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小さい午餐

2019年4月17日 小さい午餐

カフェの野菜チキンサンド

著者: 小山田浩子

 朝から市内に出た。私は広島市に住んでいるので市内に出るというのは変な言い方だが、広島で「市内」というといわゆる繁華街というか中心部というか、デパート(そごうやパルコや中国地方にしかないらしい福屋の本店やあとは三越など)がある辺り、地図上の広島市内のさらに一部を指す。市内には美術館や東急ハンズやそれに原爆ドームもあり市電こと路面電車が複数路線走っている。私が住んでいる辺りは広島市の端っこで最も田舎の辺りなので、「市内」に「出る」感は強い。こういう用法は他の地方にもあるのだろうか。人によったら市内ではなくて広島ということさえあるのだ。私昨日広島出たからバターケーキあなたの分も買ってきたよ…その日は地元のメディアの取材を受けることになっていた。朝からしとしと雨が降っていた。通勤通学時間より遅いのであまり混んでいない、でも座れない程度に人がいる市電の中は濡れた布と髪の毛の匂いがした。初対面のインタビュアーと話をし、初対面のカメラマンが写真を撮った。「雨じゃなかったら、外で撮ってもよかったですけどねえ。今日はどうにも、後ろがくぐもっちゃうなあ」カメラマンがそう言いながら窓際に立った私に向けてシャッターを切り、ベテラン風の女性インタビュアーは「そんな言って。カメラさんの腕で、うまく撮ってくださいよ」「そりゃもちろん。はい、じゃあ首だけちょっとこちらに向けてもらえますか、あ、いい感じですねえ、じゃあ体そのままで目線だけこちらに、はい、いいですね、いい感じです」取材と撮影が終わるとお昼時だった。インタビュアーにこの辺りのおすすめのお昼の店は知りませんかと尋ねると「ここから歩いて行ける距離だったら、小さいカフェ、私はまだ入ったことないんですけど、野菜がいっぱい食べられておいしいって聞きました、後輩ちゃんに」と教えてくれた。「小さいから、いっぱいかもしれないんですけど」
 カフェは本当に小さかった。店の前に置かれた細い傘立てに傘がぎっしり差しこんであり、無理にねじ入れると壊れそうだったので私の傘はちょっと飛び出る程度に差した。店側が用意した傘立てに対してこれだけ傘が多いということは相当混んでいることになる。満席だったら別の店に行こう、市内だからいくらでもあると思いながらドアを開けた。狭い店内は折れ曲がっていて、九十度に交わった各辺に2人ずつ椅子のあるカウンター、壁沿いに丸い小さいテーブル席が3つあった。カウンターには客はおらず、テーブル席の1つには日本人の、もう1つには外国人旅行者に見える若い女性がそれぞれ2人ずつ向かい合って座っていた。いらっしゃいませ、カウンターへどうぞ。内巻きになったボブヘアの目の大きな女性がカウンターの中から出てきてにっこり笑って私に言った。私はカウンターに座った。テーブル席に最大4人くらい座れるとしてそれが3つで12人、カウンターが4人分、合計16人がこの店の定員で、現在いる客は5人。いやあのテーブルに4人は無理だあれは2人用なのだ、としても10人つまり半分の入り、あの傘立ては発注ミスだ。目を上げると、カウンターの奥、私の席の正面に大きな真四角のオーブンがあり、中がオレンジ色に光り並んで焼かれつつあるパンか菓子かの陰影が見えた。メニューにはサラダランチ、サンドイッチランチ、パンケーキランチ、スムージーやパフェなどもあった。キッズランチというのもあった。水のコップを運んできたさっきの店員にサンドイッチランチを頼んだ。「お飲み物は?」アイスティーで。「食後にしますか」えーと、いや一緒にお願いします。「サンドイッチランチ、アイスティー、ご一緒で」はい。私は店内を見回した。旅行者風の2人は片方が茶色い髪に白い肌、もう1人は浅黒い肌に黒い髪の毛、2人ともが足を横に出すようにして組んでいる。しっかりした、アウトドアっぽいスニーカー、荷物カゴに大きなリュックが入れてある。最近は広島も外国からの旅行者がとても増えた。こういう大きなリュックを背負ったりキャリーバッグを引いたり、1人だったり2人だったり大家族風の老若男女だったり、声高に喋っていたりそれぞれにスマホを見ていたり寄り添いあっていたり、この2人はもう飲食を終えたのか空のグラスとカップを前に、それぞれぼんやり黙っている。せっかくの旅行が雨でなんだか申し訳ないような気がした。思ってすぐそれは僭越だしむしろ失礼な感慨だとも思った。とはいえ、でもやっぱり、海外は日本ほどしょっちゅう雨が降らない土地も多いと聞く、彼女らはちゃんと雨の装備をしてきただろうかと考えてしまう。傘は。さっきの傘立てのどれが彼女らの傘かわからないが、雨の中この大きなリュックは傘を差してもどこかが濡れるだろう。日本人の方の2人組は顔を近づけてごそごそ小声で喋っていた。2人とも頬を広く薄赤く塗っている。テーブルの上にはグラスや、ケチャップがついた小皿や小さいプラスチック製マグカップや色つきストローがいっぱいに散らばっていた。子連れらしい。それにしては子供の気配がない。声も聞こえない。と思ったら、かすかに、ポロン、ポロンという音が聞こえた。店の奥に白い薄いカーテンで仕切られたスペースがあり『くつぬいでね』という紙が貼ってある。キッズスペースらしい。紺色とカーキ色と黒の靴がそれぞれきちんと揃えて脱いである。またポロン、ポロン、おもちゃの木琴の音だ。キッズスペース、大人しい子供たち、3人いてこの静けさ? 幼児におもちゃの楽器など与えるともう大人の神経がおかしくなるくらいがしゃがしゃ鳴らしまくるものではないだろうか。投げたり。踏んだり。舐めたり殴ったり。それともよほど魅力的な、無言で集中してしまうようなおもちゃが中に? スマホに見入っている? 子供ながらTPOをわきまえて? 何歳? 立ち上がって覗きに行きたい気がしたがそんなことしたら不審者だ。もう1つあるテーブル席にはreservedと焼印で書かれた木の札が置いてあった。
 カウンターの中には2人の店員がいた。1人はさっきのボブの人で、もう1人はショートカットにマスクに薄いゴム手袋でうつむいて料理をしている。さらに奥にもう1人いるらしく声だけが聞こえた。ボブの人はどうも新人のようで、動きの1つ1つをマスクの人と奥の人に指示されていた。あ、お皿出しといてくれますか。お水のコップです。これ冷蔵庫に。終わったらこっち拭いといてください。いえ、全部。旅行者の2人が立ち上がりリュックを背負い始めた。リュックのカラビナか何かがぶつかるらしいカチャカチャという音がした。欠伸混じりのような声で2人は何かを言った。英語にも思えたがよくわからない。奥から、レジ行ってください! 鋭い声だった。はい! カウンターから飛び出してきた新人さんがお会計は別々ですか? と尋ね、私まで一瞬緊張したが旅行者はちゃんと理解したらしく何事か返し、通じ、彼女がレジを打つ音を背中で聞いていると指示を出していた店員が奥から現れてマスクの人から受け取ったサンドイッチの皿を私の前に置いた。重たい音がした。アイラインをピッと長めに引いて、艶のない赤に唇を塗った女性だった。髪の毛は黒くてまっすぐだった。「サンドイッチお待たせしました。アイスティーもすぐお持ちします」分厚くて巨大な皿の上は全粒粉のパンに白いチキンと野菜が挟んであるサンドイッチ、葉野菜のサラダとくし切りの紅白グレープフルーツ、すぐに、これまた分厚いグラスに入ったアイスティーが運ばれてきた。サンドイッチを持ち上げてかじった。クミンと、ほかに何かわからないがスパイスの味がした。酸味もある。レモン系でなくて酢の、それも甘酢とかピクルスのではないかなり鋭い酸味だった。かすかにゴマの味もした。豆の味もした。ちょっと粉っぽい舌触りのペーストがパンに塗ってある。フムスだ。フムスはひよこ豆に白ゴマなど入ったペーストで、1度だけアメリカに行ったときにベーグル屋でメニューを指差して頼み、そこに「Hums」と書いてあったのを「ハム(複数形)」だと思っていたらハムは「Ham」で、だから出てきたサンドにハムがなくてただぽてっとしたベージュのクリーム状のものが挟んであってとっさにがっかりしたが食べたらとてもおいしかったこと、メニューを改めて見るとHumsではなくてHummusと書いてあって、その単語をスマホで調べるとフムスという中東の料理だと判明したことなどを思い出した。ベーグルとゴマの風味と舌触りがとてもよく合った。そのときは確かレモンの味もした気がするが、こっちのフムスはレモンなしのようだった。あるいは酢の味でよくわからなくなっているのかもしれない。いずれにせよおしゃれな味がした。体にも良さそうだった。指を広げて、満遍なく力をかけつつかじり取る。とても具が多いサンドイッチで、1口かじるごとに押さえている手が緊張する。かじった圧ではみ出した具が向こう側から落っこちそうになる。パンは軽く焼いてあるものの野菜の水分で刻一刻と湿りもろくなってく感触がした。ときどきスパイスの粒らしいガリっとした歯ごたえがありその度一瞬肩がひやりとした。合間に飲むアイスティーがものすごくおいしく感じられた。
 ドアが開き新しいお客が入ってきた。若い、学生っぽい女性2人連れだった。あのー。予約してたタカムラなんですけど。お待ちしておりました、そちらのテーブルにどうぞ! そう言いながらアイラインの店員がきびきびと出てきてreservedの札を取ってそこに2人を座らせた。マスクの店員がボブの店員に「お水お願いします」と小さい声で言った。ボブの店員ははい、と答えた。雨の匂いがした。窓越しにも雨脚は強くなっており、店内に灰色の雨と芽吹いた街路樹の色が混じって透け皆顔色が悪く見えた。不意に足がふわっとした。かじりかけのサンドイッチを両手に保持したまま見ると、子供が1人、私の椅子の足元にいた。くるっとした髪の毛を2つ結びにした可愛い女の子、女の子は私と目が合うと黙って立ち去り、店内のディスプレイのアンティーク風のキャビネットの前にしゃがむとその取っ手を撫で始めた。まるで猫でも撫でるかのような手つき、靴を履いていなかった。雨の店内で靴下姿だった。紺色に白い模様が編みこまれたとてもおしゃれな靴下だった。キッズスペースの中からは相変わらず時折ポロン、ポロンと聞こえる。女の子に何か言おうと思ったが何をどう言っていいかわからず、母親たちを見ると2人は相変わらず深刻そうに何事かを話しこんでいた。顔を正面に戻すと、ボブの店員と目が合い、向こうは少し困ったような顔で微笑んだ。この人は私より年上かもしれないと思った。女の子はふっと立ち上がりキッズスペースの中に戻っていった。サンドイッチは巨大ではなかったが野菜に噛みでがあり、スパイスのせいもあってか胃がどんどん重たくなった。
 アイラインの店員がパンケーキの皿を予約席に運んだ。小ぶりで分厚いパンケーキが何枚か積み重なり、そのわきにホイップクリーム、ミント片、赤いソースがかかっていて不安定そうで、しかし、店員の足取りは確かで誇らしそうだった。わあっと明るい声が上がった。おいしそう! おいしそう! 後を追うように、ボブの店員がグラスの中がグラデーションのようになったソーダをその席に運んだ。ピンク色と黄色、キッズスペースからおかっぱ頭の子供が出てきて母親の足に触り何か言った。母親はため息をついて立ち上がりキッズスペースに顔を突っこんだ。パンケーキの2人は写真を撮り合っていた。注意して食べていたが私の皿の上には野菜やチキンやフムスが落ちて散らかっていた。それをフォークですくって食べた。サラダには砕いたナッツが散らしてあった。出されてそれなりに経っているのにグレープフルーツはキンと冷えていた。
 みたび店のドアが開いた。それまで真顔だったアイラインの店員が満面の笑みで、あっ、チエちゃん! と言った。「お久しぶりでーす」「久しぶり!」「元気?」マスクの店員も顔を上げて笑んだ。マスクからのぞいている頬が、若い母親たちと同じように平らな感じに塗ってあった。黄色っぽいオレンジ色だった。「はい! おかげさまで! 今日雨すごいですねー」「あっ、チエちゃん、傘、こっちの奥に置いていいよ、表の傘立ていっぱいでしょ?」アイラインの店員が言った。すぐ閉められたドアから入った湿った冷気が時間差で私のところにきた。「あ、いいですか? じゃあそうしまーす」喋りながら彼女は1度入った店内から出て細い傘を持ってまた入ってきた。私はボブの店員に目で合図して立ち上がった。彼女はすぐに伝票を持ってレジに来た。チエちゃんの傘の先端から落ちたらしい水の跡が木の床にずるずるした形で染みていた。ごちそうさまでした。ありがとうございました、またどうぞ。はい。満杯の傘立てからは旅行者たちの傘が抜かれ、学生風女子たちの傘が加わり、チエちゃんの傘は1回差しこまれてまた抜かれ、さっき飛び出ていた私の傘は今は奥まで収まっていた。1番深いくらいだった。それを引っ張り出して差して歩いて市電に乗って市内を出た。歯のどこかに引っかかっているらしいスパイスの粒がずっとじゃりじゃり匂っていた。

庭

小山田浩子

2018/03/31発売

それぞれに無限の輝きを放つ、15の小さな場所。芥川賞受賞後初著書となる作品集。

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考える人とはとは

 はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
どうして自分が「考える人」なんだろう―。
手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか―手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。

「考える人」編集長
金寿煥

著者プロフィール

小山田浩子

1983年広島県生まれ。2010年「工場」で新潮新人賞を受賞してデビュー。2013年、同作を収録した単行本『工場』が三島由紀夫賞候補となる。同書で織田作之助賞受賞。2014年「」で第150回芥川龍之介賞受賞。他の著書に『』『小島』『パイプの中のかえる』など。

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