大学生の頃はよくSFを読んでいて、この本もまた必読書としてしょっちゅう挙げられる本だったのだが、かなり最初の方で挫折したのを覚えている。十八歳の頃だ。なんだったら宇宙人カレラン(その時読んでいた早川書房の版ではカレルレン)が出てくる前にやめてしまった。誰の視点で読んだらよいかわからなかったのだと思う。今読み直してみると、普通にその場面ごとに出てくる登場人物の立場から読めばいいだろうと思うのだが、当時の自分にとっては、本書はあまりに俯瞰的な小説であるように感じた。「えらいクラーク先生の壮大な話」を聞こうと意気込んだのに、やっぱりすぐにわからなくなっていちばん後ろの席で居眠りするという感じだった。国連事務総長がいきなり出てくることなどにも怖じ気付いたのかもしれない。このことをずっとふがいなく思っていた。
 けれども今回、クラークが1950年代に超常現象に心酔していたことを知ったり(本書が出版されたのは1953年)、その後すっかり懐疑的になって、ユリ・ゲラーに手玉に取られたことを悔しそうに回顧するというまえがきを読んで、あれ、なんかとっかかれそうだぞ、と印象を新たにし、二十二年前とは違ってとても楽しく読了した。
 若い時も、読めはしなくても「人類がよそから来た宇宙人に教化される。で、どうなるんだろう?」という主題には魅せられていた。あまり人間を信用していなかったから、宇宙人にいいようにされたらいいんだと思っていたのかもしれない。もしくはその反対で、教化なんて差し出がましいことをしてくる連中と人類がどんなふうに戦うかを読みたかったのかもしれない。そして結果から言うと、本書はそのどちらでもない結末を迎える。
 主題もさることながら、宇宙からやってくる悪魔のような姿のオーヴァーロードたちのイメージも魅力的だ。ある日「巨大な影が空を滑るようにして月を覆い隠」しながら、「雲のはるか向こうをゆったりと航行する怪物の群れ」が目撃される。人類よりも圧倒的に高い知性を持つ彼らはニューヨーク、ロンドン、パリ、モスクワ、ローマ、ケープタウン、東京、キャンベラの八都市の上空に巨大な宇宙船を停留させ、国家間の争いを過去のものとするような力を見せつけ、反対勢力のミサイルを消滅させ、地球に安全と平和と繁栄をもたらすことに成功する。人類は、ああもう自分たちがお互いにちんけな戦争に勝利したってどうせこの人たちには負けるんだし、なら無駄だよなという感じで平和になるのだ。動物虐待禁止令を人類に命じた上で、オーヴァーロードが闘牛場の人々に傷を負わせず痛みだけの罰を与える記述は痛快で、上品ですらある。人間の思い上がりの上をいくオーヴァーロードの行動を読んでいると、普段人間しかいない世の中で暮らしている自分の窮屈さが晴れるような気がしてくる。一方で、しかし何か裏があるだろう、と思う。そうやって人々を平和でふにゃふにゃにしたところで一斉に侵略してきたりするはず、と本書に出てくるレジスタンスと同じ疑念を感じながら読み続けるのだが、人類の教化に意図はあっても陰謀はないのだった。
 オーヴァーロードの来訪から五十年後、その監視のもとで人類は、平和で、全員が自己実現できる仕事に就き、週の労働は二十時間で、暇すらも教育の力で乗り越えてしまう時代を迎える。この部分で出てくる人々の描写は絶妙に退屈でいい。焦りも苦しみもなく、男女の恋愛も一時的な契約でくっついたり離れたりする人類は、おそらく穏やかだけれども、現実の現代の人間にも通じるのっぺりした倦怠を漂わせている。そしてオーヴァーロードたちからは片手間的な統治を相変わらず受けている。ある人間の家族に起こった事件の後先について話し合うオーヴァーロードたちの会話の中で「私たちの好奇心など重要ではない。人類の幸福よりもなお無視すべきものなのだ」という言葉が出てくるのだが、彼らの人間への姿勢をよくあらわしていると思う。人類の幸福を無視すべきとした上でなお、争いごとを無くした方がいいというのなら、戦争は間抜けなほど無駄なものなのだろうと思う。
 オーヴァーロードの庇護の元で洗練され尽くしたかのように見える人類はしかし、次の世代と次の局面を迎えることになる。何の不満もなく暮らす人類の子供たちは、超能力を持ち、身体的に分断されながら意識の底では一つの統合体となり、銀河系の外の夢を見るようになり、親と離れて億単位で集合するようになる。細胞の一つ一つのように同じような顔をして、眠らずに一定の動きをしながら移動を続けるという異様な姿に、子供たちは変貌してゆく。新しい力を得た彼らが、月を回転させて遊ぶという場面は特に印象的だ。
 「幼年期の終わり」とされるこれらのあらすじを、むりやり「心当たりのあること」に当てはめたりはしたくない。ただ、人間はまだ途中だと強く思った。何も完成されておらず、もう学ぶ必要もないぐらいの頭のよさを単に現代に生きているというだけで獲得しているわけではない。前の世代の人たちより遅く生まれただけのことだ。わたしたちの現時点での不幸は、もしかしたらカレランが来ていないことなのではないかとも思える。
 新しい世代の子供たちは、どこかミツバチやアリの、集団としての目的を果たすという生態を思い出させる。そんな中、前世代の満足しきった倦怠に馴染めずカレランたちの母星に密航したジャンという若者が、人類のメタモルフォーゼと地球の後先を見届けることになるという展開は、物語としてとてもおもしろい。前世代の人類の最後の一人となったジャンが、地球で過ごす最後の日々の不思議な幸福感が印象的だ。オーヴァーロードたちによって地球に戻されたジャンは、彼らの基地の近くの別荘風の空き家で、一人ピアノを弾き音楽を聴いて過ごす。「幼年期」の人間が発明した最良の喜びを示唆するこの場面は、クラークからの贈り物のように思える。

『幼年期の終わり』(光文社古典新訳文庫)
アーサー・C・クラーク/池田真紀子訳