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おかぽん先生青春記

 米国メリーランド大学の大学院生の暮らしは概ね地味である。講義はきちんと履修せねばならない。1科目でもDがつくと放校処分である。実は俺は2年目の講義でDを喰らってしまったのだが、その話はいずれ。1つの講義を履修するには、10週にわたり各週1回の講義を受ける。1コマの講義は45分であり、集中力が続く範囲である。しかし、予習と復習に同じくらいの時間を必要とする。俺は留学生でありガイジンであったので、予習と復習にさらに多くの時間を必要とした。最初の1年の間、俺は教師の許可を得て講義を録音させてもらった。わかるようになるまで何度も聞き返さなければならなかった。録音機があるだけ野口英世よりましな境遇だ。しかし1984年である。インターネットもグーグル翻訳もなく、自分で聞き取れるまで聞き取るしかなかった。
 講義と並行して、教科助手の仕事があった。こちらは学部生の実験実習の指導であった。俺はハトを使った条件づけの実習を受け持っていた。お腹を空かせたハトを小さな実験箱に入れる。実験箱は、ハトがボタンをつつくと餌が出るようになっている。1度餌を得るまでのボタンつつき回数やつつき続ける時間などを論理回路によって制御する。これを強化スケジュールと言う。さまざまな強化スケジュールに対応するハトのボタンつつき行動を、累積記録器で記録する。累積記録器は、ゆっくりと送り出されるロール紙の上で、ハトが1度つつくごとに一定の距離ペンが動く仕組みである。このことで、ハトが急激にボタンをつつけば急峻な線が描かれ、ゆっくりつつけばなだらかな線が描かれる。強化スケジュールと累積記録から、行動の普遍的法則を探る。
 以上が当時心理学研究室で隆盛を極めた行動主義心理学の基本的な研究パラダイムである。俺はこの辺りのことは慶応大学で厭と言うほど仕込まれたので、英語でしゃべる以外は問題なくこなすことができた。俺の仕事は研究パラダイムを説明し、ハトの持ち方を説明し、実験の仕方を説明し、得られた累積記録から結果の解釈を説明することであった。以上を英語でしゃべるのだが、あくまで技術的な内容であり、なんとか学生達に通じさせることができていたようだ。ただし、授業の最初に学生に以下を伝えた。「いいか、俺の英語ではLとRの区別をつけないぞ。日本語ではそんなものは区別しないのだ。君たちは文脈によってLかRかは判別せねばならぬ。そこんとこ、よろしく」。学生はむしろ面白がって俺の英語を解読しようとしていた。
 講義や実習は大体午前中に終わり、あとは研究時間だ。研究とは、実験制御のためのハードウエア作り、プログラム作り、実験そのもの、データ分析、論文書き、および動物の世話から成る。ハードウエアとは実験箱や音響装置、論理回路等である。プログラミングとは、論理回路を配線することと、コンピュータ(当時はパソコンの黎明期で、CP/MというOSで動くパソコンを使っていた)でこれらの論理回路を制御することである。実験というのは、実験対象となる動物(鳥)を飼育室から連れてきて実験装置に入れ、しかるべきプログラムを使って動物の聴覚を測定することである。データ分析とは得られたデータから鳥の聴覚能力を計算することである。論文書きとは、これらのデータをもとに、自分が何を発見したのか他人にわかるように、英語でまとめることである。これがいちばんたいへんだったし、今でもたいへんである。動物の世話は月から金までは学部生のバイトがやってくれた。このうちの一人が、前回の話に出てきたキャロリンであった。さらに、心理学・動物学棟全体で2名の獣医師を雇用していたので、動物の具合が悪いときには獣医師に相談した。俺たち大学院生は、土日の世話を分担してやっていた。俺はガイジンだったので社会活動(デートやらお出かけやら)がほとんどなかったため、むしろ土日に働き、平日に1日休んで美術館やら博物館やらに行っていたものだ。ここはメリーランド、ワシントンDCには1時間くらいで行ける。ワシントンDCには観光資産がたくさんあるのだ。平日に休むことを指導教員に納得させるのには手間がかかったが。

 昼ご飯は同僚のトムやシンディと食べることもあったが、多くの場合俺はひとりで生協に行き、共産主義者たちが集う店でベーグルを食べた。この店を愛用していた理由はとにかく安かったからである。ベーグルのコーヒー付き、1ドル以下で済んだのだ。画期的なプログラムが出来ると俺は指導教員のボブにそれを自慢し、昼食をおごってもらった。ボブはどケチなので、昼食をおごると言っても、大学構内のレストラン学部の実習用レストランに連れて行かれて2ドルのスープセットをおごってくれるだけであったが、それが割とおいしいのであった。俺はここで初めてオニオングラタンスープとガーリックトーストを食べ、アメリカにもおいしいものがあることを認めた。しかしオニオングラタンスープはフランス料理だよな。
 俺以外の大学院生はみな5時頃かえってしまうので、夕ご飯もひとりで生協に行った。生協にはロイ・ロジャースというハンバーガー屋があり、チーズバーガーが2ドルで食べられた。俺はチーズバーガー2ドルと無料の水道水をもらい、小説かパソコン雑誌を読みながら夕食を食べた。しばらくすると、学生たちはハンバーガーの他にサラダを食べていることに気づき、よく観察していると、レジを出た後にハンバーガーにサラダを挟む場所があったのだ。今では日本にもこのシステムは普及し、サラダバーと呼ばれている。俺もこれをまねして、ハンバーガーにサラダを挟むようになった。当初は文字通り挟んでいたのだが、とあるアジア系留学生がハンバーガーの包み紙にサラダをてんこ盛りにするのを目撃し、俺もそれを模倣することにした。サラダバーにはレジを経由しないと行けない。つまり、逆流はできないため、一度でできるだけ大量のサラダを盛ることが勝負であった。俺はだんだんこれに習熟し、包み紙に大盛りのサラダを載せるようになった。トマトは食えないのでトマト抜きね。
 夕食を早めに食べ、サラダをてんこ盛りにすることを学んだころ、ロイ・ロジャースにかわいらしいアジア系のレジ係がつとめるようになった。フィリピンから来たという。この娘さんは、俺の会計を半額適度にしてくれるので、最初は間違いかと思って指摘した。が、「ううん、いいの」と言うので、お言葉に甘えて割引価格でハンバーガーを食べるようになった。そのうち俺は調子にのり、飲み物やデザートもつけてしまうようになったが、それでも割引セールは続いた。このように、夕食だけで1日分のカロリーが取れることがわかったので、俺は昼食を共産主義者の店で食べるのを止めにして、一日一食となった。このような生活を2年ほど続けると、60キロだった俺の体重は49キロになった。

 諸君、これが俺の大学院生生活である。ロイ・ロジャースの娘さんとは何もないままいつの間にか彼女はいなくなり、特別割引セールもなくなってしまった。

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考える人とはとは

 はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
どうして自分が「考える人」なんだろう―。
手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか―手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。

「考える人」編集長
金寿煥

著者プロフィール

岡ノ谷一夫

帝京大学先端総合研究機構教授。1959年生まれ。東京大学大学院教授を経て、2022年より現職。著書に『「つながり」の進化生物学』『さえずり言語起源論』などがある。

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