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おかぽん先生青春記

 僕はそのようにして、米国メリーランド州にあるメリーランド大学カレッジパーク校のボブ・ドゥーリング研究室にて研究を始めることになった。家業を継ぐことを放棄してアメリカに来てしまった以上、渡米前に父親が作ってくれたクレジット・カードにいつまでも頼るわけに行かない。一刻も早くホリディ・インから越さねばならなかった。大学生協にはたくさんの貸間情報が掲示してある。僕はしかし車も免許もないので、自転車または徒歩で通えるところ限定である。とはいえ、この大学はとてつもなく巨大で、いちばん近い居住区域からでも大学の周辺にある駐車場まで徒歩で20分はかかった。駐車場から動物学心理学棟までさらに徒歩20分であった。研究室の便利屋であるケヴィンに車を出してもらい、いくつかの貸間を検討した結果、テュレーン通りにある家の貸間に住まわせてもらうことになった。

 ここは居住区の戸建ての地下室で、つま先立ちでようやく掘り下げ窓から外が見える。広さは5畳くらいで、世にもちゃちなタンスとベッドが置いてあった。もう1部屋あって先住民がいたが、彼の名前はもう覚えていない。背の高い痩せた男だった。必要最低限の挨拶しかお互いにせず、特に仲良くなることはなかった。硬貨を入れて駆動する共通の洗濯機があり、そのそばでは除湿器が一日中轟音を立てていた。賃料は月に200ドルだ。これは1983年の話である。1985年のプラザ合意前の話なので、1ドルは240円ほどであった。ということは当時の値段で5万円、今ならば10万円ほど払っている感覚であろうか。これでも最も安く、最も通学可能なところだったので仕方がないのだ。

 地下にはもう1部屋あった。家主は、これはもうひとりの学生との共通の居間として使用してよいと言ってくれたが、僕は一度も使ったことがなかった。なぜならこの部屋は、地元のフットボールチーム、ワシントン・レッドスキンズ記念館のようであったからだ。何度も書いているように、僕は集団スポーツが嫌いである。この部屋にはレッドスキンズの優勝旗のようなもの、ユニフォーム、さまざまなポスターが掲示してあり、そして非常にしばしば家主が大音量でレッドスキンズの試合のビデオを鑑賞しているからである。後に親しくなる同僚のトムは、この家をレッドスキンハウスと呼んでいた。僕は一刻も早くこの貸間から脱出したかったが、それが叶うのに1年6ヶ月を要した。レッドスキンハウスから車通りの激しい道を自転車で通学していたが、最初の1ヶ月で後ろから来た車に跳ね飛ばされた。幸い大きな怪我はなかったが、とにかく最初の部屋にはあまり良い思い出はない。

 さて、このようにして仮住まいが見つかり、講義を受け始めようと言うところで大きな障壁があった。学期が始まる前に、TOEFLという英語標準テストで550点未満の留学生に英語集中コースを科すという。しかも有料である。780ドルであった。父親からもらったトラベラーズチェックは1000ドルだ。それでもきっと50万くらいの価値があったはずだ。そのうちのほとんどを、英語学校に取られてしまうのだ。そして、このコースを修了しなければ、正式な大学院生にはなれないのであった。というわけで、僕はアメリカに渡った最初の半年は、大学院生ではなく英語学校の学生であったのだ。1000ドルのうち780ドルを英語学校に取られ、200ドルを貸間に取られた僕には20ドルしか残っておらず、やむを得ず父親のクレジット・カードを使って生きていくことになる。たとえ1983年であってもアメリカはアメリカであり、コンビニでもファストフード店でもスーパーマーケットでもクレジット・カードが使えたのは大いに助かった。

 英語学校に通う傍ら、僕は1コマだけ大学院の講義をとった。統計学である。統計学の先生、ナンシーは、ものすごく強烈な南部訛りを持っていた。時折何かしらジョークらしいことを言い、ひとりで「うしししし」と笑う。シュールであった。そもそも英語の聞き取りに弱い僕には、何のことやらさっぱりわからなかった。自信を喪失した僕は、講義のアシスタントをやっていた大学院生に相談に行った。するとその大学院生は、「不安だったら復習につきあってやるよ、そもそもあの先生の英語がわかる人は、アメリカ人でも少ないから心配いらないよ」と励ましてくれた。なんだ、みんなわからなかったのか。どうりで誰も先生のジョークに応答しないはずだ。幸い教科書が分厚く、統計学なので数学さえできれば理解はできた。この教科書、ヘイズ著の「統計学」は今でも時折参照している。

 英語学校は楽しくはあった。あらゆる人種・年齢・性別の学生が40名ほどのクラスをなしている。母語が多様な学生集団なので、先生は英語しか使わない。先生は、「あなたは文法はこんなにできるのになぜそんなにしゃべれないの?」という日本人学生に特有の問題を易々と指摘した。自己紹介や英語劇、ゲームなどやっているうちにだんだん英語が上達しただろうと思う読者は甘い。このような環境では、クラスに特異的な英語が発達してしまうのである。僕らのクラスでも、スペイン語系の英語が発達してしまい、僕はできれば授業に出たくないほどであった。だって、英語学校に行けば行くほど英会話が下手になってくるのだ。とはいえ、この国では度胸をもって主張しつづけなければ自分の考えは通らないことを、この学校では教わった。それから巷によく言われる中南米の女性が情熱的なことも、僕が知る限りでは正しいようであった。

 英語学校の卒業試験に受からない限り正規の大学院生にはなれない。僕はやむを得ず英語学校の特異的なへんな英語を身につけ、半年で正式な院生となることが出来た。しかしながら、あの頃の友達の名前をひとりとして思い出すことができない。精神分析でも受けて抑圧を解除しない限り思い出せないのであろう。今思うと楽しい思い出でも、長期的には苦しい時代だったのだと思う。浪人時代と似ている。

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考える人とはとは

 はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
どうして自分が「考える人」なんだろう―。
手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか―手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。

「考える人」編集長
金寿煥

著者プロフィール

岡ノ谷一夫

帝京大学先端総合研究機構教授。1959年生まれ。東京大学大学院教授を経て、2022年より現職。著書に『「つながり」の進化生物学』『さえずり言語起源論』などがある。

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