民間にできることは民間で

 1890(明治23)年12月23日、民党が多数を占める衆議院予算委員会総会では、戦後に東大教養学部となる第一高等学校の前身、第一高等中学校など5つの官立高等中学校の予算を全削除する案が提出された。つまり、高等中学校の廃止である。高等中学校のみならず、女子高等師範学校(現お茶の水女子大学)、東京音楽学校(現東京藝術大学)の廃止、さらには東京盲唖学校(現筑波大学附属視覚特別支援学校)の廃止も次々と提案された。日本に国会が開かれて真っ先に焦点となった教育問題のひとつが、官立つまり国立学校の廃止だったのである。そして、予算委員会は盲唖学校を除くこれらの学校の廃止を賛成多数で可決した。帝国大学に関しても、予算が18%カットされた(羽田貴史「明治国家の形成と大学・社会」)。
 もちろん、予算委員会でも反対論はあった。たとえば政府寄りの「吏党」と呼ばれた大成会に属する中村彌六(長野6区)は、将来的には各地の高等中学校を是非とも大学にしなければならない、そのためには学校を残す必要があると主張した。
 民党からも反対があった。たとえば、東京専門学校講師を務め、のちに早稲田大学学長となる立憲改進党の天野為之(佐賀2区)は、高等中学校存続を主張し、調査委員を設置して制度の研究と調査を行った上で存廃を決すればよい、と訴えた。教育制度全体を見ずに学校を個別に廃止していくと「あとで、とんでもない間違を起す事がある」からである。

天野為之(1861-1938)

 しかし、これらの意見は予算委員会では通らなかった。すでに触れたように、第一議会における民党側の目標は「民力休養」のための地租軽減を可能にする政費節約である。大鉈を振るうのに躊躇がない代議士が多かったこともあるだろう。だが、背景にはそれなりの教育論も存在していた。それは、廃止論者の最大公約数として、受益者が少数にとどまらざるをえない高等教育への国家の関与をなるべく減らしたい、そして民間にできることは民間に任せたい、というものだったと思われる。廃止提案者で立憲自由党の堀内賢郎(長野3区)が「我々は国費を以て少数の人を教育する事を好みませぬ。普通の教育は兎に角高等教育、所謂僅々少数の人に教うる事まで国家が世話するに及ばぬ」といい、また同じく立憲自由党の駒林広運(山形3区)が「今や教育心は大に発達して居るから……斯くの如き必要なるものは、民間に直ちに起ると見做して差支あるまいと思います」と述べているのはその代表的な例である(「衆議院予算委員会速記録第11号(総会)」。原文はカナ、旧字旧仮名遣いは改めた)。
 今日では、日本国の高等研究機関や高等教育への公的支出の少なさ(とくに対GDP比)が問題となっており、野党をはじめ政府の文教政策に不満を持つ人々も口々にそのことを批判している。明治期の反政府党はその逆で、減税(地租軽減)を実現するという大目標の下、政府は民間でできることから手を引くべきであると訴えていた。社会に需要があれば必ず社会に供給があると考えていたのである。

日本的学校と西洋的学校

 帝国議会において最も整然とした形で高等中学校廃止論を主張したのは、立憲自由党の宇都宮平一(鹿児島4区)である。1858(安政5)年に鹿児島で生まれた宇都宮は、藩校で学んだのちに藩費生としてフランス人から語学の教授を受けた秀才であったが、1877(明治10)年の西南戦争では西郷隆盛に与し、私学校党の一員として官軍と戦った。
 宇都宮が衆議院での論戦に参加するのにふさわしい人物であるのは、この経歴の故ではない。彼が教育者であり、自党が攻撃している第一高等中学校の教諭という前歴を持つからである。

第一高等中学校

 宇都宮は西南戦争ののちに上京し、三菱商業学校などで学び、朝野新聞の上海特派通信員、同地に設立された亜細亜学館の館長(代理)、第一高等中学校に多数の合格者を出した予備校として知られる東京英語学校の教員を経て、第一高等中学校教諭に採用された。1889(明治22)年9月、脳病を口実に第一高等中学校を退職、翌年に郷里の鹿児島から総選挙に立候補し、みごと議席を獲得した。つまり、各地の尋常中学校を出た生徒に受験教育を施して第一高等中学校に送り出す立場と、それを受け取る立場の両方を知っている人物なのであった。その高等中学校廃止論は実地に根ざした説得力を持っていたと思われる。
 1891(明治24)年2月14日、衆議院の演壇に立った宇都宮は、まず自分の高等中学校廃止論が民党の獲得目標である政費節減ではなく、根源的な教育改革論であることを力説する。そもそも、なぜ高等中学校が必要になったかというと、宇都宮の見立てでは、文部省の見込み違いが原因である。地方に尋常中学校を多数設けたからには、そこからただちに大学なり、高等専門学校に入学させるルートを想定していたはずである。ところが、尋常中学校の教育が不整備で、生徒の学力も低く、とても大学などの高等教育機関にそのまま接続できないことが明らかとなった。
 宇都宮がいうには、日本の教育システムは「日本的学校仕組と西洋的学校の仕組」の二重構造になっている。本来、小学校・尋常中学校を一階とすれば、大学および高等教育機関は二階にあたる。ところが、根本的な「仕組」が違うので、容易には二階にあがれない。これが中二階として高等中学校が必要になった理由である。
 「大学校は外国の出張大学校を見たような学校で、中小学校はどうであるかと云えば、国語を以て重に教える所謂日本的の学校である。文部省では之を牽連して続が出来るようにし 遣った(ママ)に違いない、其処で始めは中小学の教育は国語を以て教て、日本の固有の仕方に依って教える考であった。其処で之を一統の系統にしてやろうと云うことならば、即大学校をしてもう少し日本的にならしむるか、然らざれば初の方針を変じて、中小学を大学的の方に傾けて、もう少し数学或は英学の如きものを盛んにやらなければ、どうしても、続合が取れない」(「衆議院議事速記録第44号」)。
 明治20年代のこの時期になっても、日本語では高度な学問はできないと考えられた。だから大学の学問は、どうしても外国人教師に就いて、外国語で、外国のやり方で学ぶことになる。宇都宮が日本の大学(つまり帝国大学)を「外国の出張大学校」と呼ぶ所以である。
 ところが、この「外国の出張大学校」に入ろうとする若者がそれまで受けてきた教育は、日本語による日本的な教育である。ここをうまく接続するには、大学が日本の教育の実情にあわせるか、逆に小学校や中学校が数学や英語を強化して大学にあわせなければならない。
 それができていないので高等中学校を作り、さらに不足する学力を補うために3年の予科の課程を作り、それでも追いつかないので第一高等中学校以外は2年の補充科を作る必要が生じている。つまり予科・補充科を含めた高等中学校と尋常中学校が二重になって並存している。これは大変な無駄というべきである――宇都宮はこう訴えた。

日本の教育システムの二重性

 この宇都宮の指摘は、思想史研究や評論においてたびたび論じられてきた、戦前期教育システムの二重性の問題が、この時期から芽生えはじめたことを示唆している。
 かつて鶴見俊輔は、久野収が『現代日本の思想』(岩波新書)で展開した議論を引き継ぎつつ、次のように語ったことがある。戦前の日本には、天皇を中心とした国家観に基づく大衆教育が「顕教」としてあり、その一方でエリートだけに教えられる「密教」すなわち西洋の科学技術や統治論があった。前者の例が小学校で叩き込まれる教育勅語であり、後者の例が天皇を国家の一機関に位置づける天皇機関説である。
 「十五年戦争の始まるまで、日本の教育体系は二つに分かれて設計されていました。小学校教育と兵士の教育においては、日本国家の神話に軸をおく世界観が採用され、最高学府である大学とそれに並ぶ高等教育においてはヨーロッパを模範とする教育方針が採用されていました。日本の指導者となることを期待されている人々は、国際的な大海においてこの国のカジをとって進めるために十分な知識をもつ専門家として訓練されなければなりませんでした。そういう区別を明治日本の設計者はもっていました。明治の設計者の観点からすれば、日本人は一つの国家宗教の密教の部分と顕教の部分とのそれぞれの信者として別々に訓練されるべきでした。それがこの新国家のもともとの建築技師たちが、鎖国状態から由来するさまざまの日本の困難と取り組む工夫でした」(鶴見俊輔『戦時期日本の精神史』)

鶴見俊輔『戦時期日本の精神史』


 教育勅語が下賜されたのは、帝国議会が開会する約一ヶ月前 のことだった。宇都宮の演説は、大衆にも理解できる言葉と概念で行われる教育と、近代国家の運営に参与し、社会をリードするための教育との間には、外国語学の習得のみならず思考法を根本的に改めるという〈命がけの飛躍〉 が必要になってきたことを示している。丸山眞男の言葉でいえば、町工場の親方、土建請負業者、小売商店の店主、大工棟梁、小地主などからなる「亜インテリ」を養成する教育と、都市サラリーマン階級、文化人、ジャーナリスト、大学教師などからなる「インテリ」を養成する教育の断絶といえる(「日本ファシズムの思想と運動」)。
 鶴見にとって、アジア・太平洋戦争にいたる道は、大衆が小学校で叩き込まれる神話的天皇観つまり「顕教」が、エリートが学ぶ天皇機関説つまり「密教」を圧倒する過程であり、丸山にとっては「亜インテリ」が「インテリ」を圧倒する過程であった。
 現在の予備校にあたる学校と第一高等中学校の両方で教鞭をとった宇都宮は、その両者の断絶ができはじめたことを身をもって経験したのかもしれない。

高等中学校に代わるもの

 宇都宮の指摘はそれだけではない。高等中学校という存在は、東京一極集中の構造を温存してしまう、という。この点に関して、すでに2週間前の1891(明治24)年1月29日、衆議院全院委員会において立憲改進党の立入奇一(三重6区)が、政府委員の辻新次(文部次官)に対して次のような質問を行っていた。地方都市に高等中学校が置かれている理由は、生徒が東京に来ることで「軽薄の習慣」が身につくことを防ぐためでもあると聞いているが、なぜ各種の学校が東京に集中しているのか。これに対して、辻は「成丈然う都下に住まぬことを勉める訳でありましょうけれども」と応じた(「衆議院議事速記録第32号」)。
 これを受けて宇都宮はいう。たしかに、大学への進学ルートが大学予備門だけであった頃は、所在地である繁華な東京に「心身未熟の青年子弟」が集まり、堕落するという弊害があった。また「青年子弟」がたくさんの金を携えて上京することで、地方の金を東京に吸い上げるという弊害もあった。文部当局は、それらの問題を解消するために全国を5学区に分けて仙台、京都、金沢、熊本に高等中学校を作った。そのことは理解できる。だがそれぞれの学区は広い。高等中学校が所在する都市以外の人々にとっては、子弟を仙台や京都に出すのも東京に出すのもさほど変わらない。結局は東京に出したほうが話は早いので、なんだかんだいっても東京に人と金が集まるシステムが温存される。
 それでは、高等中学校の廃止によってなにが変わるのか。第一に、東京や大阪の私立学校が、大学への予備教育を担当するようになる。宇都宮によれば、東京や大阪の私立学校であれば、高等中学校程度の教育を行うことは十分可能である。これは民党代議士に典型的な〈民間でできることは民間に任せろ〉という主張といえる。
 第二に、高等中学校を廃止するかわりに、各道府県に必ずある尋常中学校を政策的に底上げすることができる。たとえば、青森の人間にとっては子弟を仙台に出すのも東京に出すのもさほど変わらないかもしれないが、弘前や八戸に高等教育機関と接続する学校があったならば話は変わってくるだろう。宇都宮は「今の国費を以て支える所の高等中学校は、二三の地方の為に、或は数箇所の地方の為に利する所があって、一般に良家の子弟に利益する所は少ない。即不公平である。偏頗である。同じく国費を以て支えて行きまする以上は、此の全国の良家の子弟に均しく――広く及ぶようにした方が最 宜しいと考える」と主張した。

私立学校の危うい土台

 では、尋常中学校の政策的強化はひとまずおくとして、私立学校は本当に高等中学校の教育機能を代替できるのか。民党代議士の高等中学校廃止論を考える上で、そこはひとつの大きな論点になろう。もちろん文部当局は、政府委員の辻が「高等中学と云うような全部の揃ったものはありますまい、私立学校の中には……」と述べているように、少なくとも現状においては否定的である。高等中学校は、第一義的には高度の「普通学」を教え、大学の予備教育を行う学校である。第一高等中学校の科目には、文系理系の違いはあっても国語・漢文、第一外国語、第二外国語、ラテン語、数学、生物学、物理学、化学、地理学、地質学、天文学、歴史、哲学、理財学、体操などがある。これらを担当できる教員を私立学校がフルスペックで揃えるのは、たしかに困難に見える。
 私立学校関係者はどう見ていたのか。実は、帝国議会においては彼らもまた否定的であった。宇都宮の後に演壇に立ったのは、ほかでもない、天野と同じく東京専門学校講師を務め、のちに早稲田大学総長となる立憲改進党の高田早苗(埼玉2区)であった。なお、天野、高田、坪内逍遥、市島謙吉の4名は、早稲田大学の基礎を作った人物として「早稲田四尊」と関係者からは呼ばれている。

高田早苗(1860-1938)

 その高田は、天野と同様、高等中学校の廃止に反対した。高等中学校は、帝国大学入学にどうしても必要である。廃止論者たちは、高等中学校がなくなればすぐこれに代わる仕組ができるだろう、もしくは社会にこれに代わる仕組があるだろうと考えているようだ。だが、もし代用の学校が不具合であったならばどうなるか。
 「普通学なるものは専門学の根拠である。普通学を充分に修めざる所のものが専門学を修めても、充分に之を応用することは出来ない。恰も土台のぐずぐずして居る所、地盤の緩い所へ、煉化石造の家を建てると同じことである。それであるから普通学の教え方の適当と不適当と云うことは、余程其の人の専門学を修めるときに関係を持つ――非常なる関係を持つと云うことは明である」
 高等中学校で学んでいる「普通学」が充分でなくなったら、大学での専門教育が揺らぐことになる。大学生の学力は下がり、卒業生である学士の学力が下がり、結果として日本の将来に禍根を残す。
 では、高等中学校廃止後にその役割を担うことを期待されている私立学校はどうか。高田は、私立学校である東京専門学校の創立に深く関わり、現に関わっている人間でありながら、きわめて悲観的である。「此の私立学校と云うものには、諸君の中にも御承知の方もありましょう、私も随分経験がある。長く私立学校に関係を有って居る。私立学校の立派な のは今日東京に幾らもあることは、諸君の知らるる 所である。私立学校なるものは却って専門学を教うるには適するが、普通学……高等の普通学を教うるには中々 下(不)適当なるものである」。
 高田は、政治学、法律学などの専門学については、私立学校も良好な成績をあげているという。だが、普通学を教えるとなると、当然理化学も教えなければならない。施設や器械が必要となる。貧乏な私立学校にそれを用意するのは無理であると考えていた。
 たしかにそうかもしれない。だが、高田の演説には大きな矛盾がある。高田は、専門学とはしっかりした普通学の土台の上に学ばれるべきものだといった。その普通学を提供する高等中学校がなくなれば、大学で学ぶ専門学の土台が揺らぐ。だから高等中学校を廃止してはならない。これが高田の主張であった。では、そのしっかりした普通学を経ないで東京専門学校に入学している多くの者が学ぶ政治学や法律学などの専門学は、いったいどうなのか。良好な成績をあげていると高田はいうが、実のところ土台のグラグラしたものということになってしまうのではないか。高等中学校の普通学に接ぎ木される帝国大学の専門学だけが正統で確固としたもので、私立学校の学生の専門学は怪しいものだということにならないだろうか。つまり、みずからの学校を二流以下に位置づけるものではないだろうか。
 帝国議会での審議はその後、天野や高田が主張した方向性で推移していく。それは、最終的に高等中学校―帝国大学というルート、つまりのちの高等学校―帝国大学というルートが、民党の攻撃をしのいで生き残ることを意味していた。 

(第8回につづく)