クリスマスは好きですか? わたしはちょっとよくわからなくなってきた。最近はクリスマス商戦のスタートダッシュが異様に早くて、ハロウィンが終わったらもうクリスマス向けの商品を売っていたりしてあまり値打ちが感じられないというのもあるし、普段のデザインの何かを買いたくて店に行っても、クリスマスカラーのものが前面に押し出されていて怖じ気付くというのもある。あれを買ってしまって、年じゅう普通に使う人というのはいるんだろうか。六月や九月にああいうものを使っていたら、我に返った時に困った気持ちにならないだろうか。もしくは、次の十二月までしまっておくのだろうか。みんなそんなに収納する場所を持っているのか。疑問は尽きない。
 一人だと過ごし方もよくわからない。かといって毎年十二月二十三日から二十五日のあたりに人を誘うのは気が引ける。いつもどう過ごしているのかすぐには思い出せないけれども、平日だと通常通り仕事をしていて、週末だと録画した海外ドラマでも観ているんだろうと思う。
 日本人のクリスマスというと「そこらじゅうのBGMにえんえんとクリスマスソングが流れ、世の中の商品ディスプレイが赤と緑になる」という貧困なイメージしかないのだけれど、西洋でのクリスマスが本当に特別なものであることは、児童期に読んだ本でよく理解しているつもりでいる。わたしは子供向けの伝記や児童文学の中で描かれるクリスマスの場面が本当に好きな子供だった。それを読むのが夏休みであっても、読んでいるだけで幸せな気持ちになった。ヘレン・ケラーの伝記でいちばん印象に残っているところは、「WATER!」ではなくクリスマスの場面だ。ヘレンの家は裕福であったため、めちゃくちゃプレゼントをもらっていた。『若草物語』のクリスマスもすばらしい。子供の頃は、ツリーを出してお菓子の詰まったブーツやプレゼントがもらえるクリスマスが確かに好きだったけれども、自分が本で読んだようなクリスマスを実感することはないんだろうなと思っていた。子供ながらに文化の差異を感じ取っていたと言える。でもそれでよかった。登場人物たちのクリスマスを文章で分けてもらえることが幸福だった。
 本書の主人公である商人スクルージは、完全にアンチクリスマス派だ。というか「クリスマス」の概念が、楽しさや気前の良さや民衆の喜びを象徴しているのだとしたら、スクルージはそういうものを否定することを信条としている。貪欲で冷たくて怒りっぽいスクルージの生き甲斐は金儲けで、何かというと「一銭にもならない」という発想をする。寄付を打診されると、税金を払ってるんだからそれで賄えよ自分は関係ない、と言い切る。そしてめちゃくちゃケチだ。部下である書記が寒さで石炭を追加しないように、石炭を自分の部屋においてその使用個数を管理している。戯画化されているようでいて、このぐらいの人は実はたくさんいるのではないだろうか。わたしも、自分自身を含めて心当たりがある。
 クリスマスの前夜、そんなスクルージの前に、七年前に死んだ共同経営者のマーレイの幽霊が現れる。マーレイは、これから三人の幽霊がおまえの所に訪れる、と警告する。マーレイは生前、公益や人類のために尽くさなかったことを後悔しているが、スクルージはまだ間に合うという。
 三人の幽霊はそれぞれ、過去、現在、未来を象徴する存在である。過去の幽霊はスクルージのこれまでの人生を幻視させ、現在の幽霊は他者のクリスマスの様子をスクルージに見せる。未来の幽霊が示唆するものは、このままの人生を送るとスクルージに何が起こるかということだ。過去の幽霊が見せる、スクルージが守銭奴へと変わってゆくなりゆきは、ありふれた貧しさや世間の蔑みといった普遍的な嘆きを根拠としていて、一般的な経験としても読める。幽霊たちの造形がすばらしい。子供のようでいて白く長い髪を持ち、長い腕とたくましい筋骨を持つ第一の幽霊は「一本腕の怪物になったかと思えば、一本足になり、二十本足になったかと思えば、たちまちにして首なしの二本足となり、また胴なしの首に」という具合に次々と姿が変化し、第二の幽霊は「白い毛皮でふち取りのしてある濃い緑色の長衣、あるいはマントというか、ただ一枚きり」を着たゆったりとした巨人で、頭にはひいらぎの花冠をかぶっている。そして第三の幽霊は、黒い衣に頭も顔も包まれていて、目に見えるのはさしのべている手だけであるという。
 教訓的な内容の受け取り方や、幽霊たちの見せるものに揺さぶられるスクルージの人間的な感性への共感は、読者それぞれの中にあるとして、刮目するのはディケンズが活写するクリスマスを過ごす庶民の姿だ。特に、第一の幽霊が見せるスクルージが奉公した店の主人が主催するクリスマスの舞踏会の様子と、第二の幽霊が最初に見せるクリスマスの街頭の描写、そしてスクルージの書記である貧しいボブ・クラチットの一家が過ごすクリスマスの幸福感は、体験にも匹敵するほどの豊かな細部と空気をそなえている。一読するだけで、クリスマスが読み手の中を通っていくと思えるほど、生き生きとしている。これはまさしく、自分が子供の頃に本を通して知ったクリスマスの輝きと同種のものだ。
 富める者にも貧しい者にもクリスマスはやってくる。そして誰にも平等に、良い人間や幸福な人間になれる機会を与えてくれる。そのことを強く実感させてくれる小説である。それは『若草物語』の四姉妹とその母親とお手伝いのハンナたちの過ごすクリスマスが、お金はないけれどもこの上なく豊かであることにも通じている。個人的には、第二の幽霊がパン屋のかまどに持ち込まれる貧しい人たちの食材に、松明(たいまつ)から香味を振りまいてやるという場面が忘れられない。それを説明する「親切に出された御馳走なら何にでも合うのだ。ことに貧弱な食卓には利くのだよ」という言葉は、クリスマスの魔法を象徴しているように思える。

『クリスマス・キャロル』(新潮文庫)
チャールズ・ディケンズ/村岡花子訳