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デモクラシーが生み出す人間類型

 第一次世界大戦の勃発から第二次大戦の終焉までを一括りにして「第二の30年戦争」と呼ぶことがある(W.チャーチル)。この期間は人類史上の一大転換点をもたらすような激しい衝撃を人類社会と人間精神に与えた。実は、すでに第一次大戦の少し前あたりから、20世紀の多くのジャンルの芸術において、抽象的、観念的な芸術、いわゆる「新芸術」が現れはじめている。このいささか衝撃的な「新芸術」の出現は、社会の底流にマグマのように溜まっていた「大転換」へのエネルギーの発出とも言うべき現象と考えられる。
 スペインの哲学者オルテガ・イ・ガセット(1883-1955)が指摘したように、この「新芸術」が現れる以前の19世紀の芸術の主流であったロマン主義は、まさに民衆様式(popular style)であり、デモクラシーの長子として、大衆から最高の扱いを受けてきたと言えよう(『芸術の非人間化』)。確かに、ロマン主義の文学や芸術はデモクラシーの進展と軌を一にしながら展開している。そして自由な「個」の強調、「条件の平等化」を中核とする近代デモクラシーの思想は、個人主義と物質主義に傾斜しやすい人間を生み出す強い力を持っていた。

ホセ・オルテガ・イ・ガセット


 1830年代にアメリカを旅したA. トクヴィル(1805-1859)は、デモクラシーと個人主義・物質主義との論理連関を、次のように推論している。デモクラシーによって統治される社会では、貴族制とは異なり、平等な条件におかれた人々は自己の物質的な福祉(well-being)に関わる事柄とその可能性に強い関心を払うようになる。物質的な福祉こそが生活の安寧のための大前提と考えるからだ。その結果、人々は私的利益追求のために自己の殻に閉じこもり、他者への配慮を極端に弱め、公的事柄に対して無関心になる。そうした「個人」を、何らかの修練によって、公共精神をもつ「市民」に転化させない限り、個人の政治的無関心につけ込んだ「専制」が政治を支配するようになる、とトクヴィルは見通していたのである。

アレクシ・ド・トクヴィル


 デモクラシーのもとでは、人々は、「いま、わたし」に関わる事柄に注意を集中させ、「未来と他者」への眼差しを失うようになる。だが、人間には、感覚による経験を超えた「善きもの」「美しいもの」への願望というものがある。すべてが合理的に説明され、すべてが物質へと解体され、肉体と共に滅ぶという物質主義の教説をそのまま受け入れることはできないのだ。では、われわれは何を望み、何を必要としているのだろうか。トクヴィルは、広い意味での宗教感情が人間の最も崇高な力を目覚めさせるだけではなく、私的な世界の殻に閉じこもろうとする人間を、他者への奉仕に向かわせる力を持つと見るのだ。
 この宗教的感情の力が衰退したとするならば、デモクラシーはどのような姿をとるようになるのか。キリスト教が広く浸透していた西ヨーロッパ社会では、道徳のベースを形成していた宗教の弱体化は、おそらく何らかの形での道徳の「刷新」を必要とするはずだ。しかしその「刷新」された道徳が秩序をもたらす力を持たない限り、自由と平等という理念だけを前面に押し出すような社会にはヒズミやユガミが生まれることは避けられない。なぜなら、自由は道徳なしには保持しえず、道徳は宗教なしには根拠を失うことになるからだ。

天に垂直に向かう祈り、横へ広がる陶酔

 さらに、形式的な平等という理念を奉じる社会は、現実に人と人の間に能力や好みの差があることを潔く認めようとはしない。つまり、デモクラシーは「階級」というものを建前としては否定するのだ。だが、現実には、学問、芸術などあらゆる分野で、人間は二つのグループに分かれてしまう。この分断は「新芸術」の登場の折にも明らかになった。「新芸術」を理解し受け入れる人間と、それを感じることができず「新芸術」に嫌悪を示す人間、という二つのグループである。だがこの分断の事実を認めないことが、デモクラシーの社会では良識があると考えるのだ。
 オルテガは、法によって(de jure)なのか、事実(de facto)においてなのか、「人間は平等だ」という曖昧な主張に疑義を呈しつつ、デモクラシーの中核にある「個の自律と平等」を尊重する思想が、芸術においては「形式よりも内容」に重きを置くロマン主義という形で現れたと見る。つまり「わたしは…」という自意識が、ある種陶酔にも似た感情として表現され、それがすべての人に理解されるようにと訴えるのだ(ここでいうロマン主義とは、ウィーン古典派の後に続く時代の作曲家群を指し、特に厳密なスタイルを定義して論じているわけではない)。
 この「わたしは…」という意識が音楽で表現された例は、ロマン派以前の音楽、例えばJ.S. バッハ(1685-1750)の音楽の中にももちろんあった。しかしバッハの音楽とロマン派における自意識の発現には根本的な違いがある。それは、バッハの場合、「わたしは…」が世間という水平方向の「他者」に向けて歌われるのではなく、「わたしの神よ…」という形で垂直上方に向かう祈りとして歌われていることだ。

ヨハン・セバスチャン・バッハ


 そのひとつの例として、バッハの『マタイ受難曲』の中の「憐み給え、わが神よ(Erbarme dich, mein Gott)」というアリアを聴いてみたい。アルトが独奏バイオリン、弦楽(バイオリン、ビオラ)とポジティブオルガン(continuo organ)の伴奏で歌う、7分余りのアリアである。人の心を深いところで揺さぶるこのアリアは、自分の楽器でも弾いてみたいと、様々な楽器に移して演奏されることもある。
  この曲が描いているのは、マタイ伝の中(26-69~75)の、ペトロがイエスと一緒にいたことを指摘され、あの連中の仲間かと三度尋ねられて、「そんな人は知らない」と誓った後、鶏が鳴いた、という「ペトロの否認」のエピソードである。イエスが、ペトロに、今夜鶏が鳴く前に、お前は三度わたしを知らないと言うだろう、と言われたことが実現する。イエスの言葉を思い出してペトロは外へ出て激しく泣く。その悔いの涙を、「憐れんでください、わが神よ、私の涙ゆえに」と歌う。「わが神よ」、ではあるが、この嘆きと祈りは、上方に向けられた祈りであって、水平方向にいる同じ人間、あるいは「世間」に向けられたものではない。悲しみの感情を音楽として表出する場合、デモクラシー時代の「ロマン派」音楽は、宗教曲でさえ人間の嘆きや悲しみを、他の人々に向けて示すという形をとるものが多い。聖母の悲しみを歌うロッシーニ(1792-1868)の『スタバト・マーテル』(1842年)が聖堂内で演奏されるのを想像することは難しい。ドボルザーク(1841-1904)の『スタバト・マーテル』(Op.58)は例外的に垂直上方への祈りを感じさせるが、それでも、最愛の娘を喪った彼の癒しがたい悲嘆の声が聴こえるような気がする。
 こうした悲嘆については、ショパン(1810-1849)のノクターンを聴くとその性格がはっきりする。音楽が向かう方向の差は、音楽の形式の違いにも表れている。例えば、ショパンの音楽の多くは、バッハの音楽に多く見られるポリフォニー(多声音楽)ではなく、いわゆるモノディ(単声)である。もともと、モノディは16世紀末に現れた新しい独唱スタイルの弾き語りの音楽に多く見られ、新たな音楽表現が求められた時代が生み出した作曲上の自由度が高い音楽形式であった。バッハ以前のG.カッチーニ(1545-1618)やC.モンテヴェルディ(1567-1643)の作品に分かりやすい美しさを感じるのは、多声でないことが影響している。美しい単旋律のメロディーが、美しい和声(例えば分散和音)に支えられながら、作曲者自身の心情を切々と語りかける曲が多い。

フレデリック・ショパン


 ショパンのワルツ、マズルカ、ポロネーズなどの3拍子の舞曲にはそれぞれリズムの共通性が見られるものの、ノクターン、バラード、即興曲などには、リズムの一貫性はなく、形式もほとんど自由であり、多声音楽は原則として現れない。その多くは、王侯貴族を想定した実用音楽ではないとしても、産業化の進展に伴って大量に現れはじめた富めるブルジョワジー向けのサロンの音楽であったり、作曲家の心情の吐露、あるいは情感の洗練された表現ともいうべきものであった。ショパンのワルツが、「心の踊る場の円舞曲」と言われたのは。実用性を超えた美が意識されていたためである。
 ショパンのノクターンの第1番(Op.9-1)は、夜の窓辺で月や星を眺めながら、愛する人への気持ちを歌っているとは言えても、決して、己の罪を悲しみ、嘆き、悔悛の心を天の神に向かって垂直に訴えかけたものではない。

ロマン派初期にバッハは復活したのか?

 1820年代以降、ロマン主義が主流となり、もはや忘れられたかに思われたバッハの多声音楽が、1829年3月11日、『マタイ受難曲』がF. メンデルスゾーンによって100年ぶりに再演され評判を呼ぶ。この「事件」をもって、「バッハ復活」が語られることが多い。
 しかしここでひとつの素朴な疑問が湧き上がる。ロマン主義時代にバッハの多声音楽が復活したのは一体なぜなのか、という問いである。重要な問いではあるが、この問題を考える場合、二つの点を区別しなければならない。

フェリックス・メンデルスゾーン


 ひとつは、メンデルスゾーンが『マタイ受難曲』を再演したことは、バッハの多声音楽がコンサートで一般聴衆によって受け入れられるようになったことを意味するのかという問題。いまひとつは、職業音楽家、特に作曲家たちによってバッハの多声音楽が深い敬意と賞賛の対象となり、バッハの作品の堅牢な理論構造から霊感を得た彼らが、作曲技法の革新の着想を得たという問題である。
 前者については、「復活」という言葉は適切ではなかろう。なぜなら、ロマン派全盛の19世紀を通して一般聴衆がバッハのフーガやコラールに強い関心を示したとは考えにくいからだ。後者については、むしろ、すでに18世紀末に、モーツァルトがバッハやヘンデルの楽譜の存在を知らされ、大いなる感動と熱意でそれらを学び、自分の曲の中に取り入れていた事実の方が重要だろう。実のところ、19世紀に入ってからも、ほとんどの作曲家が「バッハ党」であり、バッハ音楽の基礎をなす「対位法」は(ソナタ形式とともに)ヨーロッパ音楽の主流、あるいは底流であり続けたことにこそ注目すべきなのだ。
 あのフランスの革命児ベルリオーズ(1803~1869)がバッハを好まなかったなどの例外はある。しかしロマン派の巨匠ワグナーでさえ、『ニュルンベルクのマイスタージンガー』で対位法の実力を誇示しようとしている。第2幕第7場の「殴り合いのフーガ」の始まりはバッハ風ではある。しかしあとは筆者のような耳の良くない聴き手にとっては雑音のようにも聴こえる。20世紀の大指揮者トスカニーニが演奏不能として「簡略版」を作っている。ロマン派の中ではめずらしく旧権力者の王侯貴族と終生交わった作曲家ワグナーが、バッハへ偏愛とも言うべき賞賛の姿勢を示していることには、プロの作曲家としての意地のようなものを筆者は感じる。
 ヴェルディも最後のオペラ『ファルスタッフ』のフィナーレで、登場人物8人全員が唱和する大フーガを書いている。「世の中はすべて冗談だ(Tutto nel mondo è burla)、人間はすべて道化師だ」、さらに、「だれもが他人のことを笑うけれど、最後に笑う者だけが本当に笑うんだ」と続く。このフーガもヴェルディの大ファンの筆者でさえ、なんとなく違和感を覚える。
 いずれにせよ、『マタイ受難曲』の100年ぶりの再演によって、バッハが19世紀の30年代に突如息を吹き返したと見るのは正しくない。むしろ、音楽理論の大革新者としてのバッハの貢献は、一般聴衆にとっての復活ではなくて、作曲家にとって(恐らく20世紀の半ばの調性音楽まで)常に大きな啓示をもたらし続けてきたと考えるのが適切であろう。

バッハはプロにインスピレーションを与え続けた

 実際、バッハの楽譜は、彼の死後18世紀末から19世紀の初頭にも出版されている。「フーガの技法」「モテット集」など、部数は少ないものの、ベルリン、ライプツィヒ、パリでも出版されている。よく考えて見ると、バッハの多くの息子たち、学生たちがバッハの死とともに演奏や教育活動を突如やめてしまうとは考えにくい。『平均律クラフィア曲集』をはじめとする鍵盤楽器用の曲が教材として極めて高い価値を持つことは、音楽を職業とするプロの教師たちは十分知っていたはずだ。
 その点を18世紀末からの著名な作曲家について具体的に見ておく必要がある。先に触れたように、モーツァルトはバッハの楽譜を熱心に学んだひとりである。モーツァルトが、父と姉への手紙(1782年4月10日、4月20日)の中で、ウィーンでスウィーテン男爵からバッハとヘンデルの楽譜のコレクションを見せられ、その音楽に格別の関心を示したこと、そして毎週日曜日の昼12時から、スウィーテン男爵邸で開かれた演奏会ではヘンデルとバッハ(その息子、W.F.バッハとC.P.E.バッハの作品も含め)だけが演奏されたことを熱っぽく語っている。またモーツァルトはバッハが作曲したいくつかのフーガ(W.F.バッハの作品も含む)に導入部を加えて弦楽三重奏用に編曲(K.404a)している。またK.405の5つの弦楽四重奏用のフーガもバッハの『平均律』からのものである(この編曲がモーツァルト自身によるものなのかの確証は得られていないとする専門家もいる)。
 いずれにせよ、1750年にバッハは亡くなったが、死後30年経っても作曲家の間ではバッハは決して忘れられた存在ではなかったのだ。少年ベートーヴェンも、1783年3月にボンでデビューを飾った折、手渡されたバッハの『平均律』のプレリュードとフーガを初見で弾いたという信じられないような逸話が残っている(Thayer’s Life of Beethoven)。そして、ウィーンに出てからも、スウィーテン男爵のサークルから誘いを受けている。ベートーヴェンが亡くなったとき(1827年)、遺品の中から、バッハのモテット、『平均律』、 『インヴェンションとシンフォニア』、『トッカータ(D Minor)』の楽譜が見つかっている。

ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン


 1830年代になると、作曲と音楽評論の両分野で才能を発揮したシューマンがロマン派の音楽を主導するようになる。シューマンが絶賛したショパンもブラームスも、驚きとともにバッハの音楽への敬意と賞賛を示している。そんなシューマンが、メンデルスゾーンのバッハ『マタイ受難曲』再演に評論家として強い関心と共感を示したのは不思議なことではない。作曲家としてのシューマンは、バッハの無伴奏ソナタに鍵盤楽器の伴奏を付けたり、B・A・C・Hの音を素材としたフーガを作曲している。ブラームスがバッハの無伴奏バイオリンのための「シャコンヌ」をピアノの左手用に編曲しているのも、バッハへのオマージュなのだ。
 いずれにしても、その音楽が単声であるか多声であるかは、表現された感情と理性が「どこから発して、どこに向かうのか」という点と重なり合っていると考えられる。単声では水平方向に向かう感情要素が強まり、多声は垂直上方へ向かう知性だという単純な対比を主張するつもりはない。しかし単声の音楽は「己を語る」個人主義の姿勢を反映しやすいという点で、ロマン派の音楽の多くはデモクラシーと親和性を持つことは否定できない。もちろんこうした見方に対して、例を挙げながら反論することはできる。バッハ以前にもモノディ(単声音楽)があったことは事実であり、ロマン主義の時代にも対位法の作品が全く生み出されなかったわけではないからだ。

(第5回につづく)

※この連載は、ナクソス・ミュージック・ライブラリーに全面的にご協力いただいています。
※参考文献については、単行本刊行時にまとめて表示いたします。

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