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18世紀末の音楽家の地位

  教会から劇場へという音楽の空間移動が、音楽家は誰のために作曲活動をするのか、という「送り手」側の事情を変えていくことになる。その典型的な例として、モーツァルトとザルツブルク大司教のコロレード(1732-1812)の確執と決裂があげられよう。
 マンハイム・パリ旅行から帰ったモーツァルトは、1779年、23歳の年にザルツブルク大司教の宮廷・聖堂オルガニストに復職している。しかしミサを2曲、晩祷(Vespers)など教会用の小品を作曲しているものの、主力作品は、2台のピアノのためのコンチェルト、交響曲、バイオリンとビオラのための協奏交響曲、バイオリン・ソナタ、セレナーデ、喜遊曲など、およそ宮廷や教会で演奏されうるような形式の音楽ではなかった。2年後の1781年、こうした職務怠慢(典礼軽視!)を戒められたのを機に、大司教と大喧嘩をしてモーツァルトはウィーンに移り住むことを決意する。宗教権力の庇護の下にあったものが、自由の代償として自分自身で収入の道を探し求めなければならなくなったのだ。

コロレード大司教


 モーツァルトとコロレードの関係は単なる人格的な対立ばかりではなかった。大司教には、モーツァルトのいくつかのオーケストラ用の作品の内容が複雑に過ぎ、スコアリングも和声の豊かさも理解を越えるところがあったのだろう。コロレード大司教が、モーツァルトの後任としたのはアル中気味のミヒャエル・ハイドン(ヨーゼフ・ハイドンの5歳下の弟)であった。それはミヒャエル・ハイドンの音楽の分かりやすさゆえであったと筆者は推量している。
 コロレードとの対立を、当時の宗教権力と音楽家の関係として見ると、その社会的背景が少し具体的に浮かび上がって来る。その様子をモーツァルト家の書簡から読み取ってみよう。
 コロレード大司教は自分の父の病を見舞うために、1781年1月、ザルツブルクからウィーンへ、行政官、書記官、料理人、側用人、従僕、音楽師を含む随員団を伴った大旅行を敢行している。モーツァルトはその随員のひとりであった。大司教は、当時の社会感覚通りに音楽家モーツァルトを単なる家事使用人とみなしており、自由を求める作曲家、あるいは演奏家としての社会的な敬意を求めるモーツァルトと、コロレードとの感覚の「ずれ」は大きかった。それは芸術における美、あるいは人格の美に対する考え方の根本的な違いから生じた「ずれ」であり、音楽の芸術としての意味に対する理解の根本的な不一致から生まれたものに違いない。ウィーン滞在中も二人の間にはいざこざが絶えなかったようだ。
 1781年6月20日のモーツァルトから父レオポルドへの手紙で、コロレード大司教が使用人や従者を勝手気儘にあしらうことに腹を立てていることを記して、自分が道徳的にも芸術的にも貴族であることを誇らしげに語っている個所がある。その3か月後、モーツァルトはコロレードに辞意を伝える。彼はウィーンに留まることを心に決めたのだ。当時のオーストリア社会では「音楽師」は貴人の身の周りの世話をする使用人よりも下にみられていた節がある。そうした扱いにモーツァルトは痛く傷つけられたのである。だが、父レオポルドは息子の辞任を喜ばない。たんに親子の活動の場がザルツブルク(父)とウィーン(息子)とに分かれてしまうだけでなく、経済的な打撃を案じたためであった。

レオポルド・モーツァルト
 

「使用人」としてのモーツァルトとハイドン

 1781年3月から6月にかけてのモーツァルトの父への手紙は、彼の大司教に対する怒りが沸騰しているような筆致のものが続く。そして自分は「素晴らしい場所、自分の職人技(metier)にとって世界で最高の場所」であるウィーンにとどまると宣言するのだ。大司教との決別と父からの独立は、精神的自由と経済的な困難を同時にもたらす一身上の大事件でもあった。
 もちろんこうした諍いは、一方の言い分だけで判断するのは不公正であろう。コロレード大司教が一方的にモーツァルトを虐待したという話ではなかったとも考えられる。大司教側のモーツァルトへの「虐待」がある種の通説となるのは、コンスタンツェ(モーツァルト夫人)が再婚したゲオルク・ニコラウス・フォン・ニッセンが、1828年に『モーツァルト伝』(Biographie W. A. Mozarts)を出版してから後のことであった。「抵抗の精神」のあるモーツァルトに、雇われ人としての扱いにくさがあり、決して恭順な使用人ではなかったことは十分想像がつく。
 ともあれ、ウィーンに移り住んでから10年間のモーツァルトの生活の困窮ぶりは書簡に記されている通りである。しかし彼はその貧困生活の中で多くの驚くべき傑作を文字通り「矢継ぎ早」に生み出していく。
 こうしたパトロンと芸術家の関係を、モーツァルトとハイドンの場合で比較すると、両者の音楽の違いが少し見えてくる。ハンガリー国境近くの寒村の車大工の子として生まれたハイドンは、子供の時にウィーンに出て、司教座のあったシュテファン大聖堂の少年合唱隊員になっている。その後の遍歴は、大著H.C. Robbins Landon=David Wyn Jones, Haydn- His Life and Music (Indiana University Press, 1988)に詳しい。彼の音楽活動は、当時ハンガリー領のアイゼンシュタットにあるエステルハージ侯の宮廷楽長としての仕事が中心であった。
 元ハンガリー王国の土地貴族であったエステルハージ家は、カトリック教会とハプスブルク家双方に忠誠を示しつつ土地の集積を進め、ついにはハプスブルク帝国最大の地主になった大富豪であった。特に17世紀末のオスマン帝国のウィーン包囲に対して徹底抗戦した貢献はその忠誠の決定的な証となった。

エステルハージ宮殿 ©Szvitek Péter


 1790年にハイドンが長く仕えたニコラウス・エステルハージ侯爵は死去する。あとを継いだアントン(アンタール)は音楽にさしたる興味がなく、侯爵家の楽団を休眠状態(解散?)に追いやった。それに応じてハイドンもウィーンに移り、ロンドンにも二度旅行して活動範囲を広げている。この時代の作曲家は副業・兼業が盛んであったから、ハイドンは引く手あまたの忙しさであったに違いない。
 1795年、アントンの後を継いだニコラウス2世の要請を受けて、ハイドンは再びエステルハージ家に戻る。そこで侯爵の希望に応じながらミサ曲の傑作(先に述べた「第二グループ」)を1802年までに6曲書き上げる。ミサ曲の力作がこの晩年の6年余りの間に集中しているのは、ニコラウス2世の要請にハイドンが誠心誠意応じた結果であろう。
 このようにハイドンは注文主の土地貴族の希望に極めて恭順であった。この姿勢は、モーツァルトが「抵抗の精神」でもって、コロレード大司教と衝突し、ザルツブルク大司教・宮廷オルガニストの職を(なげう)って、そのあと『フィガロの結婚』や『コジ・ファン・トゥッテ』のような革新的なオペラの名曲を書き上げたのとは好対照をなしている。わたし自身、残念ながらハイドンのオペラを劇場で鑑賞したことはない。それでも、1959年のザルツブルク音楽祭でドイツ語で上演された「月の世界」(Il Mondo della Luna)、ハンガリーのアンタール・ドラティが1970年代に指揮した「報われた真心」(La Fedelta Premiata)のLPレコード(Philip)を入手して聴き入ったことを思い出す。そしていまだにそれらのレコードを手放す気にはなれない。しかし、何がしかの「毒気」を求めるものにとって、ハイドンのオペラが多くの美しいアリアを含むにもかかわらず、繊細で明確な感情の表現という点で、聴くものに物足りなさを感じさせる理由があるように思う。
  ハイドンはイタリア語のリブレット(台本)でオペラを書いた。モーツァルトの傑作オペラもほとんどすべてイタリア語で歌われるが、彼がこの時期からドイツ語でのオペラの作曲にこだわった点は注目されてもよい。ドイツのジングシュピール(Singspiel歌芝居の一形式)の伝統にあると考えられる「後宮よりの誘拐」(Die Entführung aus dem Serail)は、コロレードと決裂した後、1782年、ウィーンで完成している。オーストリア皇帝ヨーゼフ2世の依頼による、本格的なドイツ語オペラであった。対話はレチタティーヴォ(朗唱)で歌われるのではなくセリフとしてドイツ語で話される。
  ちょうどウィーンでドイツ国民劇場(Burgtheater ブルク劇場)が完成したときでもあり、ドイツ語のリブレットを渡されてモーツァルトが作曲に取り組んだときには、ある種のナショナリスティックな感情に突き動かされていたことは十分想像できる。オペラの内容はトルコ文化とカトリック文化のせめぎあいであるという点だけでなく、形式としてもイタリアン・スタイルから離れてドイツ・スタイルを確立しようとしたナショナリスティックな作品なのだ。そしてこのオペラの初演がウィーンで大成功を収めたため、彼が自分の歩む道に大きな自信を得たことは確かであろう(1782年7月27日のレオポルドへの手紙 )。

絵画の場合でも

  教会の中で求められる神聖さは、人々が劇場に求める人間としてのドラマや快楽(pleasure)とは次元を異にしている。端的に表現すれば、天上へのあこがれと現世の快楽の違いであろう。この違いと変化は実は絵画の世界でも並行して起こっていることに注目したい。
 西洋絵画の歴史でも宗教が重要な役割を演じてきたことは言うまでもない。18世紀以前にも、肖像画だけでなく、事件や静物、人々の日常の生活を描いた作品は存在する。しかし絵画作品の中で大きなウエイトを占めたのは、宗教画、聖画と呼ばれる題材で、旧約聖書や新約聖書の中の出来事、あるいは聖人たちの姿を描いたものであった。しかし19世紀になると、徐々に天上界よりもこの世の普通の人々の生活や事件、あるいは風景を描く画家たちが増え始める。
 例えば、フランスのバルビゾン派を代表する画家、ジャン=フランソワ・ミレー(1814-1875)のエピソードは象徴的ともいえよう。ミレーははじめ肖像画や神話画を描いていたが、1848年の2月革命後に美術界の「民主化」が進むと、彼も政治的な支援者を得て農民画へと傾斜して行く。そしてバルビゾン村に移ってからは、よく知られる「種まく人」、「落穂拾い」、「晩鐘」など農民の生活を題材とした多くの傑作を残し、ゴッホなどへも大きな影響を与えるのである。

ジャン=フランソワ・ミレー


 ミレーの絵画で宗教に材を採った「聖画」はほとんどないと思っていたが、例外的なものとして「無原罪の聖母」(1858年 油彩 カンヴァス)という作品があることを知った。しかしこの絵はいわゆる「いわくつき」の作品となった経緯がある。制作の始まりは、ローマ教皇ピウス9世の依頼であったが、出来上がりを見た教皇が受け取りを拒んだのだ。描かれている聖母の表情が、素朴な農民の女性のように見えるからだと言われている。ここにも注文主(ローマ教皇)の希望と、芸術家(ミレー)が描きたいと思うイメージの間の齟齬が見られる。ちなみにこの教皇ピウス9世は「教皇領の終焉」と「統一国家イタリアの誕生」を目撃した教皇であった。宗教権力の弱まりとデモクラティックな芸術の関係を示唆するエピソードであり、筆者は大変興味深く思う。

ミレーの「無原罪の聖母」


 さらにもうひとつ、20世紀に入って絵画に起こった変化を指摘しておきたい。それは、画家が人間の顔を描かなくなったということだ。人間の顔がテーマにはならなくなったのだろうか。「独立展」など、時々友人の画家たちの展覧会に足を運ぶことがあるが、そこで「肖像画」を見ることは極めてまれだ。人間が人間に関心を持ち、特に人の顔にまず注意を集中するのであれば、「肖像画」は依然絵画のテーマとなるはずだ。しかし近年の絵画展では、大きなキャンバスに、抽象化された対象を丹念かつ驚くほど細密に描いた絵が多い。あたかも雄大な自然も、生々しい人間の姿も、事件も、もはや画家たちの主たる関心ではなくなったかのようだ。これは20世紀の音楽が人間の感情と結びつきにくくなったことと共通する現象ではなかろうか。

(第4回につづく)

※この連載は、ナクソス・ミュージック・ライブラリーに全面的にご協力いただいています。
※参考文献については、単行本刊行時にまとめて表示いたします。

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