小林先生の『本居宣長』は、昭和五十二年(一九七七)の十月三十日に出た。定価は一冊四〇〇〇円……、ということは、今日で言えば八〇〇〇円から九〇〇〇円にもなる本であったが、十一月の初めに早くも増刷が決り、以後続々と増刷し、その年のうちに五〇〇〇〇部、翌年春過ぎには一〇〇〇〇〇部に達した。

 先生は、「本居宣長」を雑誌『新潮』に昭和四十年六月号から連載、十一年余をけみして五十一年十二月号で終了し、ただちに単行本に向けての全面推敲にかかられた。編集担当としての私の手許では、その単行本をどういう本にするかの設計仕事が急務になった。
『新潮』の連載終了時、「本居宣長」の分量は四〇〇字詰原稿用紙でいえばおよそ一五〇〇枚になっていた。これを本にするにあたっては、まず活字の組み方で二通りの考え方があった。九ポイント活字を一段に組む、これが当時の標準的な組み方だったが、この線でいけば「本居宣長」はざっと七五〇ページの本になる。しかしこれでは定価が相当高くなり、思うようには売れない恐れがある。それならとこれを上下の二分冊にする道もあるが、この行き方だと上巻だけが売れて下巻は売れ残るという通常のパターンが懸念された。ならばと持ち出されてくるもうひとつの手は、九ポイントより小さい八ポイントの活字を二段に組むというものだ。これなら一ページに収まる文字数がふえるため総ページ数が減り、「本居宣長」だと五〇〇ページを切ることも可能になる、さて、どうするか……。
 十三年前の昭和三十九年五月、文藝春秋から『考へるヒント』が出てベストセラーとなり、小林秀雄に寄せられる期待と信頼は確実に高まっていたが、今度の「本居宣長」は難解と言われる小林秀雄の文章のうちでもとりわけ難解と見られている大作である、『考へるヒント』と同じには論じられない。本はやはり八ポイント二段組の一冊本とし、すこしでも値段を下げて読者が買いやすいようにする、それしかないというのが大方のイメージだった。
 だが私は、そういう考え方に同調できなかった。先生の文章は密度が高い、小さな活字がぎっしり詰まった本ではたちまち目がくらみ息が続かなくなる。ゆえに「本居宣長」は、大きな活字でゆったり組んで、これなら読めそうだと読者にまず感じてもらう、そこを第一に考えたほうが売行きにつながる、そう思っていた。そのため、少なくとも「九ポイント一段組」は譲れないのだが、なかなか決断できなかった。昭和五十一年が暮れるまで、まだほかに方途があるような気がし続けていた。

 年が明けて、先生の決定稿を印刷所に送る時期が迫った頃、私はこの懸案を、出版界の大先輩であり小林秀雄の読者としても敬意を払っていたG氏に話して意見を求めた。G氏は、言下に、いっそのこと十ポで組めばいいじゃないか、『考へるヒント』は十ポだよ……、そう言った。言われて私に閃くものがあった。九ポより大きい十ポイント活字で組めば、当然総ページ数は増えて九ポ組での値段どころではなくなる。だが、そこが狙い目だ、普通の単行本より先に特装版を造るのである、その特装版の後に普及版を出すのである。G氏はそこまで考えて言ったわけではなかったが、G氏に触発されて私は発想を逆転させた。
 当時は、戦後の出版界が年々右肩上がりを続けていた時期で、どんな本もよく売れたが、出版各社はこの人こそと大事にしている著者のこれぞと言える本を刊行すると、まもなくその本の特装版を造って少部数の限定本として出し、それらの限定本もよく売れていた。逆から言えば、本の特装限定版が出るということは、版元の出版社がその本の中身を高く評価し、自信と誇りをもって出版しているということのメッセージでもあった。私は、「本居宣長」は、特装本を先に出すことで中身の価値と魅力を訴えようと思ったのだ。
 そしてそこには、もうひとつの思惑があった。「本居宣長」は、近代日本の知の領域において小林秀雄が到達した最高峰と言ってよかったが、同時にそれは、早くから文章の職人として腕を磨き続けてきた小林秀雄の文章の至芸、極致、それが「本居宣長」だった。そうであるなら、その知、その芸を盛る本は、近代日本の出版界において最古参の一角を占め、本を造る技術についてありとあらゆる工夫を重ねてきた新潮社のすべてを結集した本こそがふさわしい、そういう思いだった。
 たしかに、これではいっそう高い本になる。だが、一年後には第三次「小林秀雄全集」の新装版を出すことが決っていた、そこには「本居宣長」も入れることになっていた。読者に買ってもらいやすい普及版は、その時そういう形で出せる、「本居宣長」は初版をむしろ値段の高い特装版で出し、小林秀雄のコアの読者にまずしっかり買ってもらう、読んでもらう、そういう方針でいきたい……。編集会議の席上、異論がないではなかったが、幸いにして私の考え方は認められた。製作担当のA先輩は、その端正な刷り上がりで高く評価されていた精興社を本文の印刷所と決め、本文用紙を漉く、表紙の布を織る、染める、外函を組み立てる、そういう手業てわざの名人たちを連携各社に頼んで、見返し、扉、口絵、挿図と、本の隅々に至るまで確保し彼らの足並みを調整してくれた。装幀担当のS女史は、書名の字体、表紙の布、見返しの絵と、宣長にふさわしい景色を次々提案してくれ、校閲担当のN先輩は、『本居宣長全集』と首っ引きで先生の本文を読み、先生に確認したり進言したりする必要があると思われるくだりを何ヵ所も指摘してくれた。

 こうして単行本『本居宣長』は世に出た。当初、四〇〇字詰原稿用紙にしておよそ一五〇〇枚分あった『新潮』の掲載稿は、先生の手で約五〇〇枚分が削られ、最終的には十ポイント活字一段組、菊判六〇九ページ、定価四〇〇〇円の本になった。新聞・雑誌に書評が相次ぎ、編集部に寄せられる投書も夥しい数になっていた頃、筆跡から推して年輩と思われる読者から封書が届いた、十一月の末だった。そこには大要、こう書かれていた。
 ――私は、本居宣長が多くの若者を死なせたと、第二次世界大戦の終戦直後から宣長を憎みぬいていました。そこへ、永年愛読し、敬慕してきた小林先生が、『新潮』に「本居宣長」を連載され始めました。先生に裏切られた気がして、以後先生の本は手に取ることさえしなくなりました。「本居宣長」が本になったことは知っていましたが、買おうという気はまるでありませんでした。ところが先日、近くの本屋で『本居宣長』を見かけ、思わず識らず買っていました。そして、気がついたら最後まで読んでいました。大きな誤解でした、悪いのは宣長ではなく、宣長を戦争に利用した軍人たちでした。無知にして頑迷だった私にこの本を読ませ、目を覚まさせて下さったのはこの本を造られた人たちです。私が本屋でこの本を買ったのは、本の姿に魅せられたとしか言いようがありません、最後まで読み通したのは、活字の表情に引き込まれたとしか言いようがありません。編集部をはじめ印刷所、製本所ほか、この本を造って下さった皆さんにどうかよろしく……。そう書かれていた。

 本居宣長が、多くの若者を死なせたとは、こういうことだ。
 宣長の歌に、次の一首がある、――しき嶋の やまとごころを 人とはば 朝日ににほふ 山ざくら花……。この歌は、宣長が還暦六十一歳の年、自画像を描いてそこに添えたもので、「やまとごころ」とは、日本人が日本人らしく日々を生きるについての知恵や能力を言った平安時代の言葉であったが、宣長が生きた江戸時代にはすっかり忘れ去られてしまっていた。それを宣長は、古歌の中から掘り出して人々に語った、しかしわかってもらえない、そこで歌を詠んだ、「やまとごころ」とはどういうものかと問われるなら、私はこう答える、朝日に照り映える山桜のように美しい心だ、つややかな心だ……、そういう歌である。
 ところが、第二次世界大戦中、この歌は「愛国百人一首」に採られ、意識してか無知によってか日本の軍部はこれを曲解して利用した。まず「やまとごころ」を、近世になって生じた別の語意によって「勇猛にして潔い日本民族固有の精神」と説明し、その潔さはぱっと咲いてぱっと散る山桜にも譬えられると宣長先生は言っている、ゆえにわれら日本男児は、御国のために、天皇陛下のために潔く散るのだと若い兵士に吹き込んだ。そしてあの「神風特攻隊」の部隊名も、「敷島」「大和」「朝日」「山桜」と名づけられ、宣長は散華、すなわち戦死を称揚する思想家とされた。

 この軍部の曲解、国民の誤解を、小林先生は「本居宣長」のなかで正そうとはしていない、言及さえしていない。「しき嶋の……」の歌はどういう経緯で詠まれ、宣長の人生と学問のなかでどういう位置を占めているか、そこを書いているだけである。だがこれを読めば、宣長の歌が「勇猛」とも「散華」ともまったく関わりのないことは容易に読み取れる。封書を送ってきた読者は、戦地へ行って還ってきた人なのであろう。小林先生によって真の宣長と初めて出会うとともに、先生が「本居宣長」を書き始めてからの十二年半、先生に対して閉ざしていた心をひらくことができたのである。
 十二月、私は先生の応接間で、その後の売行き状況を報告するとともに、宣長を誤解させられていた読者のことを伝えた。先生は、「そうか……」と、短く言われただけで黙された。ふだんから昼間は寡黙な先生だったが、あの日の沈黙はいつも以上に長かった。

(第五十回 了)

★小林秀雄の編集担当者・池田雅延氏による、
   小林秀雄をよりよく知る講座

小林秀雄と人生を読む夕べ【その9】
学問のよろこび:
「人間の建設」

11/15(木)18:50~20:30
la kagu 2F レクチャースペースsoko

 日本の近代批評の創始者・確立者として大きな足跡を残した小林秀雄は、深い思索と気風(きっぷ)のよい文章で、人生の教師としても仰がれ慕われました。その小林秀雄の主要な作品を順次取り上げ、小林秀雄とともに人生を読み味わっていく集いです。

 2014年10月から始まったこの集いは、<天才たちの劇><文学を読むI><美を求めて><文学を読むII><歴史と文学><文学を読むIII><美を求める心><文学を読むIV>と6作品ずつ読んできて、今年の10月から始まった第9シリーズは<学問のよろこび>です。このシリーズは全3回の講義となります。

*日程と取上げる作品
( )内は、発表年月/当時の秀雄の年齢/新潮社刊「小林秀雄全作品」の所収巻

第2回 11月15日 人間の建設 (昭和40年10月/63歳/第25集)

「人間の建設」は、世界的数学者・岡潔氏との対話録です。岡氏が「毎日新聞」に連載した「春宵十話」を読んだ小林氏は、「数学を学ぶ喜びを食べて生きている」人の境地に感銘を受けたと絶讃しました。そして昭和40年8月16日、京都で初めて会った2人はたちまち意気投合、小林氏が「いまは学問が好きになるような教育をしていませんね。学問が好きという意味が全然わかっていないのじゃないかな」と切り出せば、岡氏は「学問を好むという意味が、いまの小中高等学校の先生方にわからないのですね。人は極端になにかをやれば、必ず好きになるという性質をもっています。好きにならぬのがむしろ不思議です」と応じて深夜の12時まで、個性について、知性について、情緒について、縦横無尽に叡智の盃を交わしあいました。そして単行本となるや、これもベストセラーになったのです。

第3回 12月20日 信ずることと知ること (昭和50年3月/72歳/第26集)

昭和30年代のはじめから、夏に九州で国民文化研究会の主催による学生青年合宿教室がひらかれていました。小林氏はそこへ、36年に初めて招かれて以来、都合5回にわたって出かけ、全国から集まった数百人の若者たちに語りかけました。「信ずることと知ること」は、49年、鹿児島県霧島での第19回教室で行った講演が基になっています。現代人は、超能力や超自然的といわれる出来事について聞かされると、嘲笑するか無視するか、いずれにしても真面目に向きあおうとしない、そういう態度はいけないと言い、小林氏が終生敬愛したフランスの哲学者ベルクソンの講演「生きている人のまぼろしと心霊研究」や、民俗学者・柳田國男の「故郷七十年」「山の人生」を引いて、私たちはこういう現象にどう向きあうべきかを語りました。

☆いずれも第3木曜日、時間は午後6時50分~8時30分を予定していますが、やむを得ぬ事情で変更する可能性があることをご了承ください。

※購入されたチケットは理由の如何を問わず、取替・変更・キャンセルはできません。ご了承ください。

※開場は開演の20分前です。

小林秀雄の辞書
12/6(木)18:30~20:30
新潮講座神楽坂教室



  小林秀雄氏は、日々、身の周りに現れる言葉や事柄に鋭く反応し、そこから生きることの意味や味わいをいくつも汲み上げました。1月から始まったこの講座では、私たちの身近な言葉を順次取上げ、小林氏はそれらを私たちとはどんなにちがった意味合で使っているか、ということは、国語辞典に書いてある語義とはどんなにちがった意味合で使っているかを見ていきます。
 講座は各回、池田講師が2語ずつ取上げ、それらの言葉について、小林氏はどう言い、どう使っているかをまずお話しします。次いでその2語が出ている小林氏の文章を抜粋し、出席者全員で声に出して読みます。そうすることで、ふだん私たちはどんなに言葉を軽々しく扱っているか、ごくごく普通と思われる言葉にも、どんなに奥深い人生の真理が宿っているか、そこを教えられて背筋が伸びます。
 私たちが生きていくうえで大切な言葉たちです、ぜひおいでになって下さい。

12月6日(木)歴史/ 伝統

参考図書として、新潮新書『人生の鍛錬~小林秀雄の言葉』、新潮文庫『学生との対話を各自ご用意下さい。

 今後も、知恵、知識、哲学、無私、不安、反省、言葉、言霊、思想、古典、自由、宗教、信仰、詩、歌……と取上げていきますので、お楽しみに。御期待下さい。