"Are you still writing that book?"(その本まだ書いているの?)
 自宅近くのカフェで数カ月前に出した本のプルーフ版にメモを書き込んでいると、隣で宿題をしていた八歳になったばかりの長男が聞いてきた。
 昨秋『Haruki Murakamiを読んでいるときに我々が読んでいる者たち』という本を出した。村上春樹が英語圏で最初に読まれはじめた頃を取り上げた、30数名のインタビュー、書簡、ゲラ、新聞報道などをまとめた「文芸ドキュメント」である。村上作品が英語でどのように翻訳/リライトされてきたかについても比較的細かく言及している。ある新聞書評はこの点に言及し、「作家本人の回想も交えた本書が面白いのは、英語版が日本語原文の逐語訳とはとうてい言えないことを明らかにした点である」と評した。
 取材と執筆にはそれなりの時間を費やした。本格的に書き始めたのは2017年に入ってからだが、本で引用したインタビューには2011年に遡るものもある。2017年の冬に最初のゲラが出てからも、新たに村上さんにインタビューする機会を得たり、新しい資料が出てきたこともあり、一年ほどかけて(ゲラに手書きで修正・加筆する形で)書き直した。「あとがき/おわりに」を書き上げたのは刊行の一週間前。その中でも「『おわりに』なんですが、この『本』は、おそらくここで終わりません。今さら申し訳ないのですが、たぶん刊行数週間後には(今度は英語で)書き直しはじめ」るだろうと書いてしまった。長男は、そのバタバタ具合を呆れて見ていたに違いない。
 さすがに「刊行数週間後」には、秋学期も始まり、新刊に関わるインタビューやイベントなどにも追われ、英語版について考える余裕はほとんどなかった。が、数カ月が過ぎ、少し余裕ができたところ、英語版に取り組もうとバウンドプルーフ(仮綴じの見本)を取り出したタイミングでの息子のごもっともな突っ込みだった。
 "I'm thinking of writing an English version." (英語版を書こうと思って。)
 漢字の書き取りをしていた息子の反応は極めてクールなものだった。
 "You should write a new book." (新しいの書かかなくちゃ。)
 キッズミルクを(数年後にはこの世から消え去るであろう)プラスチック・ストローで啜っている息子の横顔が少し大人びて見えた。
 「そうだね」
 そう返しながら、とりあえず付箋だらけのプルーフを閉じ、代わりに鞄から電子書籍端末を取り出した。
 それでも、翌日同じカフェに「週末出勤」すると(次男はクラスメートが遊びに来たときに父親の仕事について聞かれて「カフェで働いている」と答えていた)、再び鞄から表紙が剥がれそうなプルーフを取り出していた。なぜ自分は既に書き終えた(しかも既に何度も書き直した)はずの本をまた英語で書き直そうとしているのだろうか。魅力的な「登場人物」との別れが惜しいということもあるだろう。何年間にもわたり接してきた人たちの話を聞く口実がなくなると思うと確かに寂しい。でも、日本語で書き直したり書き足したりしたいという思いは不思議とない。あくまでも英語で書き直したいようである。なぜだろう。
 英語になれば読める人が増えるからだろうか。でも数千人の読者がさらに数千人増えたところで何かが大きく変わるものでもないだろう。英語で本が出るのが偉いなどという幻想も抱いていない(と思いたい)。英語でインタビューを受けてくれた人たちが本を読めるようにする、というのもひとつのモチベーションだろうけど(になるべきだろうけど)、彼らが本を待ちわびている様子も特にないし、英語版をつくる時間と労力を考えると、理にかなった選択とは言い難い。
 それに単に英語版が出したいだけであれば誰かに翻訳してもらえば良いだけの話だ。アジア圏については、おそらく日本語から数カ国語に翻訳されるだろうというのがエージェントの見解だった。英語版も優秀な訳者仲間にまかせるのが合理的なはず。
 でも、この本を単純に英語に翻訳するのは難しいと思う。そうエージェントに伝えている自分がいた。そもそも他の訳者にお願いするなんて申しわけなくてできない、と。
 とは言え、自ら「翻訳」をすることを考えると軽い吐き気がこみ上げてくる。過去にも「セルフ・トランスレーション」を試みたことがあるが、自らの文章を「忠実」に「翻訳」することほど苦痛を伴う作業はない。机に向かった直後に貧乏ゆすりがはじまり、数分後には冷や汗が噴き出てきて、ふと気づくとリビングの壁に穴が空いていたりする。
 大抵の場合は、「忠実」な訳作りを諦めることになる。David Karashimaが辛島デイヴィッドの書いたものを「翻訳」すると全く別物になってしまう。David Karashimaが書いたものを辛島デイヴィッドが「翻訳」するときも似たようなことが起きる。これだけはどうすることもできない(ようである)。
 辛島デイヴィッドは、どちらかと言うと、自分の気配を極力消し、まわりに気を配りながらものを書いたり訳したり編集する傾向がある。他方、David Karashimaは、もう少しドライに文章を積み重ねて、編集するときは何の惜しげもなくザクザク刈り込んだりする。これは言語の問題なのか、性格の問題なのか。厳密なところは良く分からないが、おそらく筆者の場合は両方が切っても切れない関係なのだろう。
 『Haruki Murakamiを読んでいるときに我々が読んでいる者たち』の評では、「フェアである」や「誠実さが感じられる」などの意見が意外にも多かった。フェアであることも誠実であることも悪いことではないだろう。とくに「ドキュメント」の評価としては。でも、そこには「偏愛」でも良いからもう少し「愛」を感じたい、という批判も含まれているように感じる。辛島デイヴィッドよりも図々しい書き手のDavid Karashimaであればもう少し「愛」のある本にできるのでは。「英訳」を試みているのは、そんな期待があってのことかもしれない。
 "Are you still writing that book?" (その本まだ……書いているの?)
ソファーで再びプルーフを取り出すと、ローテーブルで工作に励んでる長男が聞いてくる。
 "Looks like it." (みたいだね。)
 今度はそう返してはみたものの、そう遠くない未来に今度は付箋だらけの英語版にメモを書き込んでいるところを目撃され、同じ言葉をかけられないものか今から不安でしかたがない。