子どもの誕生の瞬間に感得した、自らの死の予祝。その正体を巡って考察を続けてきた果てに、子に宛てて遺言を書いてみるという行為のなかに、この名状しがたい感情が結実することを知った。
 それは死の先にあって、決して自らは見ることのできない未来の時を生きる子に向けた祝福と共に生じる、この上ない高揚だ。
 それは同時に、自分自身もこれまでさまざまな経験の「領土(territoire)」を出入りしながら拡げ続けた環世界の運動が、子どものうちにおいても知らず知らずのうちに継承され、自らの死後にも決して途絶えることなく続いていくことに対する、尽きることのない安堵でもある。
 わたし個人としての来歴のなかには種々の悔恨があり、また、現在の心中にも未来に対する様々な不安が渦巻いている。それはしかし、どこまでも孤独で貧しい世界認識に過ぎない。子は、生まれた瞬間からすでに親の「ありえたかもしれない生(life as it could be)」として、自律的なプロセスを刻み始めている。この関係性が知覚された瞬間から、わたしという存在の一回性は破れる。そして、わたしが辿ったかもしれない幾多もの可能世界が、子の眼差しの先に重なり合いはじめる。この多重世界の振幅は、わたしの個としての認知の限界を優に超えるほど大きい。
 だから、わたしが子どもに対して抱く予測や期待は、構造的に、必ず裏切られることになる。そして、ここにこそ、希望があるのだと思う。なぜなら、わたしという閉じられた個体が行う予測は、ひとつの狭い環世界の範囲までしか延び得ないが、子どもはわたしの一部を引き継ぎながらもわたしを規定する境界線を飛び越え続けることを、その誕生の瞬間から「現前(monstrate)」し続ける存在だからだ。
 親になってからは自分の死を以前ほど怖れなくなったが、その感覚は、子どもに先立たれる恐怖と表裏一体である。子どもがある日からこの世界からいなくなると想像するだけで、発狂しそうになるほどの恐怖を覚える。この感覚を共有する親は少なくないだろう。死後に存在のリレーを託すべき第一の相手がいなくなってしまえば、わたしの拠って立つ地面はいともたやすく崩れ去ってしまう。「死なないための建築」を標榜し続けた美術家の荒川修作と詩人のマドリン・ギンズは『Making Dying Illegal(死ぬことを法律違反にする)』という題の本を書いたが、わたしにとっては親が子よりも生きながらえることが最大のルール違反であるように感じられる。このような感覚を認めた時にはじめて、自分もまた自分の両親の子であることを想起させられ、彼らもまた同じようなことを思っていたのかもしれないと気づく。

 子が親の生産物でないことはもはやわたしたちには自明だ。親子関係とは本質的に一方から他方に対する制御や所有の関係ではありえない。
 哲学者のイヴァン・イリイチは、近代社会における人間の共生可能性(conviviality)についての考察を行なった『Tools for Conviviality』(「コンヴィヴィアリティのための道具」)のなかで、産業化のプロセスについて次のように指摘している。消費社会のリアリズムは、本来は動詞であった概念を名詞に変化させ、そのことによって本来は相互に変化しあうような関係が、単純な所有のロジックに転化すると指摘している。
 たしかに今日の社会の諸システム――メディア、教育、行政、経済、法律――は個々人に対して、「仕事をする」ことや「学ぶ」こと、「家を作る」ことよりも、「仕事を持つ」ことや「学歴を持つこと」、「家を持つこと」を奨励し、経済の流れに与するように訴えかけている。そうしていつのまにか、生きることの目的が、他者との交流ではなく、自己の保全となる。イリイチの指摘を受け継いで考えてみれば、同じように、「子と生きる」ことも今日においては「子を持つ」という所有の表現に成り下がり、それがまるで社会的ステータスであるかのように認知されてはいないだろうか。しかし、親が子を一方的に「作る(make)」とか「持つ(have)」といった表現は、生命のリアリズムからひどく乖離した、根本的な錯誤に基づいている。親とは原理的に、偶有的に出現した子と「共に在る」ことで自らもまた「かたちづくられる(in-formatio)」存在だからだ。

 古代ギリシャにおいて、πληροφορία(プレロフォリア)とは「思考に形を与える」という意味の言葉であり、転じて「アドバイスを行う」、「アイデアを伝える」という意味を持つようになった。この語義は、ラテン語ではin-formatioに成り、今日、わたしたちが「情報」という意味で用いるinformationの語源であるといわれている。この原義に沿えば、情報もまた本来的には「持つ」ものではなく、コミュニケーションの相手の思考を変形させる、つまり「かたちづくる」という動的な関係性を指し示しているのだといえるだろう。
 文化人類学者のグレゴリー・ベイトソンは、情報とは差異を生み出す差異であると表現した。であれば必然的に、情報とは局所的な文脈を無視して普遍的に一意に決定できない意味内容となる。だからこそ、ベイトソンは現代の科学的思考から日常的言語に至るまで確定的な表現が支配的であることを憂い、関係性の表現を一般化しようと終生努めたのだった。
 グレゴリーが娘のメアリー・キャサリンと交わしたメタローグとは、関係性の思考を体現しようとした試みとして受け取ることができる。それは数十年にわたって、父が自身に内在する娘を語らせ、娘が自身に内在する亡父に語らせて、共にテキスト(context)を編むという作業だった。父の思考が娘の存在によってかたちづくられ、娘の思考が父の存在によってかたちづくられる。ここでは生物学的な親子関係における相互作用(interaction)の本質が、自然言語という人間の第二の自然を司る領域に拡張されている。そし、父と娘という局所的な文脈(コンテキスト)のなかで生起した情念が、非線形の円環的な時間の流れの中で、因果応報を結んでいる。

 ベイトソンが関係性と情報の問題を追求する契機を作った数学者ノーバート・ウィーナーによって、世界を動的なシステムとして捉え、その複雑な機構をモデル化して解き明かそうとして立ち上げられたサイバネティクスとは、まずもって「Control and Communication in the Animal and the Machine(機械と動物における制御とコミュニケーション)」の問題を考えるものとして始まった。「制御とコミュニケーション」という命題は、一方では合理的な計算システムを構築するための技術的課題として受け止める向きが生まれ、他方では簡単には解決することのできない矛盾として受け止める向きが生じた。前者に与するジョン・フォン・ノイマンやクロード・シャノンたち数学者によって、情報は定量化された単位に還元され、現代のコンピュータとネットワーク通信の基礎がかたちづくられた。後者の流れでは、ベイトソン、ハインツ・フォン・フェルスター、フランシスコ・ヴァレラ、エヴァン・トンプソンといった、文化人類学から認知科学者に至る多様な領域の研究者が「生命的システムとはなにか」という問いに、統合的な解決を見ることなく今日に至るまで向き合い続けてきた。
 なかでもチベット仏教徒にして認知科学者フランシスコ・ヴァレラは、神経生理学研究における細胞の観察を通して、生命現象の本質が「自己を構成する要素を自律的に生産し続ける働き(autopoiesis)」であると主張した。そして、社会が個々の生命を内包するのではなく、生命現象こそが社会というサブシステムを包含すると考え、生命の自律性の原理を社会のスケールにまで拡張する方法を考えた。その過程でヴァレラは、フォン・ノイマンとウィーナーにそれぞれ他律性と自律性を象徴させる奇妙な比較表を描いている。
 入出力インタフェースと中央演算処理ユニット、そして記憶装置という現代において主流である計算機は、その基本構想を行なった数学者の名前を冠してフォン・ノイマン型アーキテクチャと呼ばれる。対して、サイバネティクスを立ち上げたウィーナーの構想は、いまだ実現されていない。実際、フォン・ノイマン型のコンピュータが社会に進出していく時期において、ウィーナーは歯切れの悪い批判を繰り返していたが、フォン・ノイマンほどに明確な設計図を書き残すことはしなかった。ただ、今日のいわゆる人工知能による人間存在に対する影響の議論を60年以上先取りする論考を多く残している。たとえば、その代表的な書籍『Human Use of Human Beings』のなかでは、機械的知性そのものが人間の脅威になるとは考えづらく、最終的には人間が他者を機械的に制御可能であるという認識よりも大きい脅威は存在しないだろうと書いている。
 ヴァレラは、ウィーナーの言説のなかに生命と機械を分離したり対立させたりしない統合的な認識論を見て取り、生物学的自律性の概念を人間存在や社会システムにまで伸長させる議論のなかでフォン・ノイマン型計算機と比較したのが以下の図である。

F. Varela : “Autonomie et Connaissance – Essai sur le Vivant” (Eds. du Seuil, Paris, 1989), P222より筆者翻訳・再作成


 定量化される情報単位に基づくフォン・ノイマン型世界では、異なるもの同士を同一性の原理に従って一致(マッチング)させ、一つの入力は一つの出力結果に対応する。こうした働きによって生起する世界は、指示と表象によって規定される。
 他方で、差異が生み出す差異として情報を捉えた場合は、同一性の原理は適用できない。そこではアナロジーや相同といったゆるやかな整合性によって情報同士が結ばれる。だから、ある入力に対しては、受け取られる文脈に応じて変化して生じる挙動は、その時々によって異なる。ここでは意味は事前に計算されることなく、個々の存在同士の相互作用において、創発(emerge)するほかない。

 ここまでわたしたちが見てきた親と子の関係もまた、ヴァレラがウィーナーの名を冠したモデルで提示したように、一対一対応の入出力ではなく、その関係性に固有の挙動と意味が創発されるものとして捉えられる。宗教実践者としても仏教に強い関心を持っていたヴァレラはまた、「縁起」という用語(サンスクリットの原語ではpratītya-samutpāda)を「相互依存的(co-dependent)生起すること(arising)」と表現しているが、この意味においては親子関係とはまさに人に偶有的に発生するもののなかでも最も強い縁起であるといえる。違う言い方をすれば、親と子の相互作用とは、生物学的な次元に属する関係であると同時に、後天的に相互の思考を形成しあうコミュニケーションの最も強い一形態なのだ。
 親と子の関係において、他方の存在を他律的に計算するという動機は生まれない。仮にそのような動機が発生しているケースがあるとすれば、それは生命的な親子関係ではない。それと同時に、あらゆる生命的な関係性は、親と子の縁起と構造を同じくするものであるとも考えられないだろうか。 

 わたしはここに来てようやく、ここまでの一連の文章を書く上で脳裏に巣食っていた疑念が少しずつ融解していくのを感じている。その疑念とは、わたしの子と親を巡る価値や感覚意識の射程が、果たして生物学的な親子関係に限定されるのだろうか、ということである。ここまで考え、書いてきたことは、「生物学的な子どもを作る」ことの称賛として受け止められてはならない、という強い情念がある。そうではなく、わたしたちはいまや狭義の親子の概念をより広い次元に解き放つことができるように思う。
 生物学的な子や親が物理的に存在していないとしても、わたしたちは自らの生のプロセスを託す相手を見つけながら生きている。友人や恋人のあいだで、仕事仲間のあいだで、もしくは師弟のあいだで、わたしたちは相手の一部を自己の環世界に包摂しながら、時に親として、また別の時には子として、互いをかたち作り(in-formatio)あっている。
 また、わたしたちは現実に出会うことのない人々に向けても、こうして文章を書いたり、話を語ったり、もしくは詩を詠んだりソフトウェアを組みながら、自らのプロセスの種子がいつかどこかで見知らぬ誰かの文脈に着床し、発芽することを祈っている。この社会的な共話を通して、わたしたちは生命本来の目的を持たない進化(Open-Ended Evolution)を生きている。
 このような、生物学的次元に留まらない継承関係によってこそ、わたしたちの文化の歴史の総体を通して、多産で実りある関係性が結ばれてきたことも知っている。
 わたしはここで、目的を持たない遊戯という命題に突き動かされた二人の師弟にして友人であるマルセル・デュシャンとジョン・ケージの共通点を評した次の一節の意味が、体に染み込むのを感じている。

「もっとも純粋な形で欲望することしかしない者は、まさに意図することはなく、自分がそこになんら関わることなく、欲望されたものがおのずから産みだされることを期待する。(…)この欲望の純粋さは必ずや狡猾である。というのは、それは自己忘却と、《自分がそこになんら関わらない》でいようとするこの自己の保持とを同時に遂行するからである」(太字部分、原文では傍点)

ダニエル・シャルル『ジョン・ケージ』(叢書言語の政治3)(岩佐鉄男訳、書肆風の薔薇、一九八七)、第十七章「ケージとデュシャン」。原著=Daniel Charles, Gloses sur John Cage, Union Générale d'Editions à Paris, 1978

 美術という制度を高度にコンセプチュアル(概念的)な遊戯に変貌させてしまったこの二人の芸術家は、それぞれ偶然性を意図的に制作に取り入れるという矛盾を楽しむあまり、固定的な作品の概念から離れていってしまった。デュシャンはなるべく作品を作らないように、没頭していたチェスで生計を立てるようになり、ケージはコンピュータによって人間の恣意性を超越しようと企み、教師としても多くの芸術家を育てた。彼らの遺した作品はいずれもその成立に鑑賞者の自律的な関与を誘う遊び場である。わたしたちがデュシャンの大ガラスやケージの無音と向き合う時、その時々で喚起される情動や思念は事前に決定することができない。作品は鑑賞者に観察されることによってはじめてかたちづくられるという生命的な関係性を獲得する。表現者である以前に、一人の生命として、無限に等しい数の未来の人間たちと、死後においても共話を交わせるということ以上の希望は果たしてあるだろうか……。

 

 ここで一度、この開かれた円環を一旦閉じておこうと思う。生物学的な親子関係の先に広がる非生物学的な継承関係については、また別の円環を新たに開き、展開していく必要があるだろう。
 ここまで書くなかで、子どもの誕生の瞬間から今日に至る成長過程の記憶を呼び覚ましながら、根を一つにするが四方八方に散っていた思考の断片をつなぎとめるフレームが浮き彫りになった。それはわたしの人生に突如出現してくれて、なんの衒いもなく、今日まで共に生きてきてくれた娘の存在によってかたちづくられた。
 この連載を書いている間にも、彼女は小学校に入り、二ヶ月あまりでフランス語の読み書きができるようになった。もう頭をぶつけて日本語を忘れる必要はなさそうだと思えば、近代的な規律訓練(discipline)もそこまで忌むべきものではないように思えてくるから不思議だ。彼女はこれからますます自律的になっていき、わたしの想像し得ない言葉を獲得していくだろう。その過程でいつか、この文章を見つけたら、そのなかに書かれてある自分自身の過去を切り開き、わたしのかいま見た未来を想い出してもらって、自らの探求の糧としてもらえたら、嬉しくおもう。(了)

※ご愛読ありがとうございました。本連載をまとめた本を、新潮社から刊行予定です。