脳科学者の茂木健一郎さんの著作に初めて触れたのは『生きて死ぬ私』(1998年徳間書店刊)でした。たしかに脳科学者による本ではあるのですが、ところどころに描かれる茂木さんの記憶のなかの光景は、「小説の一場面のようだ」と思わずにはいられないものでした。その後に発表された「心を生みだす脳のシステム」(2001年日本放送出版協会刊)にも、茂木さんならではの心象風景が登場しています。

 茂木さんと話していると、いつのまにか話題は古書店の話、夏目漱石や小林秀雄の話、あるいはバッハの「マタイ受難曲」の話になっていることがあります。しかしそれは堅苦しい議論とはほど遠い、森の奥で野生の鹿と鉢合わせした体験を熱っぽく、問わず語りで話しかけてくるような明朗さが含まれています。

 文章にせよ語り口にせよ、その人となりとは無縁ではありません。不思議な清潔感と、分別から遠く離れた子どものような探求心が茂木さんの文章のどこかまっとうな息づかいを決めているのだと思います。

 今回は小林秀雄の講演を録音したCDを聴いたことを契機にして、小林秀雄という希有な批評家の魅力について、茂木さんならではのアプローチで書いています。

「小林秀雄の講演を初めて新潮社の録音で聞いた時の衝撃は、忘れられない。語り口が志ん生だった。私の発見とばかり思っていたら、誰もがそのように思うらしい。あの磨き上げられた、端正な書き言葉を残した人が、話し言葉においては、熱っぽく、破調があり、ざっくばらんで、きさくである。ああ、こんな人と一緒に酒を飲んで、談論風発してみたい。そんなことを思わせる語り口だった。」(茂木健一郎「小林秀雄の音楽」より)

 小社から刊行された「新潮CD小林秀雄講演:第六巻 音楽について」をまだ耳にしたことのない方でしたら、ぜひCDを聞かれる前に、茂木さんの今回の文章を読んでいただければと思います。