40年前がどんな世界だったか、覚えているだろうか。私の実家の前の道が舗装されてから数年。テレビ(まだチャンネルをガチャガチャ回すやつだ!)では夏目雅子と堺正章たちが天竺へ向かい、星野鉄郎は銀河鉄道に乗って旅立ち、喫茶店のテーブルにスペースインベーダーが来襲し、ピンク・レディーが「UFO」の一言で視聴者のハートをアブダクションした。

そして、この時代の図鑑によると、恐竜はゴジラのように尻尾を引きずって立ち、体は灰色か茶色か緑色で、腰のあたりにある神経節に助けられて巨大すぎる体をなんとか動かす、ドンくさい生き物であった。

だがその頃、ロバート・T・バッカーやジョン・オストロムの研究を中心として、「恐竜ルネッサンス」、つまり従来の恐竜観を覆す動きが進行していた。それから20年ほどすると、恐竜に関する常識は一変した。まず、恐竜は尻尾を引きずらなくなった。体を水平に保ち、尻尾をピンと伸ばしてバランスを取り、足早に闊歩する活発な動物で、時に集団で狩りをし、自分より大きな恐竜に飛びかかって切り裂き、巣にしゃがみこんで卵を守る、そんな生き物だと認識されるようになっていた。最終的に、このような恐竜の姿を世の隅々まで広めたのは1本の映画――いうまでもなく、『ジュラシック・パーク』である。まあ、あの恐竜像はちょっと革新的すぎで、さすがにティラノサウルスはジープを追い回せるほど速くは走れなかったようだし、ヴェロキラプトルの足の爪も獲物を「切り裂く」ほどの強度はなかったようだが。

そして現在、恐竜は絶滅してなんかいない、という認識になっている。いわゆる「恐竜」は、学術の場では Non-avian dinosaur つまり「非鳥類型恐竜」と呼ばれることが多くなっている。では非鳥類型恐竜ではない恐竜、いわば「鳥類型」恐竜とは? そう、鳥そのものだ。

鳥の先祖が爬虫類であることは昔からわかっていたが、果たして恐竜から分かれたのか、恐竜類とは別の爬虫類から鳥の先祖が分岐したのかはわかっていなかった。だが現在、化石や分子生物学の研究が進んだ結果、鳥は恐竜から直接に進化した動物だと認識されている。

だから、恐竜の一部は鳥と呼ばれて生き残っている、と言っても、間違いではない。これは言葉遊びではなく、分岐分類学の考え方に立てば、こういうことになってしまうのである。恐竜というグループから伸びた一本の枝、それが鳥類であり、現代も生き残っているからといって鳥類だけを特別視する必要はない。現在、我々は鳥しか知らないから、「鳥」を独立した一つのグループとして慣例的に扱っているにすぎない。

ということで、今朝、出勤途中に見た、電線に止まって「カア」と鳴いていた生物は恐竜である。道路ぎわの草の種をつついていた茶色いのも、水面に浮かんでいた連中も、恐竜である。公園でベンチに座っていると「クルックー」と鳴きながら寄ってくるのも、恐竜である。

 

さて、「鳥は恐竜だ」という見解を後押ししたのが、羽毛恐竜の発見だ。最初、羽毛というのは鳥類に特有な、極めて特殊な構造だと思われていた。だからこそ始祖鳥(Archaeopteryx lithographica)が羽毛の痕跡を留めた化石として発見された時、「羽毛があるのは鳥だけのはずだ、ならばこれは鳥ではないか」と判断されたのである。正直、羽毛がなければ「変に前足の指が長い恐竜」にしか見えない。実際、羽毛の痕跡が見つからなかったため恐竜だと思われていた標本が、後に始祖鳥だとわかった例まである。ちなみに、始祖鳥の学名にある「リトグラフィカ」は「石版画(リトグラフ)の」という意味。石版用の粘板岩を切り出している場所でパカンと岩を割ったところ、それ自体が石版画のように、化石が見つかったからである。

さて、始祖鳥は「恐竜のようなのに羽が生えている珍しい奴」として知られるようになった。そして、祖先種から別の形に進化しつつある種、すなわち進化における中間種の絶好の例とされた。ところが、現在では羽毛を持っていた恐竜や、恐竜っぽい鳥は少なくないことがわかってしまっている。となると、その中で始祖鳥だけが特別扱いされる理由はない。今や、始祖鳥の地位は「鳥の祖先はあんな感じだったのかもしれないけど、直系の祖先そのものではないんじゃない?」くらいにまで下落している。宇宙物理学者のフレッド・ホイルには「出来過ぎだから偽物じゃないのか」とまで難癖をつけられた始祖鳥の化石だが、あれがフェイクだというなら、詐欺師だか御用学者だかはもう全力でありとあらゆる恐竜化石に羽毛の痕跡をつけて捏造しまくっていることになる。

ちなみにこのホイルという人、地球上で偶然にも生体分子ができあがる確率は「竜巻きで巻き上げられた部品からボーイング747ができるより低い」として、生命の地球上での自然発生を否定している。彼はパンスペルミア説、つまり宇宙にばら撒かれた生命のタネが地球に到着したという説を支持したが、その生命のタネがどうやって発生したかを考えると夜も眠れない。どうしよう(生命のもととなった物質が地球外に起源を持つという可能性は確かにあるのだが、自然発生を否定するのは困難である)。本業の宇宙物理学では定常宇宙論を唱えてビッグバン説と真っ向対立しているし、逆張りしては自爆するのが好きな、ロックな人だったのかもしれない。

 

さて、1990年代以降、始祖鳥どころか純然たる恐竜、どう見たって空なんか飛びそうにない奴らにまで、羽毛が見つかり始めた。身軽そうなドロマエオサウルス類(ディノニクスやヴェロキラプトルなどを含む、小柄で敏捷な肉食恐竜のグループ)に羽毛があったとしてもまだ許せるが、驚いたことに、ティラノサウルスにも(少なくとも幼体には)羽毛があったかもしれないという説もある。ティラノサウルスといえば大きいもので全長10メートル以上、頭だけでも1.5メートルもあり、その口には最大18センチもの牙が並ぶという怪物だ。

もちろん、もし羽があったとしても、現生の鳥のように立派なものとは限らない。中国で発見されたシノサウロプテリクスの羽毛は毛のようなものだ。一方、ヴェロキラプトルの上腕骨には、現生の鳥類と同様に羽毛の付着部と思われる凹凸があり、しっかり羽が生えていた可能性が高い(飛べたとは思わないが)。しかし…… 恐怖のT—レックスの赤ん坊が猛禽の雛のようなモコモコの綿毛に包まれて「ピイピイ」と鳴きながら餌をねだっている姿を想像すると、可愛いというべきか気色悪いというべきか? もちろんその餌ってのは、食いちぎった他の恐竜だったり、不幸にして襲われたジュラシック・パークの職員だったりするはずである。

いずれにせよ、鳥のような恐竜と、恐竜のような鳥の境目は極めて曖昧で、その区別は困難だ。恐竜の中のどれが鳥の直系の祖先かについてはまだ議論があるにせよ、恐竜と鳥が進化の上で密接に繋がっていることは、ほぼ疑う余地がないだろう。

もちろん、恐竜というのは非常に多様なグループであり、鳥の直接の祖先は、そのごく一部にすぎない。哺乳類にはクジラもいればネズミもいるように、恐竜の一部が鳥っぽかったからって、全ての恐竜が同じように鳥っぽいとは限らないだろう。だが、「恐竜の少なくとも一部は、かなり鳥っぽかった」とは言える。となると、恐竜を考える時、必ずしもワニやオオトカゲを思い描かなくてもいい。鳥だと思ったっていいのである。

 

鳥を見ていて恐竜を感じることは、時々ある(正確に言えば「恐竜とはかくもあるらん」と思いを巡らせる、だ。恐竜を見たことはない)。例えば、大きなカエルをバクッとくわえ、ヒョイヒョイとくわえなおし、頭から「げろん」と一気飲みするアオサギ。あのキョトンと丸いくせに何を考えているかわからない目つきや、耳まで裂けた口は、なかなか油断ならない。目について言えば、鳥の目はだいたい怖いのである。メジロだっていいかげん目つきは悪い。「メジロちゃん、かわいー」などというのは、目の周囲の白いアイリングに騙されているだけである。嘘だと思ったら、うんとアップでメジロの目を覗き込んでみるといい。アーモンド型の褐色の虹彩の中から、黒い点のような瞳があなたを見下ろしているはずだ。あなたがメジロを覗き込むとき、メジロもまたあなたを覗き込む。

 

だいぶ前、天王寺動物園を訪れた時だ。広い放飼場があって、1羽のでっかい鳥が歩いていた。体は黒い羽毛に覆われ、むき出しの首から頭にかけては真っ青で、頭のてっぺんには烏帽子のようなトサカがあり、ぶっとい足をヒョイ、ヒョイと進めるたびに、首の途中の赤い肉垂がぶらぶらしていた。

こいつはヒクイドリ、オーストラリアとニューギニアにいる大型の飛べない鳥だ。全長は2メートル近く、体重は50キロ以上、ダチョウに次いで重い。生息地に行けば、こんなのが熱帯の密林の中を歩いているのである。

私は放飼場の柵に近づいた。ヒクイドリは赤い目をギョロリと動かしてこっちを見ると、体の向きを変え、ノシノシとこっちに迫ってきた。のみならず、ぶわっと羽毛をふくらませ、カッと口を開けた。赤っぽい口と青い首、そして黒い体のコントラストが目の前に広がる。前かがみなので身長はそこまで高くないが、丸く瞬きをしない目で見据えたまま向かってくるその姿は、まさに「恐竜」だった。そう、私は恐竜の生き残りに威嚇されたのである。その迫力たるや、人間が勝てるものではなかった。私はちょっと距離をあけて見物することにした。

多分、実際の恐竜も、あんな感じの生き物だったのだろうと思っている。ただし、ヒクイドリは果実食が主体の雑食性で、大きな動物は捕食しない。だから怒らせない限りは人間を襲ったりしないが、肉食恐竜なら、人間を見た瞬間に餌扱いしかねない。鳥が獲物を食べる時どうするかを考えると、これは戦慄すべき事態だ。猛禽ならまだいい。彼らは強力な爪を叩き込むか、嘴で頸椎を噛み砕いて獲物を即死させる。怖いのはもっと小さくて力のない鳥だ。スズメは青虫を捕まえると嬉しそうにビッタンビッタンと道路に叩きつけてペッチャンコにし、中身だけチルチル吸っていたりする。カワセミは暴れる小魚の尻尾をくわえ、力一杯振り回して枝に脳天を叩きつける。そしてカラスなら、相手が動かなくなるまで首筋をつついて、最後は頭を引きちぎる。

もし恐竜も似たような流儀を持っていたなら、同じ時代に生きていなくて本当に良かったと思う次第である。

映画『ジュラシック・パーク』のラストシーンは極めて象徴的だ。さんざん恐竜に追い回され、命からがらヘリコプターで脱出すると、夕日を浴びて編隊を組んで飛ぶプテラノドンの群れが! ……と思わせて、ペリカンの群れ。「ああ、日常に帰ってきた!」あるいは「鳥でよかった!」と思ってから、「でもプテラノドンが飛び回る姿、見てみたかったな」とも思わせる心憎い演出だ。

そして、「鳥って要するに、現代に生き残った恐竜だよね」という意味でもあると思う。

「恐竜です」