松原俊太郎→滝口悠生

もうすぐ今年も終わりますね。3ヶ月アメリカに滞在して帰ってくれば、「凡庸なこと」も新鮮に感じられそうな気がしますが、その後いかがお過ごしですか。こちらは『おじさんと海に行く話』無事終演しまして、少し落ち着きました。

小説と戯曲のアナロジーもここまできたかと感慨深く読みました。どこから入ればいいのか考えていたのですが、やはり声からにします。僕は小説を読んでいるとき、書き手と語り手のあいだを揺れながら読んでいるような気がするのですが、そこに書かれているものはたしかに戯曲の声とは異なるようです。

戯曲は、登場人物名が記され、その下に台詞が書かれるのが主で、声の出自がわかりやすく、対話やモノローグで誰が、どこに向かって話しているのかがト書きなしでも比較的わかりやすい書法をとりますが、僕の書く戯曲は、その「誰が、どこに」がよくわからないと言われます。一般的なリアリズムであれば、会話をしているのならその相手に向かって語るところですが、その枠を外すと、その相手を何か別のものに見立てて話すこともできるし、そこにはいない誰かや、話者の記憶の中の誰かに向かって話すこともできる。ただし、一般的なリアリズム会話というのは共有されやすい、かなり強固な枠組みであって、上演はそれを無視することはできません。上演では、俳優が誰かに向かって声を発するため、この「誰が、どこに」という問題が常についてまわるのです。

この「誰が、どこに」が曖昧な語りは、小説では頻繁に見られるものなのではないでしょうか。語り手は、妻と話していると思っていたらいつのまにか浮気相手の家にいて妻との新婚旅行を思い出しながら浮気相手の子どもとゲームをし読者あるいはその場にいない誰かに向かって話している、といったようにひとりでも自由に時間と場所を変えることができる。

読み手からすると、小説の語り手は、俳優や観客や読み手自身と同じく現在にもいるように読まれるものだと思います。ただし、それは書き手が書き記した紙の上でなされるのであって、語りは、滝口さんの言葉を借りれば「すべての言葉が過去に送り込まれる」。出来事のなかにいる語り手が「説明しようとしている」当の出来事は、語り手にとって完了した過去ではなく、その「説明しようとしている」時点ではまだどうなっているのかわからない、受け止めきれていないもの、なのか。「説明する」と「説明しようとする」のあいだには、逡巡やうまく言い表せられていないのではないかという懐疑、言葉を連ねていかざるを得ない辿り着けなさ、といったものがあり、語り手の「わたし」にいまだ統合されていない、受け入れられたわけではないものが語られており、この書簡の初めのほうに滝口さんが言われていた小説特有の「冗長さ」もそこに含まれているのでしょうか。それらすべてが書き手によって記されることで、語り手の「すべての言葉が過去に送り込まれ」、小説の上演がなされる。

語り手の語りは、書き手なしではなされないものだと思いますが、語り手が「説明しようとする」相手は誰なのか、「どこに」向かって「説明しよう」としているのか、気になります。また、その「説明」は誰あるいは何に要請されているのでしょうか。

一方の戯曲は上演を前提とする以上、声を書かなくてはならない、というわけではないと思いますが、先の回で書いたように、声が「聞こえてくる」ことは、主に「異化」によるものでした。「異化効果」を提唱したブレヒトは「社会的な処置」と言っていますが、それが効果として実感されるのは、仮構された現実のなかの言葉、声、身振りによって、作者・読者・観客たちの生きる現実と交わり、生活のなかで隠されている、見られているのに見られていないもの、意識されていない構造が見聞きできるものになったときであり、共感による再認とは異なります。声が発せられているところは現在とは限らず、過去あるいは未来から聞こえてくるということも当然あり得ることだろうと思います。

戯曲のト書きは、基本的に現在形で書かれ、特に上演台本では舞台上の、登場人物の動きを指示するものです。上演では演出がト書きをそのまま採用すれば動きとなって現れますが、書き手の姿は見えないままです。『おじさんと海に行く話』では、ト書きではなく登場人物による過去形の描写を用いました。荒木優光さんがテクストを俳優の声で録音し、劇場でスピーカーから発声させます。これが明らかに戯曲の一般的な形式である対話の部分よりも聞こえてこない、というか、聞こえ方がまったく違いました。劇場では、黒子によって動かされる登場人物に見立てられたスピーカー、具体音によって場を構成しています。描写はその場に一言一句合致するわけではなく、ラジオドラマを聞いているときのような感覚に近いのですが、主に録音された音と声によって、観客に頭の中で情景を補い、作ってもらうことになります。逆に対話は、たとえ過去のことを語っているにしても、現在進行形で聞こえてきます。その場に俳優はおらず、スピーカーしかないのですが、その場に語り手がいるかのような錯覚が起きては正気に戻るというような状態でした。描写では、その錯覚が弱いというか、いまここの場にその語り手がいる必然性が薄く、その場にはいない語り手が現在・過去・未来のどこかからか描写しているというふうにも捉えられ、描写の向かう相手も定まらず、宙吊りになります。

演劇はよく「ナマ」であることが強調されますが、過去、現在、未来のどこから語っていても語りは観客のいる現在に巻き込まれていきます。過去の描写もそうで、そこに語り手である俳優がいれば、過去の語りは俳優の現在の身体に統合されて聞こえてきます。戯曲であれ小説であれ、書き手によって書かれたテクストのなかにいる登場人物=語り手は過去の時制のなかにいますが、読者に読まれ、見聞きされることで現在いるように錯覚されます。また語り手は、語り始めることによって存在し始め、単線的な時間だけでなく、忘却や想起によって現在を失ったり、過去を現在のものとして取り戻したりする語りのうちで、出来事内の過去・現在・未来の時間を孕んだ身体を持ちます。また、読み手は「書くように読む」ことで、書き手と語り手と並行して、読み手のいる現在から離れてそれらの時間を経験することもできるし、自分の現在から遡ったり進んだりすることで現在を複層化することもできるのではないでしょうか。

上演を前提とする戯曲が小説と異なるのは、発声されることもそうですが、舞台上に身体が置かれることになるということです(これからまた上演を前提としない『カオラマ』の最終稿に取りかかります)。戯曲を書く上での大きな制約です。戯曲は、声だけでなく声を発する身体もまた言葉と密接に突き合わせながら書かれ、舞台上ではそれに応じた身体が獲得されなければなりません。先に書いたように、あらゆる時制の言葉を、場合によっては異なる人物の言葉を、ひとりの俳優の身体のもと声にし聞こえるようにするのは、とても難しいことです。自分の戯曲が上演されるときに楽しみにしていることの一つでもあります。小説における身体はどうでしょうか。「説明しようとする」語り手もまた身体を持っていると思うのですが、その身体は、描写を語ったスピーカーのようにやはり現在ではないどこかに位置しているのか、過去の出来事の真っ只中にあるのか、書き手のように見えないところにあるのか、お聞きしてみたいと思います。

12月18日 松原俊太郎

『演劇計画Ⅱ -戯曲創作-』

委嘱劇作家:松原俊太郎、山本健介(The end of company ジエン社)
演劇計画Ⅱアーカイブウェブサイト http://engekikeikaku2.kac.or.jp/
京都芸術センター http://www.kac.or.jp/