都内でインタビューに答えてくれたサーロー節子さん。
 

 それは大学時代にさかのぼる。たまたま足を運んだイベントで、「フラッシュ・オブ・ホープ」という映画が上映された。その中に登場した、一人の女性に釘付けとなった。世界中を飛び回りながら、英語で被爆体験を語る彼女こそ、昨年ノーベル平和賞の授賞式でスピーチをしたサーロー節子さんだった。
 サーローさんは13歳のとき、広島で被爆。その後、米国への留学を経て、カナダの方と結婚し、今はトロントに在住している。ソーシャルワーカーとして活躍し、同時に被爆体験を世界の人々に発信し、核兵器廃絶を訴えてきた。
 昨年12月、私はインド滞在中に、ノーベル平和賞を受賞したICAN(核兵器廃絶国際キャンペーン)のスピーチとして、彼女が演説する姿をテレビ越しに見つめていた。ご飯を頂いていた村の家のソファーで、食い入るように。さっきまでにぎやかだった部屋の中が、いつの間にかしんとなっていた。隣で見ていたお家のお父さんに「彼女はもう85歳よ」というと、「ええ!?」と目を丸くして驚いていた。「Humanity and nuclear weapons cannot coexist.(人類と核兵器は共存できないのです)」。彼女の実体験が、その言葉に一層の重みを与えていた。
 今月、母校である広島女学院の招きで来日したサーローさんの、東京での講演に参加した。講演後、コメンテーターを務めているJ-WAVE「JAM THE WORLD」の企画で、サーローさんにインタビューをさせて頂くという機会に恵まれた。86年の歩みの中には、あの授賞式のスピーチだけでは語りきれない数々の苦難があった。
 13歳で被爆し、亡くなった姉や甥っ子、次々と燃やされていく遺体の山を前に、彼女は当時、何も感じることができなかったのだという。なぜ何も感じないのか、私は人間ではなくなってしまったのか、そんな自分自身に罪悪感を抱いたそうだ。大学生になり、心理学を学ぶ中で、想像を絶する状況を前にすると、人間は自分の心を守るために思考停止してしまうことを知り、ようやく自分を責めることをやめられたのだという。
 1954年、奨学金を得て米国留学を果たした。それはちょうど、アメリカによって行われたビキニ環礁の水爆実験直後のことだった。渡米直後にコメントを求められた彼女は、はっきりと核兵器に「NO」の意志を示す。その言葉が新聞に掲載されると、留学先の大学に「ヘイト・レター」が届くようになる。「日本に帰れ」「誰の金で奨学金を得たと思ってるんだ」「殺すぞ」と。到着したばかりの彼女は途方に暮れ、教授の家にしばらく引きこもらざるを得なくなった。そして葛藤した。帰れと言われても帰れない。このまま口を閉ざし生きていくしかないのだろうか。たった一人思い悩みながらも、自分を奮い立たせた。あの地獄を生き抜いたことを、なかったことにしたくない。安全保障のために原爆は必要だとする風当たりが強い中、彼女は自ら、その逆風に飛び込んでいくことになる。
 昨年のノーベル平和賞のスピーチで、彼女は核兵器禁止条約を「我々の光」と表現した。それは彼女の被爆体験から紡いだ言葉だった。爆風で体が吹き飛び、崩れた建物の下敷きになったとき、誰かが彼女の肩をゆすった。「諦めるな!あそこから光が漏れているのが見えるだろう?あそこに向かって這い出せ!」
 這ってでも光を見出そうという彼女の原点だった。
 その「光」をつかむまでの道のりは決して平たんではなかった。トロントには様々なルーツやバックグラウンドを持った人々が集まり、「私のおじいちゃん、おばあちゃんだって日本軍にひどいことをされた」「なぜ被害だけを訴えるのか」という言葉を投げかけられたことも一度や二度ではなかったという。「そんなとき、私はまず、彼らの声に耳を傾けます。もちろん戦争当時、私は13歳だったので、軍の起こしたことに関与していたわけではありません。ただ、一人の日本人としての罪悪感を伝えるんです」。まず受け止めること。はねつけ合っていては互いの理解は生まれない。その姿勢は、あらゆる歴史問題に向き合う鍵となるように思えた。
 「インドは核保有国よね。私の演説、皆どう感じたのかしら?」インタビューを終えた後、彼女に問われてはっとした。私はあの時、サーローさんのスピーチを受け止めるのに精いっぱいで、一緒に観ていた村の人たちがそこから何を感じたのかを全く聞けていなかった。あの目を丸くして驚いていたお父さんは、どんな思いでサーローさんを見つめていたのだろう。
 「Prayer(祈り)よりも、Action(行動)を」というサーローさんの言葉を実践するならば、次の渡航でまず、あの時出会った人たちと語り合いたい。「これは“人間の問題”だからこそ、一緒に考えてみませんか」、と。

インド中部、テランガナ州。認定NPO法人ACEと現地の団体が協力して開いた正規の学校に編入するための補習学校「ブリッジ・スクール」を訪れた。授業が終わり、「また明日」と笑顔でかえっていく子どもたち。