冬のヴェネツィアを歩き回って沈む気持ちを持て余し、馴染みの古書店へ立ち寄った。 
 いつもの通り客のまばらな静かな店内で、店主は買取りしたばかりの本を手際よく仕分けをしているところだ。専門出版社から在庫を引き取ってきたらしい。新刊のままセロハン紙で密閉された大型の美術全集の背表紙が、段ボール箱の中に並んでいる。
 「ああ、そうそう」
 ふいに店主が手を止めた。
 「一度ぜひ、保健所へ行ってみるといいですよ」
 ヴェネツィアの保健所は、サンティ・ジョヴァンニ・エ・パオロ聖堂の中にある。本島の北側に建つ荘厳な教会だ。サンマルコ広場からも近く、ヴェネツィアを巡り観るときには必ずその前を通る道沿いにある。菓子店やバールが並ぶ広場を前に建つが、少々離れたくらいでは全景がひと目で見渡せないほど巨大だ。
 その中に保健所がある。繋がって建つ聖堂詣りをする人は多いが、正面玄関の向こうが保健所になっていると知る観光客は少ないだろう。
 保健所の奥は、病院へと繋がっている。
 店主は、インフルエンザの予防接種を勧めたのではなかった。
 「建物内に、図書館がありましてね……」
 店主が言いかけた説明を引き継ぐように、それまで熱心に新着の図録を繰っていた中年の男性が急に顔を上げて、
 「ぜひ見学してきてください。僕も保健所へ行くたびに、必ず図書館へ寄るのです」
 その人は離島で看護師をしている、という。
 病院内の図書館、か。それほど珍しいことでもないだろうに、と思ったが、古書店の店主は、私が調べものや考えに行き詰ると適宜、助け舟を出してくれるのだ。行ってみよう。

 


 観光客でごった返す前に、朝八時頃に聖堂へ行く。いや、保健所へ行く。日が出てまだ間もなくバールも閉まっているため、広場にはほとんど人影がない。靄がかかっている。鳩がちらほら。
 開いた正面玄関に立つ警備官に図書館の場所を尋ねると、怪訝な顔をしてから、
 「ああ、博物館のことですね」
 玄関脇にある入り口を指した。

 


 入り口をくぐるとすぐ、高い天井の下にまっすぐ上へ伸びる階段があった。まるで天国への入り口のようだ。何せヴェネツィアという町は、すべてが重厚だ。敷石ひとつ、屋根瓦一枚、窓のガラスのどれもに歴史が凝縮している。簡単にやり過ごせるようなものがない。目の前の階段もそうだった。
 一段昇るごとに、ずしりと厳かな気配に包まれる。息を切らしながらやっと最後の段を終え、踊り場を折れて<図書館>へ入った。

 ……!

 ヴェネツィアの華厳さに見慣れていたつもりだったが、息を呑んだ。
 階下の玄関前の広間と同じ大きさで、仕切りも柱もない高い天井の空間が広がっていた。天井には金色を主にした装飾画が描かれている。奥行きの目安となる壁も柱もないため、いったいどれだけ広いのか掴めない。そういう大広間に一堂に会しているのは、世界からの貴賓ではない。ヴェネツィアがかかってきた病い、それと闘ってきた医療、そして祈りが黙して並んでいる。
 中央に長いガラスの陳列台が並ぶ。時代ごとの医学書の大型の写本が展示され、ところどころ症状やその治療法が色付きの図で解説されたページが開いてある。

 
 


 陳列台を見ながら一歩進むに連れて、科学が前進する。茶色に変色した医学書は、理論よりも医師達への手引書に近い。さすが美術史に残る作家達を輩出した町だけあって、恐ろしい病気の図説も、見舞われた不運に立ち向かうところの図、という崇高な感じがある。
 修復中のため一般公開はされていなかったが、彩画を施した写本や古い医療器具の展示広間の奥に、植物学や哲学などの古書を集めた図書館があるのだった。
 陳列されているのが主に実務に焦点を合わせた書籍だとすれば、奥の図書館には人の苦しみに寄り添った人達の、そして辛い思いをした当事者達の、精神を導く書が集められているように感じた。

 
 

 ヨーロッパの玄関役を担ったヴェネツィアには、外界から新しいものが寄せてきた。良いものもあれば、害もあった。苦痛を知る町は、安泰を何より望んだ地でもある。
 聖堂の中に病院があり、その中に知の殿堂がある。
 そういえば、長らくイタリアでは看護師は修道女にのみ開かれた職務だったことを思い出す。

 
 
 

(病院編へ続く)