泳げなかった高橋さんは、桂コーチの特訓によってついに泳げるようになりました。しかし、まだまだ泳いでいる途中で挫折し、プールの途中で立ってしまう癖を克服することができません。「なんで立っちゃうの?」と呆れ顔の桂コーチ。ファンの多いこの連載の魅力は、「泳げなかった人がいかにして泳げるようになったか」が明解に描かれていることはもちろん、ときに禅問答のように謎に満ち、ときに冷徹な科学者のように「すげない」口ぶりで、か弱い中年オトコ高橋さんを圧倒し、的確に導く桂コーチ(念のため、若い女性です)のキャラクターにも負っています。

 今回も桂コーチのワンポイント指導は短刀のようにキラリと光り、自信なく泳ぐ高橋さんの無防備なココロに突き刺さります。どうもキレイに泳げない。泳ぎに、力強さが足りない。高橋さんは一念発起して桂コーチから個人レッスンを受けることにします。場所はプール近くの喫茶店。以下は高橋さんの文章で。

「それじゃ、テーブルの上に手を置いて下さい」
 陸に上がった桂コーチは、水中とほとんど変わらない口調だった。言われた通りに右手をテーブルに乗せた。
「そのまま、手に力を入れて下さい」
 言われるままに力を込める。コーチがじっと見つめているので、歯を食いしばって力を込めると、テーブルがカタカタ鳴った。
「今、テーブルを押さえつけたでしょ」
──はい。
「誰もテーブルを押さえろとは言ってないのに、押さえつけた」
 その通りである。
「人は力を入れようとすると、必ず下に向かって押さえつけようとするんです」

 高橋さんはこの個人レッスンのなかで、「泳ぐときに脇を伸ばすとはどういうことか」を会得します。桂コーチは様々な方法を使ってその秘訣を体得させながら、こうも言うのです。「これが水泳です。力は入れない。脇を伸ばして体をひねる。これが水中で力を生むんです」

「オレは幼稚園の頃から泳いでたもん」とおっしゃる方でも、どうか騙されたと思ってこの「泳ぐ人」を読んでみてください。きっと自分の泳ぎへの認識ががらがらと音を立てて崩れてゆくはずです。「泳ぐ」ことの深さ素晴らしさを、文章によって体感する連載「泳ぐ人」は、ますます哲学的に、そしてますますニンマリと笑える展開になってきました。