盛岡にて。東北に通い続けていると、雪を見て初めて「冬」を実感する。


 年末年始、久しぶりに日本で過ごせることもあり、岩手、福島の沿岸の街を巡った。東日本大震災から間もなく8年。変わらず受け継がれてきた宝物もあれば、あの日から時が止まったように取り残されてしまった風景もある。
 私は「あの日」、日本にさえいなかった。フィリピンの山奥で静かな時間を過ごしている最中に、知人からの電話で初めて、とてつもない状況になっていることを知った。まして東北の出身でもない自分が、こうして取材し、発信することに、いつも“後ろめたさ”を感じてきた。ただ、街の人間しか発信できないのであれば、ここで起きたことは街の外ではなかったことにされてしまう、と取材でお世話になった方々が背中を押してくれたのだ。大切なのは、それでも消えない「後ろめたさ」から逃げない、ということだった。
 あらゆる問題に、この「後ろめたさ」は付きまとう。例えば #MeToo の運動でも、「自分も過去にセクハラをしてしまったかもしれない」、「加担してしまったかもしれない」という思いから、躊躇してしまう友人たちもいた。「いまさら声をあげづらい」と。ただ、後ろめたい人が押しなべて皆沈黙すれば、この問題はどこまでも置き去りになってしまうはずだ。
 「沈黙」は一見無害に見えて、暴力的な構造がそこにあるときほど、力のある方へ暗に加担してしまうこともある。「後ろめたい」と感じているときほど、「“だから”もう、終わりにしよう」と声をあげたい。2019年を、理不尽を見過ごさない一年にするために。

2019年1月1日、陸前高田市広田町で臨んだ初日の出