カラスといえば賢い。賢いといえばカラス。これはもうテンプレ、いや枕詞と言ってもいい。カラスが何かやらかすと、ニュースには必ず「カラスは知能が高いので」の一文が入る。そして「カラスは賢い」と評判になる。

しかし、「カラスは賢い」という色眼鏡で見ていると、本当のカラスの姿は見えてこない。

 

例えば、線路の置石。

JRの線路にカラスが「置石」する事件があった。その時にはもう、ありとあらゆる説が飛び交った。いつもの「遊んでいる」説。列車が石をはねる音を楽しんでいる説。そして、しまいには「JRに巣を撤去されたので仕返し」説だ。

ちょっと待て。置石は確かに、鉄道会社の大敵だ。「異音がしたので点検しました」だけでもダイヤは大きく乱れるし、まして脱線・転覆でも起こせば大事故である。なるほど効果的な仕返しだろう。だが、そのためには、前提となる知識がどれだけいることか。

まず「自分の巣を撤去したのは作業員という個人だが、それを命じたのは鉄道会社だ」と理解しなくてはいけない。会社組織とか業務上の指示とかいった抽象的かつ人間社会特有の関係を理解できるか? また、「この鉄道を運行しているのは鉄道会社だ」と理解しなくてはいけない。巣を撤去した作業員と電車は全く見た目が違うが、どうやって結びつけるのだ? さらに「置石をすると列車が止まる」「列車が止まると点検もいるし、遅延証明、振替輸送の案内などに駅員が駆り出される」「すると鉄道会社が迷惑する」といった、人間社会への深い理解が必要である。一体どこでそんなことを覚えたんだカラス。ひょっとして、人間界に遊学していた八咫烏(やたがらす)(おさ)なのか。

もちろん、この事件の真相は、仕返しなどではなかった。東京大学農学部の樋口広芳教授(当時)らが解明したのは、「カラスがパンくずを線路の砂利の下に貯食しようと(あるいは貯食を取り出そうと)して、石を持ち上げる。すると丁度いい高さにレールがあるので、その上に石を置く。そこに列車が来てしまった場合、カラスは石を放置して逃げるので、結果として置石になる」ということであった。要するに、単なる偶然である。だが、三文芝居のような仇討ちモノより100倍は面白いではないか。

カラスが人間の捨てたゴミを漁り、都市環境を利用することも「賢い」などと言われることがある。だが、これが賢いならスズメもドバトもドブネズミもクロゴキブリも、みんな賢い。ゴミの日になると見かけるので「ちゃんと燃えるゴミの曜日を知っていて賢い」と言われたりもするが、これも誤解。彼らは上空からゴミがあるかないかを見て、それから下りて来るだけだ。

 

とはいえ、カラスの知能の本領は、「先を読んで予測し、計画を思い描く」能力にある。全てのカラスが、とは言えないが、少なくとも一部のカラスにはこれができる。

ニューカレドニア島に生息するカレドニアガラスは野生状態でも道具を作って使うことで有名だが、驚異的な洞察力も発揮する。実験条件下で、透明パイプを組み合わせた迷路の中に餌を入れておくと、外からしげしげと眺めて「こっちからつついてもここからは出ない、ここから押すとこっちに穴があるから転がり落ちて……」とちゃんと予測を立て、棒をくわえて正しい方向に餌を動かし、最後にコロリンと出てくる餌を獲得する。「適当に棒でつついていればいい」といった理解ではなさそうだ。「スマホはとりあえずホームボタンを押せばいい」程度にしか理解していない私より賢い。

このような「観察して予測を立てて行動する」という器用なマネは、ワタリガラスもできる。多分、ミヤマガラスもできる。となると、カラスの一部にだけできるというより、多くのカラスができるのかもしれない。

いや、そんなことできるに決まってるじゃないか、と思うのは人間の早とちりである。こういった「仮定に基づいて思い描く」という計画能力を高度に発達させた動物は多くない。カラスはやはり、相当に知的能力の高い部分があるわけだ。

だからってカラスのやることを全て計画的だと信じ込んではいけない。

ワシントン大学教授のジョン・マーズラフは著作の中で、1羽のカラスに驚いたリスが逃げ、それをもう1羽がまんまと捕まえたという観察から、「協力して捕食した」と書いているが、これはちょっと言い過ぎのように思える。少なくともこれだけの観察では「たまたまいい位置にもう1羽いた」とか「リスが逃げるのを見て自主的に先回りした」といった可能性を否定できない。

つまり、「カラスは賢いから」という目で見ていると、なんでもないことまで全て、素晴らしい知能の発露のように見てしまいかねないのである。要は深読みのしすぎだ。隣の席の女子が気になる中学生男子じゃあるまいし、あくまでクールに、「見えたものが全て」と冷静に判断すべきである。

 

カラスは意外にも、この「見えたものが全て」という現実的な態度を貫く。ただし、その結果は、人間から見て理解しにくい、あるいはちょっとドジなものになる。

以前観察したことがあるのだが、1羽のハシボソガラスが大きなナマズを捕まえ、川岸に引っ張り上げて食べようとした。カラスは一口ぶんくわえて、雛に給餌するために巣に戻った。ところがカラスが戻ってくる直前、トビがナマズを見つけて、かっさらってしまったのである。

トビが上昇した瞬間、ハシボソガラスがすっ飛んできた。そこでナマズを掴んだまま飛ぶトビを追いかけるのかと思いきや、まずはナマズがあったはずの場所に着地した。そして、下を向いたままキョロキョロ、ウロウロと歩き回った。ざっと数十秒はナマズを探して時間を浪費した。もちろんその間にトビは去ってしまっている。結局、そのカラスは次の採餌を始め、トビを追いかけようとはしなかった。

人間なら「自分がナマズを置いたあたりからトビが飛んだ、しかもあいつはナマズをぶら下げている、ということはあいつが盗んだ!」と判断するだろう。だが、カラスは「自分があそこにナマズを置いたことは知っている。トビが取ったところは見ていない。だから、まずは自分が置いたところを探そう」と考えているように思えた。そして、「ない、ない、ない、やっぱりない」と探してから、「ナマズはない」と記憶を上書きしたように見える。この推測が正しいかどうかはわからないが、もしこの通りなら、カラスの行動はちょっと奇妙である。

もちろん、こういった社会的なアタマというのは、カラスの中でも種によって違うだろうから、他種のカラスなら別の反応をしたかもしれない。とはいえ、私はもう1種、ハシブトガラスも観察しているが、彼らもやはり「自分が餌を置いたからそこにあるはずだ」といった妙な信念を抱いているように見える。

もっと言えば、どうやら、カラスは「他者の目に、自分の姿が見えているか」という視点を持てない。カラスにとっては、「自分から相手が見えないということは、相手からも自分が見えない」なのだ。よって、枝の陰に頭だけ隠して体が丸見えという、おマヌケな姿を晒すことがある。しばらく見ているとそーっと顔を覗かせるのだが、こちらがじっと目を合わせているのに気づいて「おかしい、見えないはずなのに!」と言わんばかりに慌てる。

まあ、この辺の絶妙なおマヌケさが、カラスの魅力の一つではある。

 

さらに言えば、少なくともハシブトガラスは鏡像認識ができない。チンパンジー、カササギ、ハト、イカは、鏡に映っているのが別個体ではない、と理解できるようになる。チンパンジー、カササギ、ハトでは鏡に映った自分の姿を見て汚れに気づき、きれいにしようとする行動が見られる。彼らは鏡を覗いて身繕いができるのだ。

ところが、ハシブトガラスときたら鏡を見た瞬間に怒り出し、くちばしで鏡を叩く。鏡に映った自分に喧嘩を売っているのだ。それどころか、山の中でカーブミラーに2度、3度と飛び蹴りをくらわせているハシブトガラスを見たこともある。このあたり、カラスの認知能力はチグハグなところがあるのか、それとも喧嘩っぱやすぎて鏡像に気づく前に全力で喧嘩を始めてしまうのか、どうもよくわからない。多分、喧嘩っぱやすぎるせいだと思うのだが、「直接質問できないので、行動を通して解釈するしかない」というのは、動物心理学の面白いところでもあり、まだるっこしいところでもある。

 

ハシブトガラスは頻繁に餌の隠し場所を変えるが、これは他の個体に目をつけられて盗まれないためだ。餌を隠しかけて「やっぱりやめた」と飛んで行ってしまうこともしばしばある。「隠したと見せて実は隠していない」というのは一種のフェイク、欺瞞行動とも言えるのだが、考えてやっているというより、「ここにしよっかなー、やっぱりやーめた」と移り気なだけであるかもしれない。だが、少なくともワタリガラスについては、他者が見ている状況では餌の隠し変え頻度が高くなることが知られている。それどころか、「ケージの窓が開いているので誰かに見られたかもしれない」という状況でも、頻度が高くなる。「実際に誰かが見ていた」という刺激が行動を引き起こすのではなく、「窓が開いていればこっちを見ることができたはずだ、よって見られた[かもしれない]」という推論や仮定に基づいて行動が決定される、と考えるしかない。

さらに、「自分はここに隠したことを知っているが、あいつはそのことを知らない、よってあいつは正しい場所を探すことができない」という推論ができているなら、その認知能力は非常に高度である。これは「サリー・アン課題」と呼ばれるものに類似する。

「サリーとアンが遊んでいる時、サリーはボールをカゴに入れた。サリーが外に行っている間にアンがボールを箱に入れた。サリーが帰って来てボールで遊ぼうと思った時、どこを探すでしょう」

こういうのがサリー・アン課題だ。我々は「サリーはボールの隠し場所が変わったことを知らないので、カゴの中を探す」とわかる。だが、一般に4歳児くらいまでは「ボールは箱の中にあるから、箱の中を探す」と結論する。つまり「サリーと自分(あるいはアン)は別人なので視点が違う」という認識がない。

さあ困った。カラスは鏡像を認識できないようなのに、サリー・アン課題に近いものが解けるのだ(鏡像実験と隠し場所実験では対象となったカラスの種が違うが)。この辺の結果を見ていると、カラスには自他の区別がついているのか、いないのか、種によって違うのか、よくわからなくなってくるのである。

デカルトは「我思う、ゆえに我あり」と言った。ではその我とは何であるか。カラスに聞けば、また別の答えが返って来るだろうか。

いや、首を傾げて糞を落として飛び去るだけだろう。それがカラスだ。

鏡よ鏡

次回につづく