母親の選択に対して、一人の親として深い共感と、祝福の念を覚えた。違う書き方をすれば、そこには祝意と弔意という、普通は相反する祈りの感情が混交している。それはわたし自身の子どもの誕生の際に、自らの死の予祝をも覚えたという奇妙なねじれにも通底している。

 子どもの誕生をきっかけに、自分の死を以前ほど怖れなくなったという人の話をよく見たり聞いたりするようになった。わたしも子どもが生まれてから、その感情を共有するようになった。だが、だからといっていつ死んでも良いということでは当然ない。少なくとも子どもが自立するまでは、彼女の安全な生活と健やかな成長を物理的に支えなければ、死ぬことはできない。そのように強く思うわけだが、そうだとしても、たとえ治安が比較的良い日本社会に生活しているとはいえ、いつ、どのような理由で生命を絶たれることになるか、誰にもわからない。だから、子育てに一番手がかかる最初の3年ほどが過ぎて少し物事を考える余裕が出てきた頃に、自分の不慮の死に備えて、遺言を書いておこうと漠然と考えるようになった。
 ここでいう遺言とは、財産分与に関する法的なものではなく、子どもに宛てた個人的なメッセージという程度のものである。それでも、子どもと忙しい生活を過ごす中では、遺言を書こうという気はなかなか起こりづらい。読者にも想像に難くないと思うが、自分の突然の死を前提にして文章を(したた)めるというのは、かなり気が重い作業である。ここ数年は確かに少し過労気味ではあるが、特段重い持病があるわけでもなく、まあ、まだ大丈夫だろう。このように自分に言い訳をしながら、先延ばしにしてきたのだが、先日、長年の仲間と進めている、ある新しいプロジェクトの一環として遺言をテーマにして考えてみよう、ということになり、ならば率先して書いてみないといけないと、重い腰を上げてなかば強制的にフリースタイルで書いてみた。この時に、自分だけではなく、多くの人にとって書き出しやすい遺言のフォーマットを考えて、自分自身の執筆に課してみた。

・自分のそれまでの人生についての漠然としたひとり語りは書かない。

・生前にお世話になった一人ひとりに書いていくのではなく、誰か一人に宛てたメッセージにすること。

・執筆の時間制限を設けること。たとえば10分以内など。

・その遺言の有効期限は1年程度だと想定して、来年になったらまた新しいバージョンを書くくらいのつもりで、決定版を書こうとは思わないこと。

 ひとまずこのようにできるだけ気軽に書ける設定で、9月半ばの平日の夕方に、自宅の書斎の机に座って、あまり深く考えずに10分間で娘宛てに遺言を書き出してみた。その原文はここでは開示できない。あまりにも個人的なものだし、数年後にこの原稿が子どもに読まれたとしたら、意味が薄れてしまうように思えるからだ。それでも、初めて遺言を書いてみた個人的な経験について、その結果をできるだけ共有してみたい。
 まず、執筆にかかった時間は全体で9分30秒ほどだが、最初の2分程は「なぜ今遺言を書くのか」という説明に使っているので、直接娘に宛てて書いた部分は7分ほどだった。文字数をカウントしたら、367字だった。意外と長く書かなった理由としては、もちろん実験的に書き出してみた、ということもある。しかし、いざ書き出してみたら、あまり長く、説明的なことは書けなかった、ということがあった。実際、書いている途中で、色々な感情が襲いかかってきて、途中で何度かタイピングが詰まってしまったのだ。また、文体についても、「今、自分が急死した場合」を想定し、いつか成長してから読まれるものとしてではなく、6歳半の現在の彼女でも理解できるような書き方を選んだことも手伝っているだろう。自然と、直接語りかけるようなフレーズをつないで、抽象的な言葉は少なく、日常の延長にあるような文章ができた。
 プロジェクトを進めている仲間にもまた、小さい子どもがいる。そこでわたしの書いた遺言を送り、彼にも自分の子どもに向けて書いた遺言を送ってもらった。ちなみに、彼は10年以上、たびたび人生の重要な局面を共にしてきた畏友であり、互いに個人的な遺言を共有する程には信頼しあう間柄であることも記しておく。その彼が送ってくれた遺言は約20分ほどで書かれていて、分量としてはわたしの書いたものの3倍ほどはあった。わたしの書いた文章とは異なり、子どもが成長してからじっくりと読むことを想定したスタイルで、丁寧に親としての子への祈りが綴られていた。その子はまだ4歳になったばかりの男の子で、わたしの娘ほどは難しい言葉がわからない年齢であるということもあったのかもしれない。いずれにせよ、彼のこの遺言を読ませてもらうことで、親として子に向きあう姿勢について少なからぬことを学んだように思う。次回また子ども宛てに遺言を認める時には、もう少し長く書くことになるかもしれない。
 今回はわたし自身と親友の、二つの遺言を見たに過ぎない。なので、現時点では一般化できることではないが、何気なく書かれた二つの文章に共通しているのは、子どもの未来に対する祈りと言祝(ことほ)ぎが、その結語に記されているという点だ。また、これも人によっては差が生じるだろうとも思うが、二つの文章とも正の感情が支配的であるように感じられた。
 そこで自身の参考までに、機械学習による自然言語解析エンジンの感情分析をかけてみた。これは、任意の文章を解析器に与えると、文章の構造解析を行い、感情価、つまりどれほどの感情を喚起するものなのかということを確率論的に計算するものだ。当然、読む人の主観的な解釈によって喚起される感情は異なるため、これは真偽の問題ではなく、統計的な傾向を示すものに過ぎない。しかし、逆にいえば、個人的なバイアスを排して、一定の客観性に根付いた検証を行う上では有効に使えるものでもある。
 試しに計算を行なってみたところ、わたしと彼の遺言はともに感情の正負を示すスコアが+0.5(最大値は±1)と、大きく正の方に振れていた。メールやチャットなどの、様式が異なるが同じ長さの文章と比較しても、かなりポジティブな感情を喚起する語彙が多いことがわかった。また、感情の振幅の大きさを示す値(文章の長さによって加算されていくもの)もわたしのものが7.7、彼のものが19.1と、かなり大きいものだった。これは遺言という文書の性質上、当然の結果だといえるかもしれないが、人が自分の死後にも存在し続ける世界に向けて連ねる言葉を考えていく上で、ひとつの手がかりになりそうだ。

 この原稿を週末の自宅で書いている合間に、買い物ついでに近所にある大きな公園を散歩した。秋の夕方の淡い陽光の中、視界のひらけた広場で多数の親子が追いかけっこをしたり、バドミントンやサッカーに興じていた。少し離れたベンチからその親たちをぼうっと見ながら、「この人たちならば、どのような遺言を書くんだろうか」という思いにしばし耽っていた。その時、もしかしたら、親が子と向き合って過ごしている刹那ごとに見せる表情や言葉の記憶が、非言語的な「遺言」を形成しているのかもしれないと思った。そうであれば、わざわざ文章という形にして遺言を書く、ということはひどく人工的な営みなのかもしれない。もしかしたら、それは書き手の自己陶酔であって、固定化された文章を遺された側にしてはある種の呪縛になるのかもしれない、という想いさえも頭のなかをよぎる。そんな文章を一人で書いている時間があれば、その分子どもと過ごす時間を増やせばいいのではないか、という叱責の声も想像できる。
 それでも、とわたしは思う。それでもわたしたちは、相手に届けられることなく儚く消え去っていく想いを書き止めておくことができる。それは、相手には届くかどうかはわからないという意味において、「祈ること」と似ている。人が祈る時の内なる声は、他者には聞こえないが、遺言もまた、自身が死ぬ時までは人に読まれない。だから、人が遺言に死後の祈りを託す時、世界そのもの――人によっては神や仏といったイメージかもしれない――にメッセージを投げかける。それは誰に請われたわけでもなく、誰かに受け止められることを自分で確かめることもできない、自律的な発話行為だ。そして、それは自分の死後という、自らが一切関与できなくなった世界において、相手が生きるであろう自律的なプロセスに向けて抱く希望の表明である。それと同時に、自らの死がその想像不能な未来が開始する特異点となることを予め祝う行為でもあるのだ。
 子どもができてからは、わたしも自らの死を以前ほど怖れなくなった。自分の死を想像すると、これほどまでに慈しんでいる子どもの成長に立ち会えなくなるという残念の思いはあるが、それと同時に決して自分が見ることのできない未来が彼女にあるという事実に対しての、尽きることのない好奇心も感じる。その意味では、今回書いてみた子どもに向けた遺言とは、彼女と交わすことのできる最後の会話の起点なのかもしれない。その会話は、生者が世界の背景に融け込んだ死者と交わし合う共話を成すだろう。死者の祈りが生者に継承され、その連鎖がまた別の命にリレーされていく。

 公園を出て、スーパーに向かう途中にある寺の境内を通り過ぎると、本堂のなかで仏僧と共に読経する人々の声が聞こえてきた。気がついたら無神論者のわたしも、誘われるように中に入り、合掌しながら祈りを捧げていた。

(17回目につづく)