前回は、ゲームの中に出てくる神話の要素についてお話しました。今回は、逆の視点で、「神話の中のゲーム」について考えてみたいと思います。神話にも、ゲームが出てきて、重要かつ壮大な意味を担っています。神話におけるゲームとは、すなわち盤上遊戯(ばんじょうゆうぎ)の話です。まずは、中国の碁についての神話を紹介します。

「生死を司る星」

 ある少年が麦刈りをしていると、管輅(かんろ)という物知りの男に、「おまえの寿命はせいぜい二十まで。たぶん、その前に尽きてしまうだろう」と教えられた。少年は急いで家に帰り、父親にそのことを告げた。
 父親は馬をとばして管輅のあとを追い、すぐに追いついた。親子は馬を下り、丁寧にお辞儀をして、息子の延命を懇願した。管輅は酒と鹿の乾し肉を用意して待つようにと言い、明日の昼頃に戻ると言い残して去って行った。
 約束通り昼どきになると管輅がやってきて、少年にこう言った。「昨日麦を刈っていたところの南の方に、大きな桑の木がある。そこで二人の男が碁を打っているはずだ。お前は黙ってその酒と乾し肉をもって側に行き、酒をついだり肉を差し出したりと、お給仕をしなさい。もしなにか訊ねられてもただ頭を下げるだけにしておきなさい。そして、決して口をきいてはならない」。
 少年が管輅の言うとおりに出かけてゆくと、確かに二人の男が碁を打っていた。側に行って一生懸命にお給仕をした。二人は碁に夢中で、飲んだり肉を摘んだりしながら、見向きもしない。やがて碁を打ち終わると、北側に座っていた人が、ふと顔を上げて見て、見知らぬ少年が側にいるのに気づき、「どうしてこんなところにおるのだ」と少年をしかりつけた。
 少年はただ頭を下げるだけで、何も答えなかった。すると、南側に座っている人が北側の人にとりなして、少年にご馳走になったのだからと言いながら、北側の人から「台帳」を受け取った。そこには、「(ちょう)の子、寿命十九前後」と書かれてあった。南側の人は、その十と九の間に上下を逆さまにするS字状の記号を入れた。
 少年は二人から「お前の寿命を延ばし九十まで生かしてやるよ」と言われて、なんども頭を下げてお礼を言い、急いで家に帰り、待っていた管輅に報告した。
 管輅が言うには、北側に座っていた人が北斗星で、南側に座っていた人が南斗星である。南斗は人間の生を扱う星で、北斗は人間の死を扱う星だ。そもそも人間がこの世に生まれるのはみな南斗が北斗のところに言って頼むのだ。なにか願いごとがあればみな北斗星に対してお願いするのだ、ということだった。(伊藤清司『中国の神話・伝説』東方書店、1996年、56-60頁を参照した)

 この話に出てくる碁は、さまざまな意味をもっています。
 中国人の世界観では、世界は整然と方眼状に区画されていて、碁盤にたとえられます。ちょうど長安のような中国の都は、碁盤状に作られていますね。それを模倣して作られたわが国の京都も、方眼状に区画されています。
 そのように「世界」そのものを表す碁盤の上で、碁石を打っていくわけですが、その黒と白の碁石は、陰と陽の気を表します。中国の思想では、世界は互いに対立し補完する関係にある陰と陽の気によって構成されています。月が陰、太陽が陽、女性が陰、男性が陽、大地が陰、天が陽、という具合に。そのように陰と陽を表す碁石を展開していく碁の営みは、天体の運行を表すと共に、地上における人間の営みを表現しています。
 北斗星と南斗星は、世界を動かすという意味で碁をしていたのです。
 さて、そこに少年がやって来て、お給仕をしたわけですが、このとき一つ、「禁止」が課せられていました。「決して口をきいてはならない」という禁止です。これは何を意味しているのでしょうか。北斗星と南斗星は、世界を動かす「聖なる」営みの最中です。一方少年は、俗世界に属する存在です。その場で少年が口をきくことは、聖の中に俗をもちこむことになるのです。世界の運行を汚すことになってしまいます。それゆえに「口をきいてはならない」のです。少年はそれを守ることができました。だから、寿命を延ばしてもらえたのです。

日光東照宮陽明門、碁を打つ老人の彫刻。筆者撮影
 

 インドにも盤上遊戯の話があります。骰子(さいころ)賭博です。『マハーバーラタ』のユディシュティラ王がこれを好んで行いますが、そのために王国を追放されることになりました。このような話です。

「ユディシュティラの骰子賭博」

 ユディシュティラは、彼に対抗心を燃やす従兄弟のドゥルヨーダナの叔父シャクニと骰子賭博を行い、シャクニのいかさまによって負け続け、全財産と四人の弟を失い、最後に妻ドラウパディーを賭け、彼女をも失ってしまった。この時ドラウパディーは、生理のために人目に触れることを避け、一枚の布のみを身にまとって部屋にこもっていたのだが、ドゥルヨーダナの弟ドゥフシャーサナに髪を引きずられて皆の居並ぶ大広間へ連れて行かれた。ドゥルヨーダナたちは彼女を奴隷女と呼び、衆目の面前で彼女が身に(まと)うたった一枚の布を剥ぎ取ろうとさえした。結局、ドリタラーシュトラ王の仲裁によってその賭けは無効になるのだが、その後に行なわれた二度目の賭博において、再びユディシュティラは負け、弟たちと妻と共に十三年間国を追放され、森を放浪することになった。この事件が、『マハーバーラタ』の主題であるクルクシェートラの大戦争の原因となった。

 中国の碁が宇宙の営みを表していたように、インドの骰子賭博も、宇宙の運行を表しています。インドには四つの「ユガ」と呼ばれる長大な時代があり、四つのユガのそれぞれの名称は、骰子賭博の目を表しています。最初の時代クリタ・ユガのクリタは、四つの良い特徴を備えた最高の(さい)の目、次の時代トレータはそのうち一つ欠けた賽の目、三つ目の時代ドゥヴァーパラは二つの特徴を備え、最後のカリは一つのみの特徴を備えた賽の目を、それぞれ表しているのです。
 ユガは、クリタ・ユガからはじまりカリ・ユガに至って終わりを迎えますが、それでおしまい、ではなく、カリ・ユガの最後に世界が破壊された後、また創造されて、新しいクリタ・ユガが始まります。円を描くようにぐるぐると巡る、円環的世界観なのです。その世界の循環がまさに骰子賭博の展開にたとえられているわけです。

 このように中国やインドの神話の盤上遊戯において、ゲームの進行が世界の運行を意味しているのです。これは、現代のゲーム、とくにRPGにおいて、「神の視点」を持つプレーヤーが、ゲームという仮想世界を運行させていることとよく似ていると言えます。
 この現代のゲーム世界は、もちろん人為的に作り出された虚構です。しかし神話においても、全世界が実は神が作り出した虚構にすぎない、とされています。たとえば次のようなインドの神話があります。

 ナーラダ仙が苦行の果てにヴィシュヌ神の恩寵(おんちょう)を得て、ヴィシュヌに「あなたのマーヤーを示し賜え」と願う。ヴィシュヌは語って聞かせるよりも実際に体験させることが重要と判断し、ナーラダを従え、太陽が照りつける荒漠(こうばく)とした道に出て、喉が渇いたから近くの村から水を汲んでくるように頼む。
 ナーラダは村へ行き、一軒の家で水を請う。家から一人の美しい娘が出てくる。その娘を見つめているうちにナーラダは本来の目的を忘れる。
 時が流れ、ナーラダはその娘を(めと)り、結婚の喜びと生活の苦しみを味わう。十二年の歳月が流れ、ナーラダには三人の子がある。
 ある日洪水が起こり、一夜にして家は水に流される。ナーラダは片方の手で妻を支え、もう一方の手で二人の子を抱え、一番小さな赤ん坊を肩にかつぎ、濁流と戦いながら道を切り開く。しかし彼が足を滑らせたとき、赤ん坊は濁流に落ちる。彼が赤ん坊を探しているうちに、残った二人の子と妻も濁流に呑まれる。ナーラダも流され、岩の上に打ち上げられ、あまりの不運に泣き崩れる。
 その時、聞きなれた声が彼を呼ぶ。「私が頼んだ水はどこにあるのか。私は三十分以上もおまえを待っているのだ」。ナーラダが振り返ると、濁流が渦巻いていた場所には、ただあの荒漠たる地があるのみ。ヴィシュヌは言う。「わたしのマーヤーの秘密を理解したか?」(エリアーデ著、前田耕作訳『イメージとシンボル』せりか書房、1971年、97-98頁を参照した)

 マーヤーとは、不可思議な呪力のことです。語源は「マー」という動詞で、もともと「測量する」という意味です。そこから「測量して作り出す」という意味になります。マーヤーは、世界を「作り出す」力なのです。
 ナーラダはヴィシュヌ神が作り出したマーヤーの中で、結婚して子をもうけて子が成長するが全て一瞬にして洪水に流される、という半生を体験したのです。これは、現実とまったく区別のつかない半生でした。世界とは、実はナーラダが体験したようなマーヤー(幻)であるかもしれないのです。
 ゲーム、とくにRPGでは、自分の投影である主人公を中心に物語が展開されていきます。しかしその世界は全て、人の手によって「作り出された」世界です。このことは、ナーラダ仙がヴィシュヌ神によって「作り出された」世界で半生を体験したことに似ています。
 わたしたちは、ゲームという虚構で遊ぶことで、実は神話のマーヤーの世界を体験しているのかもしれません。この世界は、真実「リアル」なものなのか、それともすべて「幻――マーヤー」なのか。映画の『マトリックス』(1999年)の世界に通じるところもありますね。

(第3回につづく)