バーフバリについて、神話から考察を続けてきましたが、その締めくくりとして、男性の登場人物に注目していきたいと思います。
(以下、映画『バーフバリ』に関するネタバレが含まれています。ご注意ください。)

映画『バーフバリ 王の凱旋』より。
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「恋愛遊戯」と「トリックスター」

 『バーフバリ 伝説誕生』の最初の場面。シヴァガミが(てのひら)で赤子のマヘンドラを持ち上げて、自らは川に沈み流されていく。「川に流される赤子の英雄」の神話モチーフです。これは、『マハーバーラタ』を知っている人なら、まずカルナを思い起こすでしょう。カルナは、太陽神と人間の王女クンティーとの間に生まれた子で、結婚前に子を産んだという不行跡を隠すために、クンティーによって川に流され、クル王の御者の夫婦に拾われて養育されました。
 このように「生まれた直後に水界に流され、身分の低い両親に育てられる」という共通点はあるものの、カルナとマヘンドラは神話的には重要な関連は持ちません。生まれの高貴さにかかわらず悪の側に加担したカルナは、正義を貫くマヘンドラとはほど遠い存在です。
 むしろマヘンドラは、カルナの背後にひかえる、「流される赤子の英雄」という世界的な神話モチーフを受け継いでいるものと考えられます。
 たとえばバビロニアの伝説では、父なくして生まれた、後のアッカドの大王サルゴンが、巫女である母によって葦の籠に入れられ、ユーフラテス河に流されました。この伝承は、楔形文字による自叙伝(サルゴン伝説)に、次のように記されています。

「私はアガデの君主、大王サルゴンである。私の母は身分の低い人だった。父のことは知らなかった。父の兄弟は山の住人である。そして私の都アズピラヌスはユーフラテスの岸辺にある。身分の低い私の母は妊娠し、ひそかに私を産んだ。私を灯心草で作った籠に入れ、ピッチで封印して深い川に投げ入れた。だが川は私を呑み込まず、支えてくれた。川は私を灌漑(かんがい)者(水路を引いて農業を行う者)アッキのところへ運んだ。アッキは私を川から拾い上げ、自分の子として育て、私を庭師に仕立てた。庭師として働いているときに、女神イシュタルが私を愛した。私は王国を支配した。」(『世界神話事典』角川選書、243頁より)

 このようにサルゴンも、マヘンドラと同じく、生まれてすぐに川に流され、身分の低い夫婦に拾われて養われています。

 ギリシャでは、「自分の娘の子どもによって殺される」という神託を受けたアクリシオス王が、その娘ダナエを幽閉しましたが、ダナエはゼウスの種を受けてペルセウスを生みました。王はペルセウスとダナエを木の箱に封じ込め、海に投げ入れました。
 この場合は、母と息子がともに海(水界)に流されるという点で、より『バーフバリ』に近い要素を見せています。『バーフバリ』の場合は、確かにシヴァガミはマヘンドラの母ではなく祖母に相当する立場ですが、「母」的な存在であることは間違いありません。
 日本では、同型の話として、鹿児島県の大隅正八幡宮に伝わる『大隅正八幡宮縁起』があります。大比留女が七歳にして太陽神の子を産んだので、怖れをなした父親が母子ともども「うつほ船」に乗せて海に放ったところ、九州南端の大隅国の海岸に漂着した、という話です。
 やはり母と息子がともに水界に流されています。
 神話としてはこの母と息子の水界の旅は、英雄の「二度の誕生」と「通過儀礼」をあらわしているものと考えられます。母とともに籠や箱や船など子宮を象徴する容器にこもり、その容れ物が水界という羊水をただよい、そこからまた生まれることで、「再生」を果たしているのです。赤子ながら生に対する試練を経ているのです。

 このように世界の神話と繋がる要素がありつつも、インド神話内部で考えた場合、マヘンドラはインドの神で英雄でもあるクリシュナに似ています。
 クリシュナの神話には、牛飼い女たちとの愛の戯れの話があります。クリシュナは泉で水浴中の牛飼い女たちの衣を盗み、彼女たちをからかいつつも、その愛に応じます。クリシュナが何人もの分身を作り、一人一人の牛飼い女と愛の戯れをするのです。とくに、牧女ラーダーとの愛の物語は美しい詩にもなっています(ジャヤデーヴァ『ギータ・ゴーヴィンダ』)。これは、マヘンドラとアヴァンティカが映画『バーフバリ 伝説誕生』の前半で繰り広げる恋愛遊戯に通じるものと思われます。
 また、一種の「トリック」を使って戦う、『バーフバリ 王の凱旋』の最後の椰子の木の場面などは、マヘンドラのトリックスター性を表しています。母デーヴァセーナが捕らわれている王城を攻めるため、マヘンドラは椰子の木を見てひらめき、椰子の木がしなるのを利用してそれをバネにし、隊の数人が輪になって盾で自分たちを守りながら、砦の中にミサイルのように隊ごとに跳躍して次々に侵入します。マヘンドラの知恵の勝利の場面です。
 クリシュナも、さまざまなトリックによってパーンダヴァ兄弟を勝利に導いたのでした。

クマラとウッタラ、王子の成長

 『バーフバリ』には、他の登場人物にも『マハーバーラタ』とのつながりが見て取れます。たとえば、デーヴァセーナの従兄弟、クマラ王子です。
 クンタラ王国の王子・クマラは、蛮族ピンダリに国が襲われた時、はじめは女性たちに混じって隠れていましたが、アマレンドラの叱咤激励――「小心者も必ずや勇者になれる。今がその時だ。命を授けるは神。救うは医師。命を守るのが、王族だ」――を受けて、猛然と戦い始めます。
 この場面は、『マハーバーラタ』にある、アルジュナと、ヴィラータ王国の王子ウッタラの話とよく似ています。ウッタラ王子は、国に攻め入ってきたクル軍と一人戦わなければならなくなりますが、怖じ気づいたところに、女装してヴィラータ王宮に住んでいたアルジュナが、戦車の御者となって王子を叱咤激励します。「王族が逃げるなどということは前代未聞です。恐れて逃げるより、戦って死んだ方がよい。」こうして勇気を奮い起こしたウッタラは、立場を変えて、つまり今度はウッタラがアルジュナの御者になり、ともに戦うのでした。(第4巻第36章~第40章)
 王宮で身分を隠して暮らしていたアルジュナが、ウッタラ王子を励まして戦場に駆り立てたように、アルジュナと似たところのあるアマレンドラもまた、身分を隠して王宮で暮らし、戦争になるとクマラ王子を励まして戦場に赴かせています。たいへんよく似た構造になっています。

バラーラデーヴァとドゥルヨーダナ

 『バーフバリ』の登場人物と『マハーバーラタ』の対応をここまで見てきたのですが、『バーフバリ』の悪役、バラーラデーヴァに対応する人物は、いるのでしょうか。
 アマレンドラとバラーラデーヴァ、従兄弟同士の王位を巡る対立の構造は、『マハーバーラタ』のパーンダヴァ五兄弟と、従兄弟のカウラヴァ百兄弟、とくにその長兄ドゥルヨーダナとの対立の構造に似ています。バラーラデーヴァの「悪」は父親譲りのものですが、ドゥルヨーダナも父ドリタラーシュトラ王が息子を甘やかしたために、悪を増長させることになりました。「悪の遺伝」が表現されている、ということでしょうか。
 また、「嫉妬」の要素も重要です。ドゥルヨーダナは徳も富も地位も有するパーンダヴァ兄弟への嫉妬から、大戦争にまで対立をこじらせてしまいました。バラーラデーヴァもまた、民に人気のあるアマレンドラに嫉妬していたのです。そのことは、戴冠式の後の場面からよくわかります。バラーラデーヴァは王冠にむかって、「なぜ私から遠ざかる。なぜおまえはバーフバリを好む」と言って、王冠に乗せた手から血を滴らせます。優れた従兄弟への嫉妬が、二人の悪役に、道を(あやま)たせたのです。

映画『バーフバリ 王の凱旋』より。
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カッタッパとは何者か―通過儀礼と工作の神

 それでは、残された最後の人物を分析したいと思います。神話的には解釈がもっとも困難です。
 アマレンドラが叔父のように慕う、奴隷だが最強の剣士・カッタッパ。しかしシヴァガミの命令により、カッタッパはアマレンドラを殺害しました。その息子マヘンドラが現れると、彼に忠誠を誓い、ともに戦い王位を取り戻させていきます。
 このカッタッパの複雑な役割の原型は、『マハーバーラタ』の挿話の一つに見出されると思うのです。それは、工匠の神トヴァシュトリとインドラの神話にあらわれる、「戦士に通過儀礼を施す工匠の神」のモチーフです。トヴァシュトリは神話において世界を創造した神の一人とされます。建築などの工作をするように、世界を作り出したのです。このトヴァシュトリは、神々の王インドラと対立関係にあることが、しばしば語られています。次のような神話があります。
 トヴァシュトリはインドラを害するために、ヴリトラと呼ばれる蛇の怪物を作り出しました。ヴリトラとインドラは死闘を繰り広げ、とうとうヴリトラがインドラを呑みこみましたが、インドラはヴリトラにあくびをさせて飛び出しました。ヴィシュヌ神の入れ知恵で両者は一旦和平条約を結びましたが、条約の間隙をつくように、インドラはヴィシュヌの助けを得てヴリトラを退治しました。
 この話の中で、インドラはヴリトラに呑みこまれ、また出てきました。死んで蘇ったのです。これがインドラの通過儀礼となりました。つまり工作神トヴァシュトリは、ヴリトラを作り出すことによって、インドラに通過儀礼を施す役割を果たしているのです。
 カッタッパは、トヴァシュトリの末裔として、アマレンドラに死を与え、その息子マヘンドラとして再生させる役割を果たしたのかもしれません。『バーフバリ 王の凱旋』の最後の場面。バラーラデーヴァの虚栄の象徴である黄金像の首が、川を流れ、滝を落ちる。その滝を、『バーフバリ 伝説誕生』の冒頭でマヘンドラが昇ってマヒシュマティ王国に帰還したのでした。このような形で、この長い映画は、最初と最後がつながっていて、円環構造になっているのです。
 めぐりめぐる、インド的な思想のあらわれであると同時に、生まれては死ぬ、それを繰り返す無常観が表現されているように思われてなりません。

『バーフバリ』はなぜ日本で大ブームとなったか?

 アマレンドラ・バーフバリと、マヘンドラ・バーフバリは、これまでになかった「新しい英雄像」なのだと思います。戦士だけどマッチョなだけではない、なにより徳高い英雄像は、ハリウッド映画の英雄とはまったく異なったイメージを提供しており、日本人の心性によく合致したのでしょう。

 人は、現代でも「神話」を必要としているのです。そうは思っていなくても、わたしたちは神話を生きています。
 たとえば人間は、時々物語性のある夢を見ますね。それは、無意識下で人間というものが「物語」を必要としていることの、ひとつの証なのだと思います。そのように、人間にとってなくてはならない「物語」の中でも、「聖なる物語」が「神話」です。「聖なる」というと何か遠いもののように感じるかもしれませんが、わたしたち一人一人が、その物語を大切に、神聖で汚してはならないもの、犯されざるものとして考えていたら、それはもう「聖なる物語」としての「神話」だと言っていいと思うのです。
 映画『バーフバリ』の物語も、観る者の心に浸透し、聖なるものとなり、その人たちの大切な生きる糧となるのでしょう。

(第8回につづく)


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