雅子妃をめぐっての皇太子の発言以降、何かが変った、という気がします。十年、二十年前に較べると、かなり自由に天皇制について語ることのできる風潮が出てきたのではないか。たとえば月刊誌『諸君!』(文藝春秋社刊)の7月号の特集「天皇と皇室の21世紀」などを読んでいると、天皇制の是非まで含めて、様々な人が様々な立場で実に率直な意見を書いていることに少々驚かされます。二十年前に同じ特集を組んだとして、ここまで率直な意見が出たかどうか。

 皇太子の発言がひとつのきっかけを作ったことは間違いありませんが、そもそも、時代の空気じたいが私たちの気づかぬままに変りつつあるのかもしれないのです。それでは時代の変化とはいつ始まって、どのように進行しているのでしょうか。

 今回の養老孟司氏の連載では、天皇制について、誰も指摘しない角度から、かなり大胆に筆を進めています。天皇を論ずることはすなわち私たちの現在の姿を映す鏡である、という視点です。私たちはどこかで「他人事」として天皇制を考えているのです。自分たちとは別の世界の、無縁の出来事として皇太子の発言を聞いている。しかし、どうやら事態はそれほど気楽なものではないらしい、と気づかされるのが、今回の養老氏の原稿です。

 周到に、そして細心に推敲を重ねて書かれたはずの原稿は、全文を読んでいただくことでしかその主旨は伝わりませんが、原稿の冒頭、半ば、後半からそれぞれ一箇所ずつ以下に引用しておきます。これらの部分がどのようにつながっていくのかは、ぜひ本文にあたっていただければと思います。

 時評の類をよく書くわりには、ふだんあまり考えない問題がある。その一つは、天皇制である。たまたま雑誌から天皇制についてコメントの依頼が来たので、あらためてそう思った。私の年代では、天皇陛下が途中で神様から人に変わった。若い人は、それを知らないであろう。そのせいか、天皇制と聞くと、どこか「触らぬ神に祟りなし」という気もするのである。

「ただの人」が多くなった社会は、アメリカ、あるいは現代日本のようになる。それを文科系の学者は大衆社会という。そこにないものは、はっきりしている。いわゆるエリートである。この場合のエリートは、生まれつきノブレス・オブリジェを背負う人である。アメリカはもともとそういう人がいない。日本ではいまや皇族だけであろう。それも実質的な義務はほとんど負っていない。

 欲をいうなら、国家百年、千年の計は、君主つまり天皇陛下の下で、少しでもやってもらえればと思う。複数の家族とはいえ、拉致問題や人質問題であれだけの騒ぎになる(失礼!)のだから、現役の首相は忙しくてたまらないであろう。それなら長い目で見た日本の将来、そんなことに政治家は頭が回らないはずである。じつは日本の将来にとって大切なことがたくさんあるはずで、いまの日本はそれを考える余裕があると私は思う。環境問題はその第一であろう。こういう問題は、目先がどうのこうのではない。しかし着実に資料を集めて、準備しておくべきことなのである。その意味で、長い先のことを考えるには、世界でいちばん古い家族をトップに立てるのが、まさに適当であろう。

(養老孟司「ただの人」より)

 天皇制を考えることで始まった養老氏のノブレス・オブリジェ論は、次回へとさらに続くことになりました。「万物流転」は思わぬ展開を見せ始めています。引き続き養老氏独自の論にご期待ください。