「官」の切り下げか、「民」の切り上げか

 みずからが創刊した新聞『時事新報』の執筆者として、また官学に圧倒されつつある私学・慶應義塾の経営者として、福澤諭吉は日本社会の〈宿痾しゅくあ〉である「官尊民卑かんそんみんぴ」と正面から対決することを余儀なくされた。

福澤諭吉 国立国会図書館
 

 すでに述べたように、「官」が不当に高められ、その一方で「民」が不当に貶められている場合、ふたつの対策がある。ひとつが「官」の評価を適切なレベルにまで切り下げることであり、もうひとつが「民」の評価を適切なレベルまで切り上げることである。第一回帝国議会の開会を目前に控えた1890(明治23)年9月、論説「尚商立国論」のなかで福澤は次のように述べた。
 「元来尊卑とは相対の語にして、低きものを高くするも、高きものを低くするも、其成跡は同様なる可ければ、従前の如く官途人が独り社会の高処に居て人民の自から奮て高きに登らんことを俟つよりも、先づ自家の容体を平易にして人民に近づくの工風専一なる可し」(「尚商立国論」『時事新報』8月30日)
 これが尊い、あれが卑しいというのはあくまで相対的なので、低いものを高くしても、高いものを低くしても、結果は同じである。一般人が努力して官吏のいる高い場所に登ってくるのを待つより、まず官吏のほうから一般人に近づく努力をしたほうがよい。
 要するに、「官」は偉そうにせず腰を低くせよ、ということである。爵位勲章を廃止せよ、または使用を制限せよといった主張、「書記官」の職名は偉そうなので民間会社のようにただの「書記」にするか、「支配人」「手代」にせよ、尊大な公文書の体裁を改めよといった主張が、その具体例としてあげられる。在野論客と積極的に交流せよ、官吏が民間人と接する時は官吏の側から気を使え、などというものもある。一見するとバカバカしいようだが、「官」がすすんで〈低姿勢〉になることで「民」との距離を縮め、「民」の萎縮を取り除く提言だった。まさに「官民調和」を実現するための「官尊民卑」是正策といえる。
 この手の官庁主導の是正策は、現実に行われてもいた。1888(明治21)年11月16日、それまで奏任官以上にしか許されていなかった役所への車馬乗り入れが内閣訓令によって各官庁の勝手次第となった。福澤の『時事新報』をはじめ『東京朝日新聞』『読売新聞』などが、これを「官尊民卑」解消の第一歩として歓迎する社説や記事を掲載した(11月17日。ただし『時事新報』はいかにも福澤らしく人民が調子に乗らないよう釘を刺している)。

明治時代の官吏の序列
 

「多情の老婆」との戦い

 だが、これは福澤にとって望ましい「官尊民卑」克服のあり方ともいえなかった。「本来我輩の宿論は何事にても政府に向て求るを屑とせず、人民の地位、低きを憂へなば、自重自強して徐々に地位を作る可し」と述べているとおり、「民」が自発的に力をつけ、やがては「官」と拮抗しうる地位を確立することがその本来の理想だった(「少壮生の始末を如何せん」『時事新報』1890年2月28日)。ただし、福澤はそこに至るまでの道のりは前途遼遠であると考えていた。「民」が勢力を伸ばすことを邪魔している、ある大きな障害物がこの社会に存在していたからである。その障害物とは、宗教、学問、商工業など、本来は 「民」の領域であるべきところに侵入して、ある時はみずから事業を展開し、またある時は執拗な監視・管理・統制を行っている、明治政府それ自体である。
 「民」がみずからの力を伸長するためには、まずそれを妨害している政府を本来の任務である〈政治〉に専念させ、宗教や学問、産業など「民」の領域から撤退させなくてはならない。その上で、「人事各種の社会をして不行届ながらも各其働く所に任じ、既に之に任ずれば又随て至当の敬意を表し、以て人情を安んぜしむる」状況を作る。つまり、宗教のことは宗教界、学問のことは学問界、商工業のことは商工界というように、それぞれの「社会」の働きに任せ、それを尊重するようにする(「秩序紊乱の中に秩序あり」『時事新報』1885年5月18日)。
 勧業、衛生、収税、戸籍、警察などさまざまな業務領域で「民間の人事に手を出して政治の本色外に逸する」明治政府を、福澤は「多情の老婆政府」と呼んだ。心優しい老婆が家族を思うあまり家人の生活のあれこれに介入し、注意し、説教し、指図する。毎日朝夕それを繰り返せば、やがて老婆は家族から総スカンを食らうだろう。明治政府とは、この老婆のようなうっとうしい存在だというのである。
 福澤からすれば、政府が官立学校を作って教育に乗り出すこと自体が、「多情の老婆」の大きなお世話であった。
 「例へば学校教育の如き、無数の生徒を集めて教授の事を行ふは、一国政治の本色に非ず。今日の実際に敢て全く無要のことなれども、行政の政府内に学校の一大門戸を張り、民間の諸学校を圧倒して自から其本山の地位に立たんことを欲するものゝ如し。其証拠には官立学校の生徒には入学中その費用を少なくし、徴兵の法を寛にし(師範学校生徒の如き衣食までも給与するとは実に不思議なる恩典なり)、尚ほ其上にも成学の上は官吏登用の道を開く等、頻りに入学生を招て自家繁昌の方便を運らすと同時に、官辺に縁なき私立学校に対しては、之を冷遇して曾て顧る所なきのみか、前年一時は私立学校の盛大を邪魔者視するの内情を伝聞したることさへあり」
 そもそも、政府が学校教育を直接行う必要はない。それなのに、民間の諸学校を圧倒して学校の総本山にでもなろうとしているのか、官学の学費を安くし、徴兵では猶予などの特典を、文官試験では無試験特権を与え、しきりに繁昌を図っている。その一方で、政府に縁のない私学は冷遇され、邪魔者扱いである。福澤はこう主張している。やはり徴兵令の特典問題は、6年が経過したこの段階でも大きな怨恨となっているようである(「安寧策」『時事新報』1890年7月1〜8日)。
 この官学批判ひいては文部省批判が、民間事業への政府参入を批判する文脈のなかでなされていることは興味深い。これを突き詰めていけば、そもそも政府は学校教育に参入するべきではないのだから、できることなら完全に撤退してもらったほうが望ましい、ということになるからである。この論説が書かれたのは1890(明治23)年であり、すでに帝国大学が設立されて4年が経過していた。つまり福澤は、帝大を頂点とする官学システムが構築されていくなかで、まずは言論でその流れに逆らおうとしていたのである。

官学の長所と短所

 福澤は、明治の初頭から〈官学〉という存在を強く意識していた。1870(明治3)年に書かれた「慶應義塾学校之説」という文書は、「官の学校」と「私立の塾」を比較し、その得失を箇条書きにして示している。明治に入ってからわずか3年で、のちの官学批判につながる要素がかなり出ていることが注目される。
 まず、官学の長所は3つある。
①書籍・器械類、教員の給与に十分な金額を支払うことができる。教員は安心して就業し、貧しい学生も少ない学費で勉強でき、書籍にも不自由しない。
②「官」に昇進・降格などの権限があるので、学校の規則を厳格にし、賞罰を行える。
③官吏になりやすいので、立身出世を図る者はとくに努力する。
 次に、官学の短所は5つある。
①教員のほかに「俗吏」が多いので、冗費が非常に多くなる。この費用を私学に投じれば4倍実用的に使えるはずである。
②政府に近いので、みだりに政治の是非を議論する弊害がある。はなはだしい例としては、権力者に取り入るなどして、学業を忘れてしまうこともある。
③「官」における階級が席次に影響を与える恐れがある。
④学生が自分の学識程度を測らず、すぐ官吏になりたがる弊害がある。
⑤官学は政府と盛衰をともにするので、政府に異変が生じると学校にも異変が生じ、政府が倒れれば学校も倒れる。幕府が設立した開成所は、倒幕後誰からも顧みられなくなった。
 長所の②と短所の③はわかりにくいが、この時期に定められた「大学規則」に「貢進生」についての規程があったことに関係すると思われる。当時は廃藩置県前で、各藩から石高に応じた人数の学生を大学南校(東大の前身のひとつ)に入学させる制度があった。通常の学生ではないので、官職などを持っている場合を想定しての記述かもしれない。
 ここであげられている官学の得失のうち、さらに深められていく論点は、財源の豊かさがもたらす設備の充実と学費の安さ、その反面の冗費の多さ、政府の動向が学校の動向に直結してしまうという問題である。

「学問の独立」と官学民営化構想

 次に、明治10年代初頭の福澤の官学観について見ていく。1877(明治10)年3月10日、東京大学の前身、開成学校の講義室開業を記念する会が開かれた。ゲストとして招かれた西村茂樹と福澤は、校長補の濱尾新、教授の外山正一、総理の加藤弘之らとともに演説に立った(『開成学校講義室発会演説』)。そこで福澤は、私学の身でありながら官学に招かれたことを喜びつつも、開成学校の「盛大なるを祈る」とスピーチすることを見合せる旨、突如として宣言した。
 「この学校の盛大なるを祈ると云はんと欲して、先づ之を見合せ、諭吉は此盛大の字に易るに高尚精密の語を用ひんと欲するなり」。普通、開業式典のスピーチならば「今後の盛大なるご発展をお祈りします」とでもいいそうなものだが、あえてそうせず、「高尚精密なるを祈る」と表現したいという。

開成学校の所在地(神田錦町)に建立された「東京大学発祥の地」の碑
 

 その理由は、開成学校にかかる国費があまりに高いからである。毎年10数万円、生徒300人に割り付ければ、ひとりあたり500〜600円という大金になる。一方、田舎の小学校の生徒は、ひとりにつき1円20銭程度しかかからない。開成学校の生徒には、一般人民の500倍ほどの国費が注ぎ込まれているのである。開成学校が「盛大」になり、生徒数が増えれば増えるほど、財政は困窮する。
 だから「盛大」を祈らないのだ、と述べたあと、福澤は、だが、開成学校の衰微を望んでいるのではない、と続けた。問題は、政府が直接乗り出してこの種の学校を次々と作り、書籍や器械を購入し続けることである。
 善美を尽くした〈モデル校〉を政府が作ることは、賛成である。現在の政府の急務は、「このようにすべし」という方法を人民に示すことにあるからである。ただし、モデルなので「粗にして大」ではなく「小にして高尚」でなければならない。現状に満足するのではなく、法学、工学、農学、医学など百般の学科を集め、各科定員30〜50名の極少人数で「全国最第一の標的」となるモデル教育を実施すれば、いまの費用の半分で何倍もの成果が得られるだろう。余った予算は奨学金や、私学助成に使うこともできる。政府が直接手を下して高等教育を展開することは、限られた財源で無限の発展を企図するようなものである(「明治十年三月十日開成学校講義室開席の祝詞」)。
 つまりこの段階では、限られた国の歳入を理由に、政府が高度な学校を直接建設していくことには反対しつつも、高等教育の意味と必要性を人民に知らしめるモデル校として「官」が学校(小規模な大学のようなものだろう)を開設することには賛成していたことになる。
 次に見るのは、1883(明治16)年、『時事新報』において展開された政治と学問(教育)の分離をめぐる議論である。その主要部分は、『学問之独立』という小冊子として刊行された。福澤の主張の要旨は以下の通りである。

『学問之独立』 ©️慶應義塾福澤研究センター
 

 長いスパンでゆっくりと効果をあらわす学問や教育は、絶え間なく変転し時に激しく熱する政治の影響を受けないようにすべきである。ことに1890(明治23)年には国会開設を控えており、将来、政権交代のある政治になるかもしれない。政治の方針が変わるたびに学校教育が変わるようなことは許されないが、官立学校は政府の機関であるから影響を受けざるを得ない。そこで、いまのうちに東京大学など文部省の学校、工部省の工部大学校を本省から分離し、帝室(皇室)の所管とする。この場合、帝室は不偏不党であることが前提となっている。そののちに、学校を民間の有志に付託して「共同私有」の私学とし、帝室から賜金をもらって基金を作るか、毎年定額を受け取るかして運営する。
 これは、政府の影響をもろに受けてしまう官学の短所を指摘した1870(明治3)年「慶應義塾学校之説」の問題意識を引き継いだもので、福澤の官学・私学論としては最も有名な議論である。
 ところが、こののち福澤の言論に大きな変化が訪れる。「学問の独立」の原則によって「官」主導の教育を改革しようという議論から、私学経営の立場からのあけすけな官学廃止論に力点が移っていくのである。

官学によるダンピング攻撃

 変化がはっきりと観察できるのは、1887(明治20)年である。7月8日の『時事新報』論説「国民の教育」で、福澤は「一国の政府たる者は公共の資金を費して国民の私の教育を補助するの義務ある可きや否やと尋ぬれば、鄙見ひけんに於ては是れなしと答へざるを得ず」と断言した。政府には国民を教育する義務などない、というのである。ただしなにもしないのは「社会全体の安寧」に問題が生じるので、読み書きと多少の算術までは政府が負担することとする。それ以上教育を与えるかどうかは、父母が決めればよい。
 続けて7月14〜16日の論説「教育の経済」では、大々的に官学廃止論を主張した。その際に主要敵となる、「私学の教育レベルが低い」という世評に対し、それをなかば認めた上で次のように述べている。
 「今の私立学校に課程の低きは其校費足らざるが為めなり。其校費の足らざるは学生に高き授業料を課す可からざればなり。其これを課す可からざるは何ぞや。授業料の最も低くして課程の最も高き官立学校なるものあればなり。故に今官立学校の制を廃して天下の子弟を私学に放ちたらば、私立学校は必ず其授業料を増して校費を集め、随つて其学業の課程を高尚にして、高尚なる学者を作ること決して難きにあらず」
 いまの私学のレベルが低いのは、お金がないからである。なぜお金がないかといえば、学生から高い授業料を取ることができないからである。なぜ高い授業料を取れないのかというと、官学が最も高度な教育を最も安い授業料で提供しているからである。もし官学が全廃されて全員が私学に入るようになれば、私学は授業料を値上げして資金を集め、高等の課程を設置し、素晴らしい学者を育成できる。要するに、「官」が不当な安値でよい品物を叩き売るダンピング行為をして民業圧迫を続けるから、私学の発達が阻害されているということである。
 ここまであけすけに語られると、これまで福澤に寄せられてきた、「慶應義塾の有利になるように議論を組み立てている」などといった批判や中傷が事実であるかのように聞こえてしまうだろう。たとえば、1883(明治16)年に東京大学などの官立学校を各省から分離するよう説いた時には、保守系の『明治日報』が意地悪くこう論じた。
 「当今は二三年前と違ひ福澤の出物は何処の店でも受けが悪く諸府県中小学校、三菱商社其の他の会社も多く官立学校の卒業生が入り込み福澤の出物抔は為に位地を失ひたるより流石老錬の先生も是には僻易(ママ)せしと見え表向は奇麗にして彼の時事新報社説に無闇と政治、学問の分離せざるべからざるを説くも其の実は此の困難を救はん為の穢らはしき私意に出でたるなり」(1883年2月11日)
 ここしばらく慶應義塾の出身者はどこの会社でも受けが悪く、府県立小中学校や三菱その他の会社にどんどん官学の卒業生が入り込むようになってきた。慶應義塾出身者の立場がなくなりつつある。さすがの福澤も困り果ててか、きれいごとをいいながら『時事新報』社説に政治と学問の分離つまり官学の私学化などを説きはじめた。政府の保護を受けつつ英才を送り出す官学がなくなれば、問題はだいぶ解決するからである。

『明治日報』を創刊した丸山作楽 国立国会図書館
 

 福澤はすぐさまこれに対して反論したが、『明治日報』の批判もそれなりにうなずける部分がある。というのは、「官尊民卑」という巨大な敵と戦う福澤にとって、「学問の独立」などというきれいごとは、実は最初からまともな武器として考慮されていないからである。福澤にとっての武器は、もっと生身の人間を切り刻める鋭さを持つものだった。
 これ以降、福澤の官学批判は激しさを増していく――。

(第5回につづく)